いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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実録・長崎原爆「核廃絶にむけて」㊥   長崎市・井上幸雄

8月9日、被爆直前の我が家の様子。裁縫する母と知人の脇で寝そべっていた私。(筆者・画)

やってきた8月9日の朝

 

 さて前述の8月9日、壕で夜を過ごした私達一家は、警報解除のサイレントと共に、母に促されながら、揃って真っ直ぐ我が家に向かった。


 家に帰り着くと直ぐ母が急いで作った雑炊で遅めの朝食を摂った。
 兄は雑炊を掻き込むと、慌ただしく身仕度をして飛び出して行った。学徒動員のため三菱電機に出勤するのだ。


 やがて、今度は小学3年の弟晴男と3歳の妹美和子も近所の友達の所へと遊びに行くといって次々に出て行った。入れ代わって、我が家とは筋向かいに住む大石の小母さんが訪ねて来て、部屋の真ん中に座って裁縫をしていた母と楽しげに雑談を始めた。


 私も学徒動員なのだが、私達の学校(県立長崎中学校)では、私共2年生は学校工場で働かされていた。8月に入ると、夏休みという事もあり、1日午前と午後の2交替制で働く事になっていたのである。


 私は学校工場内の電気配線を管理する仕事なのだが、専門知識が必要である上、危険を伴う仕事でもあり、作業はほとんど指導係として配属されていた年配の専門の方が操作・処理してくれた為、私達はその道具運びや簡単な手伝い程度の作業をするだけでよかった。従って極めて楽な仕事だった。だからだと思うが、この仕事は学年で体の小さかった私と吉田君の2人だけ配当されていた。
 私はそれが大いに不満だった。私と吉田君以外の者は皆、大きな旋盤機械を操作して、魚雷の部品を作る等、一人前の工員並みの仕事をしているのに比べると、私達はまるで子供扱いか半端者扱いに感じられて心外だったのだ。しかし、どうする事もできなかった。


 ところで、8月から2交替制になったので、私と吉田君がそれぞれ午前と午後に分かれて受け持つ事になった。
 今日は偶然午前中を吉田君、午後を私が担当する事になっていて、12時半から1時が交替時間だったので、まだしばらくゆっくりできるはずだった。


 空はよく晴れ渡っていて、今日も暑い一日になりそうだった。私はシャツを脱ぎ、上半身裸になって、部屋の隅にある自分の勉強机の前に寝ころんだ。そのうち、出発する時間まで本でも読もうという気になり、数日前から読みかけていた世界文学全集を持って来て、机の前で仰むけに寝そべり、早速読み始めた。


 1時間程も読んでいたのだろうか。部屋の中央では母と大石さんが話をしている。机の傍のガラス戸の外からは甲高い蝉の合唱が絶え間なく聞こえている。家の横を流れる川の向かいの家から先程来、台所で昼食の用意でもしているのか、物を刻むトントントンというリズミカルな響きが聞こえてくる。そういう様々な音に加え、川を渡る涼風が私の裸の体を気持ちよく包んでくれて、いつ知れずうとうとと快い眠気に誘われていた。
 その半覚半睡の状態の中で、先刻からの様々な音に交じって、いつからか別の音が交じり込んでいるのに気がついた。それは、これまでの母達の会話、蝉の声、まな板の音の共演の遙か上空から、それらのすべての音を包み込むように響いている。その音を耳にした瞬間にその正体がすぐわかった。


 …「飛行機の爆音だ!」

 このところ飛行機の爆音には誰もが神経質になっている。半覚半睡ながら私の神経もこの爆音に集中せざるを得ない。
 かなり上空を飛んでいるようだ。1機か2機の小編隊と聞きとった途端、ふと、これはもしかすると日本の特攻機かもしれないと思った。最近大村の基地からゼロ戦等の少数機による編隊が鹿児島の特攻基地に向かう姿をしばしば目にしている。学校でも、先生から「あれは特攻機だから、武運を祈り、且つ感謝の心をこめて見送るように…」という訓示もあった。
 ともあれ、爆音から少数機らしいと判断した時から、日本機に違いないという推測が深まり、緊張はゆるんだ。


 しばらくその爆音に耳を澄ます。市の北北東浦上方面上空から、市の中央部にかかっているようだ。これから南方鹿児島方面を目指すに違いない。


 私がこの時、この爆音が友軍機に違いないと思った根拠の一つは、対空砲火の音が全く鳴りをひそめていたからでもある。山に囲まれた長崎の街は、周囲の高い山の頂きに何箇所も高射砲陣地が構築されていた。B29は高度1万㍍前後の高度を保って来襲する事が多いから、射程距離の短い日本の高射砲は必然市周辺の最も高い山に陣地を作って射程の不足を補ったと聞いている。金比羅山・稲佐山の陣地等がその代表的な例だ。


 従って、敵機来襲ともなると、これらの山々の陣地から豪勢に火箭(せん)を噴き上げ、たちまち長崎の街はその炸裂音の坩堝(るつぼ)と化すのである。ところが、この日はこの時まで高射砲の音を聞く事はなかった。
 爆音は何に妨げられる事もなく、遙かな上空を渡っていく。大して大きな音ではない。ゼロ戦級の小型機がかなり上空を飛行していると感じる程度の音だ。


 私が交じり合った色々な音の中からこの爆音をとらえ、その追跡を始めてから今まで、丁度1分程も経っただろうか。ふと、その音に変化が起こった。急旋回して更に高度を上げるような甲高い音を立てたのである。
 「ハテ?」とその音の変化を気にした瞬間だった。閉ざしていた眼に強烈な光が射した。まぶたを貫いて眼の中全体がパァッと明るくなった。しかもその光は次第に強さと明るさを増していく。
 とっさに思った。「爆弾の炸裂だ!」


 思わず固く固く眼をつむる。その固くつむったまぶたの上から、まるで百も二百ものフラッシュを同時に浴びせかけたような真っ白な光を見た。これまで聞こえていた蝉の声、まな板の音…すべての音がこの瞬間、ハタと消えた。


 その静寂の中を硬直したような頭がひらめく。
 「爆音は敵機だったんだ! その敵が落とした爆弾が、今僕の前で炸裂したんだ!」
 そして思った。私の家にもいつかは空襲被害の順番がまわってくるに違いないと予感していた事が、今、正に起こっているのだ。


 まぶたに射す光が、ジワーッと熱さ、強さの度を増していくようだ。やがてこの体が灼熱の光と共に瞬時に焼け尽きて粉砕してしまうに違いない。


 全身を硬直させて、その瞬間を待った。と、何と、まぶたの光と熱はその後数秒おいて、うっすらと弱まっていくではないか!
 正直ホッとした。「しめた! 助かるかもしれない!」不安のどん底から一縷の光を見る思いでその薄らいでいく光を見つめていると、その途端、ドドドドッという物凄い地響きと共に、家全体が地面諸共ゆさぶり煽り立てるような轟音・激震のるつぼに放り込まれた。


 「爆発で家が吹き飛ばされているんだ!」
 とっさにそう判断した。そしてそれにしては仰向けに寝ころんでいた自分の姿勢を、今さら最悪の姿であったと自覚し、日頃訓練されたように早く目と耳をおさえ、うつぶせにならなければと思う反面、「待てよ。今の瞬間僕は生きているようだ。この姿勢を変えれば、かえってそれが命取りになるかもしれない」という想念が走り、依然、仰向きのまま眼をつむり、両手を広げて、煽られ激震する畳を必死でおさえる形で、じっと耐えた。


 家鳴り震動はその後ますます激しさを増し、柱のきしむ音、板壁がバラバラと砕け落ちる音等が響き渡る。
 懸命に畳を抑えている私は、床下から吹き上げ押し上げる物凄い力を背中に感じながら、更に私の体の上を先程来引き続いて、ドドドドッと唸りを上げながら爆風が激しく吹き渡っていくのを感じていた。この時、自分の体に砕け落ちる板切れ、土くれの中で、私は間もなく家の下敷きになって死ぬかもしれぬ。そう思い、やがて訪れるかもしれぬ自らの死を覚悟した。


 ふと、以前これと同じ覚悟をした事があったような思いがひらめく。それは私が昨年8月、小川町の防空壕で空爆に遭い、死を前にして孤独感と恐怖に戦いた思い出が重なって思い出されてきたのだ。
 しかし、あの時と違って孤独感・恐怖等の感情はうすいようだ。昨年の場合と違って、今は私のそばに母がいる。母と一緒に死ねる…その思いがたとえ絶望の淵にあっても私に救いと安息を与えてくれるのだ。


 母はどうしているだろう? 母の方を見てみたかった。しかし、家鳴り震動の豪音は寸分の動きすら許してくれそうもなかった。…「今すぐ死ぬより生きていた方がいい!」…死を覚悟しても、やはり生への執着は断ち難いと見える。…そう思って、再び元の姿勢のまま体を固くしていた。
 ドドドッという豪音と振れはおさまる気配もなく続いている。又、ひときわ音と振れが大きくなったようだ。
 「助かりたい!」…うずくような思いが強くこみ上げてくる。と、その刹那、頭が砕けたと思われる程の衝撃と激痛があった。そして、頭の周辺に何やらバラバラッと散らばる音を聞いた。
 意識がすぅーっと薄らぐのを感じる。「何事が起こったのか? 家が破壊され、その家の棟柱が砕れ落ちて僕の頭に激突粉砕したんだ。そして割れた頭から脳味噌が飛び散ったんだ!」薄れていく意識の中でそんな事を考えていた。

 

誰もが疑った直撃弾の炸裂

 

幼い弟たちをつれて通りに出ると長崎駅方面から炎と黒煙が迫ってくる(筆者・画)

 しかし、しばらく夢か現かの境地をさまよいながらも、失神する事もなく、まもなく意識が戻った。
 「あっ、僕は未だ生きてる!」頭の中で自分自身の意識の存在を確認すると急いで眼を開けて周囲を見回してみた。


 意識の遠のく以前よりも随分家鳴り震動の音は静まっていた。しかし屋内屋外を問わず、一面に濛々たる煙と土埃に包まれている。それに何と、家の中なのに仰向けの眼に空が見えた。防空対策で天井板はかなり以前から剥いであったが、その上の屋根裏の板及び瓦が剥ぎとられ、畳2枚を縦に並べた広さの大穴があいていたのだ。空は晴れている筈なのだが、そこから見える空は濛々たる煙でくすんで見えた。


 更に周囲を見回す。すぐそばに直径50㌢程の大ざるが転がっていた。煮干しを入れて、天井板を剥いだ後の梁にぶら下げてあったものだ。先程私の頭にぶつかったのはこいつだ。思わず自分の頭をさわってみる。血は出ていない。たて長のこぶが出来ていた。ざるの下の台座の部分が当たったとみえる。それにしても頭が割れたかと思われる程の痛さだった。脳味噌が散ったと思ったのは、ざるに入れてあった煮干しだったのだ。土くれ等に交じってそこら一面に散らばっている。


 私が寝そべっていた所から、ほんの1㍍程横に開け放ったガラス戸があるが、そこを通して外を見ると、見慣れた川向こうの家々はたちこめる土煙りで全く何も見えない。ふと気がつくと、ガラス戸のガラスは一枚残らず見事にふっ飛んでいた。私はこのガラス戸のすぐそばに横たわっていたのに、ガラスの破片が一発も刺さっていないところをみると、多分総てのガラスが私の体の上を越えて水平に飛び散ったという事になる。それ程の凄い爆風が家の中を吹き渡ったとみえる。寝転んでいた私の体が、ガラス戸の腰板の部分より低かった事が幸いしたのだ。もし座ってでもいたら、私は上半身ガラスの破片で針ねずみの状態になったと思われる。正直ぞっとした。


 いつの間にか地響きもおさまり、家鳴りも消えて静かになっていた。部屋の中央に突っ伏していた大石さんと母がそのころようやく顔を上げ、体を起こした。お互いに顔を見合わせ、慨嘆する如く、「ひどかったねえ!」とうなずきあっていた。


 そして、大石さんが言った。
 「あんた、何か炊きよりゃせんとね?」
 「あっ! 空豆ば炊きよった!」
 母は言うなり立ち上がって台所に走って行った。大石さんが後に続いて走りながら、けたたましく叫んだ。
 「そうやろ! そんげんとば炊きよっけん、狙われたとさ!」
 母はすぐさま防火用のバケツの水を手にすると、かまどの中の火のついた薪めがけてぶっかけ消してしまった。たちこめる土埃に加えて、かまどから吹き上がる白い煙が入り交じって台所に充満した。
 煙に追われるように、2人揃って部屋に戻って来た。


 見ると、2人共首や肩に怪我をしているようだ。血が滴っていた。私の体を飛び越えたガラスの破片は、部屋の中央に突っ伏していた母達を傷つけたらしい。2人はお互いさし向かいになって手当てをし合った。
 2人の会話から、2人とも完全にこの家が狙われ爆撃されたと思い込んでいるようだ。あれだけ大きな爆発があったんだから、この家も自分達も粉々になってふっ飛ぶと思っていたのに、これぐらいの傷で済んでよかったと互いに慰め合っている。
 傷はどれもガラス片による擦過傷だった。幸い母の傷は大した事はなさそうだったが、大石さんの背中に受けた傷はひどかったようだ。大石さんは「家に帰って、娘に手当てしてもらう」と言いながら、あたふたと帰って行った。


 大石さんが帰ると、すぐ母が私に言った。
 「早(はよ)う美和子と晴男ば探しておいで!そして幸成も連れて川に降りて橋の下に隠れていなさい。母ちゃんは大切なもんば地下壕になおさんばやけん!」


 声に応じて私は直ぐ家を飛び出した。外は未だ土煙が立ち籠め濃い霧がかかった状態だった。私が飛び出してすぐ、家の門の方からその霧のような土煙の中を、こちらに走ってくる美和子の姿があった。怖かったろうに、泣いてはいなかった。子供心に泣いている場合ではないと思い定めたような目つき口もとが、我が妹ながら健気なものと感じ入った。

 急いで抱き上げる、その目に、続いて懸命な顔つきで駆け込んで来る晴男の姿が映った。
 私は母に命ぜられたように、部屋にいた幸成も含め、3人を川に降ろした。晴男は流石に3㍍の石垣を伝って、自力で降りた。残りの2人は私がおぶって降ろした。川幅は4㍍程、雨天を除き、水量は少なく、常時川幅の半分程のせせらぎを作って流れている川だ。四人手をとり合って、水の流れてない所を八㍍程伝い歩きして橋の下にたどり着いた。この橋の上は東上町の通りである。頑丈な石造りの橋で、これなら格好の避難場所だ。


 ここからは周囲もよく見渡せ、自分の家や川向かいの家々もよく見える。どの家も半壊状態で屋根の端々の瓦が剥がれ落ちた家が多い。全壊の家は見当たらないが、先程、我が家から見えなかった川向かいの家は、土蔵が砲撃でもくらったような大きな穴があいていた。未だ一面に土煙がたちこめていて遠方を見る事はできない。


 橋の上を見ると、避難する人々でごった返している。橋に向かって右方面は長崎駅だが、皆その反対側、すなわち、西山、もしくは諏訪神社方面を目指しているようだ。
 それまで私も母や大石さん同様、てっきり自分の家か、又は近辺の家に爆弾が落ちたと思っていた。しかし、今橋の上を避難する人々の数の多さを見ていて、これはかなり広域にわたって爆撃の被害があったのではないかとの疑念が湧いて来た。
 そして思った。…この2、3日、動員された友人達と昼食の雑談中、皆が噂していた広島の被害の話に出ていた新型爆弾の事が、ふっと思い出されてきたのだ。一発で広島を全滅させたという新型爆弾。…もしかすると、それと同じ爆弾が長崎にも落とされたのではないか、という思いが強くなってきた。


 私はこの事を母にも知らせるべきだと思った。このように避難する人々が、後から後からと続くのは尋常ではない。何か私達の知らない危険が迫っているのではないか?
 そう思うと、もうじっとしておれなかった。橋の下の暗がりにうずくまっている弟妹に「母ちゃんの所に行ってくっけん、ここでじっと待っとけよ!」そう言って、急いで家に向かった。


 家に着き、荷物の整理で汗だくになっている母に、私は大急ぎで伝えた。表通りを避難していく人の数が異常に多い事、相当手広く被害があるらしい事、又その被害のひどさから広島に落とされた新型爆弾ではないかと思われる事等を懸命に話した。母はそれを聞くなり、眉をひそめてしばらく考えていたが、やがて厳しい表情で言った。
 「そんなら直ぐ町内の防空壕に行きなさい。あそこなら少々の爆弾でも大丈夫やろ! すぐ行きなさい!」
 母は又、私にちゃんちゃんこ帯を手渡しながら、美和子をこれでおんぶして行くようにと言った。
 私はすぐ弟妹達の所に引き返し、皆を川から引き上げた。そして妹を母から渡されたちゃんちゃんこ帯で背負うと、2人の弟の手を引いて町内の防空壕に向かった。


 橋の上の東上町の通りに立って、避難する人波の後方に目をやると、町の上に漂う土煙と違って、西上町方面はもくもくと真黒な煙を噴き上げていた。黒煙は西上町の向こう長崎駅から右、浦上方面にかけて燃え広がっている。一面天を冲せんばかりの黒煙に覆われたその眺めで、ただならぬ切迫感に胸塞がる思いにさせられながら、警察学校正門の石段を上った。
 学校敷地内に建ち並ぶ校舎群の間を通り抜けて、学校の裏手に行き、町内の壕に行ってみると、そこの光景に驚かされた。裏手の土手に作ってある各町内、少なくとも四町内の防空壕がどこも超満員の押し合いへし合いの有様だったのだ。


 先ず私達の町内の防空壕に行ってみた。私達は今朝までこの壕にいたんだ。壕を出る時は、ほとんどの町内の人々も出払っていた筈だ。ところが、見ると入口までいっぱいの人だ。入口からはみ出た十名程の人々が、それでも何とか壕の中の方へもぐり込もうとして頭を突っ込みもがき合っているのだ。どの顔も町内の人ではない。初めて見る顔ばかりだ。きっとこのあたりに避難して来た人々が、我れ勝ちにこれら町内の防空壕を占拠してしまっているようだ。


 しかし、ここはれっきとした私達の壕なのだ。頼めばきっと中に入れてくれるだろうし、中には町内の顔見知りの人々もいるに違いない。そう思って、割り込もうともがいている年配の小父さん達に頼んでみた。
 「ここは僕達が掘った町内の防空壕です。中に入れてください!」
 ところが、いうなり剣もほろろ、頭ごなしに怒鳴りつけられた。
 「後から来とって何ば言うか! あっちに行け!」
 更に私が何か言おうものなら殴りかかって来そうな剣幕だった。あまりの理不尽さに憤慨する気持ちが強かったが、幼い弟妹達の手前もあり、仕方なくその場を離れ、様子を見ることにした。


 すぐ近くの校舎の出口の石段に弟妹と腰をおろし、壕で押し合いへし合いを演じている大人達の姿を漫然と眺めていた。


 それから30分程の時間が過ぎて、私達町内の壕に向かって左奥、県庁の壕の方から数名の警防団の人々がメガホンで何事か連絡をしながら歩いて来た。何事かと聞いてみると、
 「風向きで火災がこちらに向かってます。この地区も危険になりました。もっと西山、本河内方面に避難してください」という内容だった。そういえば、このあたり先程から随分キナ臭い匂いがたち込め始めている。更によく見ると、浦上方面から風に乗って黒い煙が漂って来ているのが見えた。
 壕で押し合っていた連中もややたじろぎ、直ぐ移動して行った人もいたが、未だ未練がましく壕の近くを立ち去りかね、そのあたりにたたずんでいる人も多かった。


浦上から逃れてきた被爆者の群れ

 

被爆直後、諏訪公園広場で見た被爆者たち(筆者・画)

 それから10分程して、又警防団の人が駆けて来て、今度は少し声を強めて、
 「この地区は危険区域に指定されました。今すぐここを立ち退いて避難してください」
 そう指示すると、すぐ次の壕に走って行った。流石にこの指示を聞くと、皆壕からぞろぞろ出て来て避難する人々の波に乗って移動していく。


 そうなると私達もこうしてぼんやり座ってもいられなかった。町内の壕が使えなくなっていることを母にも伝え、どう対応するべきかを相談せねばならぬ。と思うと、直ぐ私は妹を背負い直し、弟達を促して、家を目指した。校舎群を、来た時とは逆に通り抜け、正門への道筋を急いでいると、途中何人もの血相を変えて帰ってくる警察学校関係の人達と行き交った。その中に立山方面から校内に入って来たと思われる16、7歳の警察学校生徒と覚しき青年2人が担架を担って来るのに出遭った。2人共如何にも重たげで、息づかいも荒く、足許がもたついていた。私の傍を過ぎる時、担架の中を見ると、かついでいる2人とほぼ同年代らしい若者が毛布にくるまって横になっていた。特に私の目を引いたのは、横になっているこの青年の膝の部分だった。膝の所は毛布の上まで血がにじんでいて、膝関節が両足共折れていると思われた。しかも、完全に逆方向に折れ曲がっているらしく、担架の振動に合わせて、膝頭が下に沈んで、ガクンガクンと爪先が上にはね上がっていた。担架の青年は失神しているのか、声もなく、青い顔で目を閉じていた。やがてこの担架は校舎の一隅に消えていった。想像するに、あの担架の青年は、見張り台に乗っていた所を爆風に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたものであろう。


 担架の若者が死んでいたのか、気を失っているだけなのかは別として、今日の空襲によって担架で運ばれる程の重傷者が出ている事を、実際に自分の眼で見る事で、緊張感が急激に高まった。又、その担架を運ぶ2人の青年の荒い息づかいや、恐らく友人であろう傷ついた仲間を少しでも早く治療所へ運ぼうとして、よろめきつつも懸命に急いでいた姿が一層この場の危機感を募らせた。


 警察学校の正門に着いた。見ると、そこは更に只ならぬ様子を示していた。
 学校の敷地は、この地区一帯の道路より5㍍程の高台にあるので、正門の石段に立つと、そこから俯瞰的に私の家がある東上町が眺められる。東上町の通りには今は全く人の姿はない。1時間程前に見た西上町の煙は、一層勢いを増し、こちらに向けて近づいているのが見てとれる。吹き寄せる風が、焦げ臭いにおいを運んできて、私の全身を包み緊張感をあおる。


 全長100㍍程の東上町の通りは、約70㍍程先まで見通せるが、その先はほぼ完全に煙に覆われている。その黒い煙に包まれた家々の屋根にあたる部分がメラメラと赤い炎がちらついて見えた。西上町の火災が東上町に移ろうとしている。この様子からすると東上町も火に包まれるのは時間の問題だ。そこでふと母の事が気になった。(母さんはこの事を知っているのだろうか。早く避難させないと、取り返しのつかぬ事になる)


 そんな思いで息も詰まる程の切迫感に駆り立てられ、私は2人の弟に言った。
 「母ちゃんにも早く逃げるごと言うて来るけん! お前達はここで待っとれ!」
 弟達を連れていては走る事ができない。とにかく今は急いで行動しなければ……そう決断すると、私は妹だけを背にして石段を駆け降り、我が家目指して走った。


 家に着くと、地下壕にもぐって荷物整理中の母を認めるなり、大声で叫んだ。
 「母ちゃん! 何ばしとっと! もう火はそこまで来とるよ。防空壕も使われんごたる。とにかく早く一緒に逃げよう!」
 母は答えた。
 「荷物の片付けはもうすぐ終わる。そんならお前達はお諏訪さん(神社)に逃げときなさい。それが駄目なら寺町に行きなさい。母ちゃんも後からすぐ行くけん!」


 母の声に応じて、私が引き返そうとしたとたん、背中の美和子が激しく泣き出した。そして懸命に母の方へ手を差し延べて泣き叫ぶ。それを見た母は、
 「そんなら美和子はこっちにやりなさい。お前は晴男と幸成ば頼むよ」
 と言った。これまで泣き声一つあげなかった妹が、今の只ならぬ緊迫状態を感じとるのだろうか。危機に際してはやはり兄より母親の庇護の方が頼りになると幼な心に判断したとみえる。私は急いで妹を母に背負わせると、すぐ弟達の所へ戻った。
 弟2人も周囲の只ならぬ雰囲気に緊張気味とみえ、同じ場所にじっと待っていた。


 私はすぐ2人の手を取って石段を降り、警察学校の前を通って、炉粕町の方へ急いだ。炉粕町に入ると、すぐ県立図書館と諏訪公園共用の道がある。そこから公園広場への道を選ぶつもりであった。


 どの通りも人影は全く見当たらない。既にこのあたりの人々は皆避難してしまっているのだろう。人通りの絶えた道を行くのは何となく心細いが、とにかく急がねばならない。炉粕町の手前に東中町がある。その通りに接する角にさしかかって、ぎょっとした。全くの出遭い頭に、その角から雲つく大男が突然、ぬっと姿を現したのだ。大男というだけなら大して驚きもしないが、何と、茶色い髪、碧眼の大男…白人なのだ。その白人の大男が私の目前、3㍍程の所に立ち止まり、後ろをふり向いて何やら叫びながら手招きをしている。見ると、彼の後ろからもう1人、東中町の通りを懸命に走ってくる白人がいる。汗まみれなのだろう。胸をはだけ、シャツの裾で胸元を拭きながら、坂になった東中町の道を息せききって上がって来る。服装から見て、この2人、捕虜と思われる。「何故こんな所にいるのか?」「収容所から脱走して来たのか?」瞬間、いろんな憶測が私の頭を駆け巡る。こんな連中とは離れていた方が賢明かな? そう思い、弟2人の手を引っ張って引き返そうとした時、その2人は駆け足で炉粕町の通りに消えて行った。その後を追うように炉粕町に入ってみると、右側数軒目に薬屋がある。その更に4、5軒先に立派な門構えのお屋敷があるが、そこに銃剣を持った憲兵が2人立っていた。さっきの捕虜達は、この屋敷に入ったようだ。


 いささかほっとしながら、その屋敷前を通って見ると、門構えのすぐ中は狭い庭になっていて、そこに十数名の捕虜達が2列横隊に整列させられていた。先程の2人もその最後尾に並んでいるのが見える。周りを銃剣を擬した憲兵が警護していた。多分、浦上方面の工場で働らかされていた捕虜の集団を避難させていたのかもしれない。


 炉粕町を更に真っ直ぐ進めば西山地区に出る。私達はこの炉粕町を少し入った所で、捕虜達が集められている屋敷の斜め前にある並木道に入り込んだ。これが県立図書館及び諏訪公園への道である。図書館の正門近くまで登り、その手前で右に折れ、坂道を少し上り石造りの山門をくぐると諏訪公園広場である。この広場に入ってすぐ手前の所は子供達の遊び場になっていて、ぶらんこ等が設けてある。公園広場の先の方にはセメント製の音楽堂ステージが建てられている。その横を過ぎ、広場を出て更に行くと、長崎市唯一の動物園がある。


 ところで、この広場に入ってみると、子供用遊び場内のそこここの木陰に人々が集まっている。ざっと見積もって3、40人程の人数と見た。広場外の木陰にも人影が見える。それに反してステージの付近はガラーンとして人っ子一人見えない。木陰もなく、人々の姿が露わになっていては敵機に狙われるおそれがあるという警戒心が誰の心にも働くのだろう。その点、子供用遊び場の方は木立ちが多い。


 私は弟2人の手を引いて、ぶらんこ傍の生け垣に集っている人々の近くに身を寄せ、一休みする事にした。


 立場を同じくする人々と一緒にいる事が安心感を誘うのか、何となくほっとくつろいだ気持ちでいると、急に空腹を感じた。そういえば、朝母の雑炊をすすったきり、もう六時間程も過ぎようというのに、何も食べていない。2人の弟も同じ思いだと想像できるが、健気にも「腹が減った」等の泣き言は一言もない。そんな事が言えるような状態にない事を、子供心に自覚していると見える。


 私は立ち上がって、公園周囲の生け垣から市街地を見渡してみた。街の右側、五島町から駅、浦上方面にかけてはもくもくと黒煙が空を覆っている。左側を見ると、寺町や蛍茶屋の方は比較的煙は薄く、空が晴れ、陽の光が射してひっそり静まっている感じだ。しばらくして、市街地を眺めている私の後ろの方で、何やら大きな声がした。振り向くと、ぶらんこの近くにいた男の人が、声がした方を指差しながら、


 「ありゃ? あの連中は浦上ん連中じゃなかとな?」


 傍にいた人々が皆指さす方を見る。さっき大きな声がした方向だ。そこは諏訪公園の更に高い所にある市民グラウンドから森の中を降りて、この広場に通じる道がある場所だ。今その道から数名の人々がよろめくような足どりで、次々に広場に降りて来る。そして口々に叫んでいる。


 「病院はどこですか」「お医者さんはおらんですか」


 皆それぞれ傷つき、煤け汚れきった姿だ。中には他の人に支えられながら歩いて来る。その後ろの林の中の道に更に多くの人々が行列を作って下って来るようだ。


 たちまち広場のあちこちに屯していた人々がどっと集まって来て、その浦上の人々と覚しき連中をとり囲んだ。
 囲んだ人達の中から声がかかる。
 「病院はすぐ下の勝山小学校のあるけん。そこに行きなさい。治療所があるけん。頑張れ!」


 励ましの声をかけながら数人が浦上の人々の先頭に立って、広場の出入口、山門の所まで案内しているようだ。浦上の人々は案内されるまま、次々に森の中の道を出て、長い行列を作って広場を横切り、山門をくぐって下っていく。その行列を挟むように、広場にいた人々がその両側に並んで励ましの声をかけている。
 私も弟達と一緒に広場の人々の後ろから、浦上の人々の姿を見ようと覘き込んだが、ぎっしり前に立ち並んでいる人々に遮られて断片的にしか見る事ができない。それでも幾人かの私の眼にやきついた人達がいた。


 まるで炭と血をまぶしつけたように汚れ黒ずんだ衣服をまとい、疲れ切った顔でよろめき歩いて行く人。火傷で顔を真っ赤にした老人。髪の毛がチリチリに焦げ、ぼろ布を身にまとっている小母さん。悲痛な顔でひしと布包みを抱きしめて歩いて行く女性、その布包みから血にまみれた幼児の足先が2本のぞいているのは、愛する児を死なせてしまった母親だろうか。浦上の工場で働かされていた学徒動員の中学4、5年生と覚しき数人が傷ついた1人をいたわり支えながら歩いていく姿。
 目の前を通り過ぎていくどの顔も疲れ果て、足どりも重そうだ。火の海と化した浦上の街を逃れ金比羅の山裾を巡って、立山を越えやっとの思いでここに辿り着いたのだろう。広場の人々の励ましの声にも応じる事もなく無言で歩いて行く。


 それらの人々の中で、最も私の眼を引きつけたのは、小学1、2年生くらいの男の子だった。ランニングシャツにパンツ姿だったと記憶するが、全身が煤け汚れ、よろめき歩いて行くこの子のうつろな瞳を見てショックを受けた。つき添う大人もいないところをみると、ここまで人波にまぎれ一人ぼっちで来たらしい。もしかすると頼るべき親や身内の死を見たのだろうか。まだ自立能力を持たぬ6、7歳の子供であれば、頼るべき総てを失うとこんな絶望的な眼の色になるのかもしれない。
 「誰か助けて欲しい!」と訴えたくても「誰も助けてくれる人がいるはずがない!」と諦め切った目つきをしている。
 私はこの子の孤独感や絶望感を思いやって、何ともやりきれぬ憐れみの心がこみ上げて来た。同時にまかり間違えば、今私達がおかれている状態なら、私の弟達にも起こり得る境遇だと思ったとたん名状し難い恐怖に襲われ、じっとしておれない気持ちになって来た。


 逃げて来る浦上の人々の背後の空は、相変わらず濛々たる黒煙が立ち上っている。その下の部分は諏訪の森の木々に隠れているが、木立ちの隙間を通して真っ赤な炎が燃えさかっているのが見える。
 広場の人々の前を次々に通り過ぎていく浦上の人々からは硝煙に似た臭いがプーンとただよって来る。燃えさかる浦上の街中を逃げて来る時、煙に巻かれて身体にも衣服にも焼け焦げた臭いが染み込んでしまっているのだろう。


 立ち並んで浦上の人々を励まし、いたわっていた広場の人達も、この時になってこの焼け焦げた臭いに危機感を煽られたらしい。こんな声が出始めた。
 「だんだん火の近(ちこ)うなりよるごたるけん、俺たちものんびりしちゃおられんばい。もっと先の方に避難せんばならんとじゃなかとな?」
 その声は次第に皆の共感を呼んだらしく、並んでいた列を離れて、やがてぞろぞろ動物園から西山・桜馬場方面を目指して移動する人が多くなっていく。


 私は中学2年生としては体が小さい方で、おまけに弟2人を連れている為、立ち並ぶ人々の後ろからでは浦上の人々の姿は極く一部しか覗き見る事ができなかった。しかし、終始目前で彼等の焼け爛れ傷ついた悲惨な姿をつぶさに見る事のできた人達は、浦上の惨状を実体験している思いで見ていたに違いない。その上に彼等の発散する臭いによって、より臨場感を増幅され、危機感を募らせていたたまれなくなった人達が多かったと思われる。移動していく人達の数は益々増えていく。


 ともあれ、絶望にうちひしがれたような少年の瞳を見て、うかうかしていると自分達もとり返しのつかぬ危険に陥るかもしれぬという恐れを感じていた私にとっては、広場の人々の移動は正に渡りに舟ともいうべきものだった。私はこの時、諏訪公園の避難を諦め、母と合流する為にも寺町に行こうと決心した。
 私は弟達を促して、2人の手をとり移動していく人々の後ろに続いた。人々は音楽ステージを左に見ながら、広場を出て、手すりで囲まれた遊歩道に出た。そこから左に登れば諏訪大社の本殿がある。私達は遊歩道を真っ直ぐ下って動物園の門をくぐった。


 「母は無事寺町に行けただろうか?」「もしかして、火の回りが早く母は逃げ遅れはしなかっただろうか?」「そうなれば、僕は乞食をしてでもこの弟2人を養っていかねば…」
 等の思いが次々に胸をよぎる。   (つづく)

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