本書は考古学者の著者が、これまで歴史学者や民俗学者らが遺した具体的な資料にもとづいて、文字に残されることのなかった縄文人の思想、世界観に迫ろうとしたものである。
縄文文化とは、約1万5000年前から、先島諸島(沖縄県南西部の宮古・八重山両諸島)をのぞく南西諸島から北海道にかけて、日本列島全体に展開した狩猟・漁労・採集の文化である。一方、紀元前10世紀後半になると、朝鮮半島から水稲耕作の文化が伝わって九州北部で弥生文化が成立し、数百年かけて関東から東北にまで広がった。
では、弥生文化の拡大のなかで各地の縄文人は駆逐されてしまったのか? そうではない。北海道と南島、そして各地の海辺の人人(海民)は弥生農耕文化を積極的に受容しようとしなかった。彼らは弥生時代以降も、縄文の伝統である狩猟や漁労などに特化して縄文の習俗や思想を受け継ぐとともに、農耕民と共存・交易し、補完的な分業体制をつくりあげた。そのことを著者は、アイヌの伝説と『古事記』『日本書紀』『風土記』の古代海民の神話・伝説に共通するモチーフがあることに気づいたことから始めて、先行する考古学の成果をもとに跡付けている。
ここでそれを詳細にのべることはできない。だが、海民は弥生時代に入ると、サメやマグロ、カツオなど外洋での漁や、アシカ、クジラ、ウミガメなど海獣類の猟、アワビの大量採捕といった高度な技術を必要とする漁業に従事していたことがわかっている。
また、北海道の人人も東日本や西日本の海民から新たな漁労具や漁労法を導入し、外洋での大型のヒラメやメカジキの漁をおこなうようになった。農耕民も漁労はしていたが、それは海辺での網漁やタコツボを使ったイイダコ漁など、経験や技術をあまり必要とせず性別や年齢に関係なくおこなうことができる漁だった。
また、弥生時代には広域の海上交通が発達したが、それを担ったのは縄文時代から蓄積されてきた海の自然知を受け継ぐ海民だった。たとえば現在の青森県日本海側から北海道へ往来していた海民は、日本海から太平洋に向かって流れる激しい潮流を避けるため、青森からはるか沖合に出て、そこで北へ向かう対馬海流に乗って一気に小樽近郊のカムイ岬に到着していたという。つまり彼らは、季節や天候によって変化する海流の知識や、山岳によって海上の自分の位置を知る測量術といった、長い経験のなかで培われた自然知を身につけていた。北海道には、弥生~古墳時代に本州の海民が訪れ、アイヌの祖先集団と交流していた跡が、洞窟壁画や墓などとしてたくさん遺っている。
今の生きづらさと対極の価値観
そのほか本書では、奄美や沖縄諸島で産する巻き貝の貝殻は、当時装飾品として日本列島全域で珍重されたが、それを運んだのは長崎を中心とする九州西北部の海民だったこと、潜水漁民の拠点だった筑前鐘ケ崎の漁民は、壱岐、対馬、山陰から能登半島まで出漁や移住をくり返していたこと、日本の海民は朝鮮半島南部やオホーツク・大陸沿海州の海民とも深く交流していたことなども紹介している。のちに世界一の漁業大国になった日本の前史ともいえるものだ。
著者が注目するのは、彼らの生活誌にあらわれた生き方や気風である。それは、一言でいえば「商品交換への強い違和感、贈与への執着、分配を通じた平等、強制や圧力の拒否、他者や土地とのゆるやかなつながり、中心性を廃した合意形成」である。つまり、「魚や獣は神からの贈り物であり、人人はそれを平等にわかちあうことによって互いに結ばれる」という考え方であり、それは階級が発生する以前の縄文文化に照応している。
著者はそれが2000年前に消え去った過去ではなく、第2次大戦前には京都や青森や沖縄の漁村に共同労働・平等な分配という習慣が残り、「共産主義者の村」と揶揄されたこともあると指摘している。そして、「資本を王とする新たな奴隷制であるこの社会のなかで、今の生きづらさとは対極の生がそこにあるのではないか」というのが著者の問題提起である。
もちろん縄文時代の平等は、生産力がきわめて低い下でそうしなければ餓死してしまうことから生まれた平等であり、外部に閉ざされた狭い共同体のもとでのことであった。だがそれから2000年あまりたった現代社会は、生産力が強力になって物がありあまっているのに餓死してしまう社会である。
本書は、日本人はどこから来たのかということを考えさせるとともに、たかだか200~250年の資本主義を永久不変のようにみなす凝り固まった考えをとり払って、歴史を変化・発展するものとしてとらえるうえで刺激的である。
(講談社現代新書、266ページ、定価840円+税)