―― 出 席 者 ――
高橋 匡 原爆展を成功させる広島の会・被爆者
末政サダ子 原爆展を成功させる広島の会・被爆者
犬塚 善五 原爆展を成功させる広島の会・事務局
西村 真央 広島市・大学生
谷川さゆり 広島市・大学生
竹下 一 下関原爆展事務局
鈴木 彰 本紙記者・キャラバン担当
若い世代が体験受け継ぎ行動
剥げ落ちた原爆投下正当化の欺瞞
昨年は国連での核兵器禁止条約やICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞受賞など、広島・長崎が発信してきた声が国際的な世論を動かし、形となって表面化してきた。朝鮮半島やシリア、パレスチナなどで戦争の火種が煽られる一方、それを押しとどめる国際的な世論も強まっている。そのなかで広島・長崎の声は一際強い注目を集めている。広島での原爆展運動は18年目を迎えるが、活動を担ってきた広島の会の被爆者や学生、原爆展キャラバン隊、本紙記者で座談会を持ち、昨年の活動のなかで得た確信と今年の展望を描いた。
犬塚 原爆展を成功させる広島の会は、昨年度は7会場で原爆と戦争展を開催し、4300人が参観した。修学旅行での語り部活動は学校からの依頼が例年になく増えた。8月の「原爆と戦争展」には海外15カ国から参観者が訪れ、市内、県内から多くの被爆者が参観したが、「広島の体験者の声を聞きたい、聞かせたい」という思いが参観者のなかに共通して存在し、会場の被爆者の思いと響きあっていた。
被爆体験を真剣に学ぶ子どもたち
末政 小中学生から大学生まで被爆体験を語ってきたが、体験者として手を抜くことができないくらいどの世代も真剣だ。とくに被爆当時の私と同じ小学6年生には共感できる部分が多いと思う。子どもたちや先生の関心度や意識が大きく変わっている。体験を聞くときにはみな真剣で、集中力のない子どもがほとんどいない。先生たちの姿勢からも「自分たちがいかにして子どもたちに力を込めて伝えていけるか」という誠意が見える。そういう思いに触れて私たちも熱が入る。
高橋 全国から団体で訪れる教員がとくに目立った。「まず自分が学ばなければならない」という思いが非常に強い。平和教育を子どもに教えていくにはどうすればいいだろうかと悩んでいるなかで、原爆と戦争展の会場へ行けば、これまで見たり触れることのなかった何かを得ることができるという認識が先生たちのあいだに浸透してきている。
修学旅行で広島を訪れたある先生は、電話で「原爆資料館が変わってしまった。あれでは資料館の意味がない」と話していた。改装された資料館ではスイッチを押せば当時の映像が見れる。子どもがおもちゃを使うのと同じだという。被爆を再現した蝋人形も撤去された。昔は、蝋人形の前を目をふさいで通る子どもたちに「恐いからこそ見ておくんだよ」と話したこともあった。先生が黒焦げになった三輪車を見て「何が想像できますか?」と子どもたちに問うと「何も想像できない」といったという。被爆したものは確かに証拠ではあるが、あれだけでは生身の人間が受けた被害や痛みは伝わらない。「原子雲の下より」という目線の資料館でなければならないと思う。
岡本 新しくなった原爆資料館の展示ではCG(コンピューターグラフィック)で原爆投下の瞬間の再現映像を流しているが、完全に原爆を投下した側からの視点だ。空の上から広島の街を見おろし、一発の原爆で街がなくなる様子が映し出されるだけで、そこからは何十万人という市民の痛みは伝わらない。まるで原爆の威力を誇示する意図を感じる。市民の反発も強く、「まるでゲーム感覚だ」「見ていて気分が悪くなった」とボランティアガイドをしている人たちも怒っていた。こちらの展示では、原子雲の下にいた市民の側から伝えているからこそ共感が集まる。広島には年間100万人をこえる外国人が訪れているが、今年は海外の参観者の反応がとくに強かった。
鋭い反応示す海外の参観者
欧米やアジアから注目
谷川 海外からの参観者と交流するなかで一番印象的だった意見は、「これまで戦勝国側からの歴史観しか持っていなかったので、日本側の歴史をはじめて知って衝撃を受けた」というものだ。自分が広島で受けてきた平和教育は世界共通だと思いこんでいたので、自分自身の中にそういう意識がないことに気づかされた。海外の参観者の多面的な意見をもっと聞きながらとり入れていかないといけないと感じた。
西村 海外では、アメリカ側の歴史があたりまえに教科書に載っているから、「戦争に参加し原爆を落とされて負けた」という記述はあるが、その後はアメリカやヨーロッパの社会がどうなっていくのかが中心に描かれている。フィリピンに行ったこともあるが、やはりアメリカ側の歴史観の影響を強く受けていた。日本以外の国では、世界の経済の中心にいるアメリカの影響を受けやすい。現地の人たちは原爆の使用について決して正しいとは思ってはいないが、「原爆を使ったから戦争が終わった」という印象や世論は実際にあった。
そのことに対して疑問を持っている人たちが世界中にいて、実際に広島へ来てパネルを見て、「やっぱり違ったんだ」と自分のなかにあったギャップを埋めて自国へ帰っていく。日本で観光して遊んで「楽しかった」で帰るのではなく、平和を一番に考えている人が多く、わざわざ東京へ飛行機で来て新幹線に乗って広島へやって来る。そういう海外の人人の平和意識の高さが印象的だった。なぜ原爆が落とされたのか、その後どうなったのかを知らされることもないので、「広島はチェルノブイリのようになっていると思っていた」という人もおり、これほど立派に復興していることに驚いていた。
また、被爆者は今どう生活しているか、どれほどの人が亡くなったのかを初めて知ることで平和認識を高めている。会話のなかで、今広島の被爆者の人たちが子どもたちに体験を継承するために被爆体験を話していることを伝えると涙を流す人もいた。親がフランス軍に所属しているという方は、「親の仕事の影響もあって武力行使を容認する考えがあったが、どれだけ広島が平和への願いを持っているかがわかった」と話していた。少し話すだけで真剣に聞き入ってくれる参観者がたくさんいて、海外の人人にとって広島がものすごいパワーを持っていることがわかる。
犬塚 広島の会の活動が全国、世界の平和運動のセンター的な役割を果たしているということがこれまで17年間の活動の成果として浮き彫りになった。今戦争の危機が迫っているなかで、被爆地広島から発信する真実の声に海外からの反響がかつてなく大きい。
昨年10月にはスリランカの日本大使館から連絡があり、資料館で広島の会が出版している被爆体験集の英語版を購入したジャーナリストが、体験記を現地のシンハラ語に翻訳して社会貢献事業の一環として出版したいと申し出があったという。一昨年にはアメリカから「被爆体験集を普及したい」と多くの注文があったが、被爆者の本当の声を知りたい、広めたいという思いが世界的に高まっていると感じる。
西村 展示パネルのはじめからおわりまでじっくり見ていく人には「アメリカから来た」という人が多い。原爆がもたらした被害についてまったく知らず、写真を見て「アメリカはこんなにひどいことをしてしまったのか…」といっていた。海外では「やられたらやりかえす」の精神があたりまえで、もし今北朝鮮がアメリカに核ミサイルを撃てば、アメリカはどんなに悲惨な状況になろうが北朝鮮に核を撃ち返し、勝つまで相手を攻撃し続けるだろうが、日本は原爆投下以後、平和の考えを広げようという行動をとった。このことが、海外の人人にとって偉大だと感じるようだ。人種の違いをこえて「武器を置いて協力しよう」という考え方は簡単なことではなく、だからこそ戦争が絶えない。そのなかで広島へ来て現実を知り、広島の人人の活動を「すごいことだ」と思ってくれているのだと思う。
鈴木 海外へ滞在した経験がある参観者が共通して語るのは、海外で「日本から来た」というと「今の広島はどうなっているのか?」と聞かれるという。これはほとんどの人人の共通体験だ。それほど広島、長崎が当時どういう状況で、現在どうなっているのかに関心があるし、衝撃をもって受け止めている。国連職員や海外のジャーナリストたちも非常に注目していた。これは自分たちが想像する以上のパワーだ。そこで「日本人でありながら、海外の人人の質問に答えられなかった」という反省を持って、原爆と戦争展を参観する人が多いのが特徴だ。
韓国、中国から来た参観者には、日中韓の歴史問題の中心になる南京虐殺や慰安婦問題などが話題になることもあり、実際に肉親を南京で亡くしたという人もいた。でも原爆展を見て「同じ戦争の被害者」としての立場から涙を流しながら共感していた。「戦争の被害にあった人人に対して敬意がはらわれた公平な内容だ。実際の体験を共有して、同じアジアの国同士仲良くやっていかないといけない」といっていた。国境をこえて市民レベルでの共感や連帯感を強める展示の内容に確信を持った。
岡本 韓国から来た人が、占領下の1950年8・6闘争で「朝鮮で3度目の核を使わせるな!」のスローガンを柱にして原水爆禁止運動を始めたことに感動していた。「原爆を受けた広島市民がこのようなスローガンで原水爆禁止の運動を世界中に広げていったことを初めて知った。このことはほとんど知られていない。ぜひ本国で伝えたい」と話していた。再び朝鮮半島が緊張状態にあり、米国は核の先制使用も辞さないという構えをとるなかで「世界中いかなる民族に対しても使用してはならない」という被爆地のメッセージがより新鮮な響きをもって受け止められている。
竹下 朝鮮戦争当時は、峠三吉たちが中国地方の労働者を中心に活動を始めた時期でもあり、「原爆を絶対に使ってはならない」というのは被爆者の心からの叫びだった。広島には在日朝鮮人が多くいて、ともに原爆反対の活動の先頭に立っている。峠三吉の『墓標』の詩のなかにも「負けるものか/まけるものかと/朝鮮のお友だちは/炎天の広島駅で/戦争にさせないための署名をあつめ…」と描かれているように、民族をこえてみんなが一緒になってやっていた。もともと原爆反対の運動は国際的なつながりのなかで広がったが、朝鮮そのものの変化や、日本国内では在日朝鮮人と日本人が分断されてかかわってはいけないという力が加わるなかで「どちらが被害で、どちらが加害か」という分断へもっていく流れになった。
犬塚 フィリピンやネパール人の参観者が「日本兵は自分から志願して戦争へ行ったのか? 行かざるをえない状況だったのか?」と共通して聞いてくる。国家によって否応なく戦地へ行かされ、40代まで駆り出され、戦地では餓死や病死がほとんどだったというパネルを見て、「やっぱりそうだったのか」と納得していくのが印象的だった。戦争を引き起こした日本の支配層と、動員され戦地にいった兵士をはじめ市民の側は違うと受け止める。
戦時中に長沙やマニラを米軍が爆撃で焼き払ったというパネルを見て、フィリピン人留学生のお世話をしている人が、「米軍はマニラを焼け野原にしたが、実際にいた日本軍はごくわずかなのに、無差別爆撃のために多くの市民が殺されたことが最近公表されている」と話していた。原爆投下を正当化するアメリカがその後何をしてきたのか。朝鮮、ベトナム、イラク、アフガニスタンなどで起きてきた現実を第二次大戦からもう一度とらえなおしている。
竹下 海外の人人の反応のなかでは、「このパネルはどこにも与せず戦争を客観的に描いている」「どちらにも偏っていない」という評価がある。この展示は、戦争を引き起こした側、あるいは原爆を投下した側の「原子雲の上から」の視点ではない。また、日本側の視点といっても、それは日本の軍国主義の側ではない。広島の無辜の老若男女がどのような目にあったのかという視点だ。広島の民衆の側からの視点は、アメリカの民衆の側から見ても、「自分たちはアメリカの支配層の側とは違うんだ」と共感を呼ぶ。戦争を引き起こすものと、その犠牲になる民衆の側とを区別していくことで世界的な連帯が築けるということだ。
段階を画す原水禁運動の発展
原爆投下者側からの分断を乗り越え
岡本 核兵器禁止条約を推進したICANの事務局長や国連事務総長が「被爆者の声を聞くことが出発点だった」「広島の被爆者の英雄的な努力の賜だ」と表現していたが、72年間に及ぶ被爆者の努力に対する敬意であるし、現在の広島でそれが脈脈と受け継がれていることの世界的な影響力の大きさを実感させている。
被爆者が真実の声を発することは、常に原爆を投下した側からの圧力や欺瞞とのたたかいだったことはいうまでもない。峠三吉が切り開いてきた歴史を継承してとりくんできた原爆と戦争展を始めて20年近くになるが、市民的な基盤をもった運動を広げるうえでは、原爆投下者の側から市民を抑えつけるものとの決別が決定的だった。
高橋 敗戦後、私は逓信局にいたので、逓信局労働組合の執行部として五年間役職を務めるなかで原水爆禁止運動にかかわった。運動のなかで、原水禁(総評系)と原水協(日共系)の争いが始まったのがちょうどその頃だった。
メーデーで各支部が集会で集まり、共産党系と総評系、どこにも属さない団体のそれぞれトップの3人が挨拶をする。そこで共産党系が「アメリカが核実験をやるのはけしからん。ソ連の核実験は自国の防衛のためでありこれはいいことだ」と評価したところから争いが始まった。どちらにも属さない団体の私たちは「いいも悪いもない。核実験そのものが悪いじゃないか」とヤジの一方だった。何日も同じ対立のくり返しでどちらも退かない。その争いは3年ほど毎年続いた。
いわゆる「禁」と「協」が同じ労働組合のなかにおり、一つに束ねる努力をしても次第に二つの勢力はバラバラで活動を始め、お互いに折り合いがつかなくなっていた。私たちとしてはあのようなものにはついて行けなかった。逓信局の支部では、書記長の私の責任で判を押し、「みなさんとは別れて運動します」ということになった。逓信局の各課の執行委員を集め、組合員をやめるわけではないが、これらとは一緒には活動できないということを宣言した。それほど「禁」と「協」との争いはすごいものだった。
岡本 広島市民を基盤にして原爆投下の犯罪を暴くことから始まった原水禁運動がそのような過程のなかで市民から浮き上がり停滞するなかで、峠三吉の時期の私心なく市民を代表する運動を再建することをめざして、下関から始まった原爆展運動を広島で開始したのが18年前だ。
高橋 下関からといえば、職場の先輩に山下寛治さんという人がいた。戦時中、下関の郵便局から広島へ赴任してきた人だ。私が原爆展運動にかかわるようになってから、長周新聞を創刊する前の福田正義さんと一緒に戦前の下関で文学活動をやっていた人だったと知った。私が知っているころの山下さんは温和な人で、とても平和運動などとは縁遠い文筆家で著名な歌人だった。だが、原爆で娘さんを亡くされ、それを契機にたたかわなければならないと決意し平和運動に身を投じるようになられた。その後、レッドパージで職場を追われてしまったが、今も強く印象に残っている。
竹下 当時の広島では、山下さんのような人たちの動きが無数にあったと思う。福田主幹も「死んだ者の命が返らないのなら、死なないためのたたかいを命がけでやらなければならない」といっていた。原爆問題にかかわるなかで、これほどの命を無残にかき消されて、なぜ反対をいってはいけないのかというのが行動の出発点だ。
戦後は、占領したアメリカがプレスコード(報道管制)で原爆についての言論を抑えつけたし、当時の共産党中央も「アメリカは日本の軍国主義を終わらせた民主主義の国であり、原爆についても悪くいってはならない」という態度だった。「原爆に感謝せよ」というものだ。国際的にも原爆についての評価はあいまいだった。このような政治的な圧力のなかで、原爆について怒りを語ることは社会進歩に反するものと見なされ、被爆市民はひたすら耐えなければならないという空気だった。
アメリカは日本の軍国主義を終わらせて日本の人民を解放するために原爆を落としたのではない。日本を単独占領して次の朝鮮戦争、さらには世界制覇へと向かって行くために落としたということはその後の事実からも明らかだ。ヤルタ会談でソ連が3カ月後に参戦することは分かっており、アメリカはその前までに日本を単独占領するために原爆を2発も使った。ドイツは4カ国の連合国による占領だったが、日本だけはアメリカが単独占領するという明確な目的があったからだ。この事実を当時の広島ではっきりと訴えた。これには共産党本部は反対したが、広島市民が心底持っていた思いを束ね、広島の全市的な原爆への怒りに火をつけた。
だから非常に強い勢力となって急速に全国に広がり、「これを世界に発信しないといけない」という共通した意識になった。広島で世界連邦アジア会議が開かれたときには、峠三吉が直接乗り込んで「世界にこのケロイドを発信してくれ」と訴えて原水爆禁止を決議させている。
当時、欧州でベルリン平和祭や青年平和祭に、峠三吉の『原爆詩集』が翻訳されて届けられる。トルコの詩人ナジム・ヒクメットが『死んだ女の子』という詩を書いたが、これは峠の『墓標』を原詩にして書かれたもので、世界に広がり日本でも翻訳された。今でも中東で「広島」というと非常に強い畏敬の念を持つのは、あの当時の影響だ。あれほどの原爆を投げつけられても、広島は急速に復興をとげたことに非常に連帯感情を持っている。当時の広島の本当の心が思い切って発揚されたこの経験は今、非常に重要な教訓だ。
岡本 高橋さんが当時、目の当たりにした党利党略での平和運動は、その市民の本当の気持ちを発揚せず、むしろ分断・攪乱する要素として働いた。下関の原爆展事務局が広島で初めて原爆展の準備を進めるときに、市民からの反応として強かったのが「あんたら禁か、協か」というものだった。
「違うんだ。禁・協はアメリカの手先なんだ」ということをはっきりさせて進め、そのことが口先ではなく態度や雰囲気から理解されるようになって運動が広がっていったと思う。実際、「共産党」や社会党は当時から「アメリカの原爆投下は感謝しなければならない」といっていたし、「じいちゃんやばあちゃんが悪いことをしたから原爆を落とされた」といって被爆者の口をふさぐ。最近でも「謝罪を求めてはならない」「反核はいっても、反米はいってはならない」というキャンペーンもあった。
広島の市民からすれば「原爆を落とした者に対してなぜ悪くいってはいけないのか。謝罪を求めるのは当然ではないか」というのがあたりまえの世論だ。このような市民を抑えつけるものとのたたかいなしには広島の本当の声は発動できなかったというのは非常に大きな教訓だ。
高橋 それほど市民のなかでは厳しい警戒心があったと思う。当時の指導者の行き方が間違っていたと思う。自分たちの利権のために本来別れる理由のない活動を分裂させた。地区本部という一番トップの組織のお偉い人が代表して外国へ会議に行くが、帰国後の報告では会議の内容は一言もいわずに観光の自慢話ばかりしていた。組合員からは「あんたらの贅沢旅行の話を聞きに来たのではないんだ。なんのために行ったのか、会議の内容を話せ」というヤジが出るような状況だった。あれではだれもついて行けなかった。
竹下 旧日銀広島支店で最初に原爆展を準備したとき、戦後「原爆一号」といわれた男性被爆者の奥さんが「広島は今めちゃくちゃになっている。なんとかしてくれないか」と切実に訴えていたことが一つの確信になった。難儀をして原爆反対を世界に訴えてきたのに、「それほど広島は禁・協でひどい状況になっているのか」ということで、直に被爆者のなかに入り、一軒一軒訪ねながら真実に触れていく活動をおこなった。
原爆展会場に入ってきた被爆者の人たちがパネルを見て、「あのときはこうだった」と自身の体験を語り、旺盛な論議になった。非常に口の堅かった人たちがこの場では本当に安心して語ることができる。それは「原子雲の上から」の視点であったり、市民を「戦争加害者」と見下すような唯我独尊の自己主張と見なされるのではできない。平和公園で年間を通じてやっている街頭原爆展も、はじめはできなかったが、そのような市民の支持があるから堂堂とやれるようになった。
末政 私たちは今、大学や小学校へ語り部として行かせてもらっているが、このような過程を経て今日があるのだと感じる。ようやく日の目をみたような思いだ。なぜあれだけの内容のパネルを公に出せるのか、と以前から不思議に思っていたが、このような礎があったからだと思う。平和公園であれだけの内容のパネルを公然と展示できるということは、内容そのものが真実だからだ。会の活動に若い後継者が加わってくれるようになって私たちも元気が出る。
被爆体験という重たい話かもしれないが、経験を体に刻み込み、これからの未来でかかわるたくさんの子どもたちに伝えていってほしい。広島の会の先輩方をはじめこれまで一生懸命やってこられた方たちの分も、私も体調に気をつけて少しでも長く頑張りたい。
竹下 広島の人人のなかに脈脈と流れる力がそうさせていると思う。今若い人が参加してきているのも、祖父母の体験、そして親たちの思いを受けて自分はどう生きていくのかという意識が根底に流れているからであり、その思いを思い切って発揚していくことが大切だ。
広島から全国・世界へ
谷川 私は、小学校の頃の担任の先生や母親が平和教育にとても力を入れてくれて、その影響を受けて育ってきた。だから、行政の資料館をきれいにみせようとする動きに対しては違和感を感じている。そのなかで若い世代が横に繋がり、どうすれば同世代の人が平和のために動いてくれるだろうかと考えている。先生や親からいわれるよりは同世代で声をかけあった方が行動していく原動力になると思うので、今はまず大学のなかで興味のある人や、国際交流してみたい人を増やして共感を得られる人を増やしていきたい。今年の大学での原爆と戦争展では学生が主体的、能動的に平和に対してアプローチしようと思える環境をつくっていくことが目標だ。
西村 学生の考えもどんどん変わってきているし、一般市民の力が強くなっているからだと思う。戦時中は一般市民が戦争はいやだと思っても戦争へ動員されていったが、今は学生や若い世代も横に繋がって未来のことを真剣に考えようという空気になっていると思う。それが広島のなかで、日本全国や世界でも広がっていると思う。平和公園での街頭展示にも参加して、一人でも多くの人と平和について対話していきたいと思う。
犬塚 広島県内の大学で学生主体のとりくみが発展している。青年教師たちも参加してくるすう勢にある。学生時代に広島の会の活動にかかわった現職の青年教師が「自分は被爆者の体験を聞いて心が動き、その気持ちで平和の大切さや戦争の恐ろしさを教育していこうと思えた。低学年を担当しているが、3分の1の子どもたちが原爆を知らなかった。しかし、子どもたちは子どもたちなりに気持ちを受けとってくれる。被爆体験を聞く機会があれば自分はもちろん、仲間を誘ってぜひ参加し、同志たちと繋がっていきたい」という手紙をくれた。他にも県外からも意欲的な反応が返ってきており、教師たちが主体となった被爆体験の学習など、もっと活動の輪を広げていきたい。
鈴木 昨年8月の原爆と戦争展の会場には、広島の会に所属していない市民でも毎日のように足を運んでくる人が多かった。広島の会に対するサポートの気持ちがたくさんの人から伝わってきた。また、海外からの参観者も増えるなど、年年広島での活動が全市的に発展してきていると実感している。そのなかで若い世代、大学生のなかでも活動していく機運が高まっている。広島での活動のなかで、もっとも頻繁にやっているのは平和公園での街頭展示であり、全国、世界に発信していく基盤になると思う。もっと多くの人に参観してもらったり、一緒に活動できる人を増やしていきたい。これまでの広島での活動に学びつつ、多くの人人とかかわりを広げていきたい。
司会 高齢を押して献身的に活動する被爆者のみなさんの思いにこたえ、それを学び受け継ぐ若い世代の役割も非常に重要になっている。創意工夫をこらし、さまざまな形で独自の運動をそれぞれの足場や全国各地で広げていく1年にしていきたい。