紛争が激化する南スーダンをめぐって、国連PKO部隊に派遣されている自衛隊の派遣期間延長が決まり、新安保法制にもとづいて「駆け付け警護」や「宿営地の共同防衛」の新任務を与えることが俎上にのぼっている。しかし、南スーダンがどのような国であり、なぜ現在の混乱状況がもたらされているのか、その下で人人がどのような生活を送っているのか、日本国内ではその実態について基本的な知識も含めてほとんど触れる機会がない。本紙は今回、「自衛隊の駆け付け警護」等等を考えるにあたって、南スーダンの歴史的、社会的な変遷や民族的矛盾、現地のあるがままの姿を捉えることに力を入れ、そのなかで長く南スーダン現地の研究に携わってきた飛内悠子氏(日本学術振興会特別研究員PD)に話を聞いた。
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新安保法制にもとづく「駆け付け警護」の新任務が自衛隊に付与される地域として、にわかに南スーダンに注目が集まっている。南スーダンは長い内戦を経て現在のスーダン共和国から独立したばかりの国である。しかし、人人が故郷を復興させようとしていた矢先の2013年12月に紛争が発生し、数万人の死者と200万人を超える難民を出す事態に発展した。この紛争は、もともとは政権与党であるSPLM(スーダン人民解放運動)内の権力争いであったが、ディンカ人であるサルバ・キール大統領派(SPLA―Juba)とヌエル人であるリエック・マチャル前副大統領派(SPLA―IO)に分かれ、それぞれの民族全体を巻き込んで民族対立の様相を呈している。ここにスーダンやエチオピア、ウガンダなど周辺諸国の思惑やアメリカなどの関与も絡んで、解決の道筋はいまだに見えない。昨年八月に和平協定が結ばれ、ようやく戦闘が終わるかのように見えたが、今年七月に再発し、ほぼ内戦状態になっている。
私は2007年に今の北スーダンの首都ハルツームではじめて南スーダン人と出会って以降、地域研究、人類学の研究者として現イエイ川州カジョケジ郡を故地とするクク人という民族を中心に長く現地の人人とかかわってきた。現在の対立は、長く続いた植民地支配とそれに続くスーダン共和国時代の歴史的経緯を踏まえて理解する必要があると考えている。こうした背景と現地の状況をよく知り、「今、南スーダンの人人が本当に必要としていることは何か」という議論を抜きに、南スーダン情勢を議論することはできないと思う。
南スーダンはどんな国か
南スーダンは赤道近くに位置し、2011年に独立したばかりの「世界で一番新しい国」である。大部分が熱帯気候で、おおむね4~11月が雨期、12~3月が乾期になる。気温はどこも高く、乾期では37、8度、高いときは40度を超えることもある。標高が高い場所や雨期には少し下がるが、とくに首都ジュバは暑くて湿度も高く、暮らしやすい場所ではない。
南スーダンが分離独立する前のスーダン共和国はアフリカで一番広い面積を持つ国だった。南スーダンの面積は約64万平方㌔㍍、日本の約1・7倍である。全10州(現在28州に分割されている)あるほか、独立したさいに領有権が決まらなかった南北国境近くのアビエイという地域を擁している。ここは住民投票で南北どちらに属するか決めることになっていたが、まだおこなわれていない。
このアビエイも含む南北スーダン国境地帯で石油が出ることがわかったのが1980年代だ。ただし石油が出る場所の多くは南スーダン側にある。基本的に人人は牧畜と農耕を生業としているが、南スーダン政府は国家予算の八割以上を石油に依存している。といっても内陸国なので石油を輸出するにはパイプラインを通さなければならない。それがスーダンを経由しているため、南スーダン政府はスーダン政府にパイプラインの使用料を払うので利益が丸ごと入るわけではない。さらに現在の内戦状態のなかで石油の輸出が滞っており、政府は予算不足の状態である。
南スーダンには50以上の民族がおり、人口は現在1000万人を超えていると予測される。そのなかでディンカが最も大きな民族であり、ヌエルが2番目、シルックが3番目に大きい民族だ。これら3つの民族は基本的に南スーダンの北側に居住する。南側のエクアトリア地方(西エクアトリア、中央エクアトリア、東エクアトリアの3州)にはエクアトリア人と呼ばれることもある中小の民族がひしめきあっている。これまで主に政治的権力を握ってきたのはディンカやヌエル人といった大きな民族であった。
各民族は民族語を持つが公用語は英語である。共用語として口語アラビア語も広く話される。
南スーダンの民族の多くは牧畜民と農耕民である。主要な作物は主食でもあるモロコシ(ソルガム)、ゴマなどである。農耕民は雨期に農耕をして作物を貯蔵し、乾期を過ごす。牧畜民は乾季に移牧をし、雨期に雑穀を栽培して生活している。だが南スーダンに居住する人の多くは農耕、牧畜、狩猟採集といった様々な生業を組み合わせて生計を立てている。
水源はほぼナイル川であり、農業は天水農業つまり雨に頼る農業で、灌漑をやっている地域はほとんど聞かない。北スーダンでは灌漑農業も見られるが、それでも発展しているのは首都ハルツームなどナイル川沿いに限られている。青ナイルと白ナイルが合流するハルツームも、もとは小さな農村だったが、植民地期にスーダン攻略の拠点となって開発が進んだ町だ。
歴史的経緯
スーダンは長くイギリスとエジプトの共同統治下にあった。イギリスから独立したのが1956年だが、北部スーダンと南部スーダンの内戦が始まったのが1955年といわれている。どこを節目にするかは諸説あるが、独立する前から始まっていたといわれており、イギリスから独立した時点から今に至るまで、10年間の休戦期間を除いてほとんど安定した期間がなく発展する余地がなかった国である。
南北スーダンの分断の主な要因の一つとなったのはイギリスの植民地政策である。北と南の境目辺りには「スッド」と呼ばれる湿地帯があり、北から南に船で入るのが難しいという条件もあって、もともと両者の交流は盛んではなかった。そうした環境にあった1820年、エジプトのムハンマド・アリー朝が北部スーダン侵略を開始し、イギリスもそれに続いた。北部スーダンにたどり着いた植民地勢力は支配領域を広げるため、南スーダン領域に足を伸ばそうとして、ナイル川を切り開いて行き来できるようにしていった。初めて現南スーダン共和国の首都ジュバ付近に植民地勢力がたどりついたのが1840年である。北部スーダンの人人も植民地勢力に抵抗し、一度はイギリスを追いやったが、最終的に一八九九年、ダルフールを除いた現在の南北スーダンが植民地国家として成立した。
イギリス・エジプト共同統治下では「南部政策」と呼ばれる分離政策がとられた。北と南で民族が違うのは確かだが、その「違い」を北部、南部がはじめから意識していたわけではない。それをイギリスは明確に分離して統治したのである。具体的には北から南に商人が交易で入るのを禁止したうえで、北側にはイスラームの信仰を認め、イギリスの統治を手伝う人材を育成するために高等教育機関を置いた。それが現在のハルツーム大学である。
それに対して南にはイスラームが入ることを禁じた。商人の交易を禁じるのはイスラームが入るのを阻止する意味を持っている。そしてアラビア語による教育ではなく、キリスト教宣教師団を入れ、キリスト教の布教と教育をおこなった。ただし南における教育は、ハルツーム大学のような高等教育機関は置かず、基礎的なものだけだった。イスラームを認められた北側で名家の子息などが高等教育を受けるようになると、それを与えられていない南への視線は当然にも見下したものになり、「俺たちは南のアフリカンとは違う」という意識が生まれた。北側で高等教育を受けて政治家になったり、経済政策を担える人材が育っていくのに対して、南側はそのままに置かれたのである。
これほどの分離政策をとっていたにもかかわらず、イギリスは植民地を手放すさいに南北を一緒に独立させ、イギリス・エジプトが引き揚げるにあたり、行政の担い手をスーダン人に置き換える=「スーダン化」をおこなった。このとき南部スーダンには人材が育っていないため、北部スーダン人が南部のそれをも担った。それまでの分離政策に加えて、北部スーダン人による南部における奴隷狩りがおこなわれたという歴史もあり、これが南側の人人の反発を買うのは当然であった。
1955年、トリットの乱が起こり、それが第1次スーダン内戦の一つの開始地点になった。当時のイギリスからの独立後スーダン政府は南部スーダンに対してアラブ・イスラーム化政策をおこなった。これは南側の反発を生み、両者の関係は悪化していく。1960年代以降戦闘が激化し、1965年にはジュバで北部軍による南部人の虐殺が起こっている。1972年にアディスアベバ協定によってようやく第1次内戦が終了し、10年間の休戦期間が訪れた。南北スーダンの歴史のなかでこれが唯一内戦のない期間となった。
第2次内戦とSPLA
しかし、協定によって定められた、南部の自治権を認め、南部でも経済発展や開発をおこなうとした約束は北の都合で実行されず、南部では不満が高まった。さらに北の当時の大統領ガファル・ヌメイリは、南部の自治権をとり上げ、アッパーナイル、バハル・アル・ガザル、エクアトリアという三つの地域に分割した。これらの地域はそれぞれ、ヌエル、ディンカ、そしてエクアトリア人という「民族」と結びつく。南部に「独立したい」という思いが根強くあるのを危惧し、三つに分割して互いに競い合わせ、独立を阻止しようとしたものだ。こうした政策は直接的ではないにせよ今のヌエル・ディンカの対立につながっている。もちろん植民地期にも民族間対立が煽られていた。このように対立がつくられてきた歴史がある。
縮まらない経済格差、そして9月法と呼ばれる刑法の施行などさまざまな不満があわさり、1983年に南部スーダンで蜂起が起き、内戦が再開した。ジョン・ガランが率いたSPLA(スーダン人民解放軍)は、初期には南部内の敵対勢力を追い落としたりしていたものの、次第に南部スーダン全体から一応の支持をとりつけた。ジョン・ガランが求めたのはニュー・スーダン、つまり南と北が一緒に新しいスーダンをつくるべきだというものだ。彼は「北スーダンでも周辺の民族は低開発のままに置かれている。南だけではない。南と北は協力して、人種や宗教、民族で分けられない新たなスーダンをつくるべきだ」と一貫していい続けていた。彼は南だけでなく北の人人からも人気があり、もし死なずに大統領選に出ていたら、統一スーダン大統領となって南北分離はなかったかもしれないともいわれる。
彼はディンカ人で人気も求心力もあったが、独裁的な面もあり、反発する人もいた。さらに南スーダンのなかにはニュー・スーダンを受け入れがたい人はいた。そうした反発と、かつ「俺が率いたい」という思いもあったのか、1991年にリエック・マチャル(前副大統領)とタバン・デン・ガイ(現副大統領)が中心になってジョン・ガランに反旗を翻し、ナシル・クーデターを起こした。それは南北の内戦よりひどかったといわれ、内戦を激化させた。ガランを支援していたエチオピアの社会主義政権の崩壊に加え、この内部での反乱はガランやSPLAの力をそぎ、北側の力が増した。しかもナシル・クーデターを起こしたナシル・ファクションは、「敵の敵は味方」と、あろうことか北スーダンと手を組んでいた。だれが敵でだれが味方かわからない状態となり、内戦は90年代を通して泥沼化した。
1994、95年頃からガラン側の力が復活し、政府軍にとられたところを奪い返すようになってきた。国際社会の関与と国民の疲弊もあって、2000年代から和平調停が盛んにおこなわれるようになり、02年に結ばれたマチャコス議定書が内戦終結の一つの分岐点になった。その少し前からナシル・ファクションのメンバーが次次SPLAに戻り始め、02年にリエックが戻ったことで「SPLAがまとまった」こともあって交渉が進み、05年1月にスーダン政府とSPLAとの間で包括的和平協定が結ばれた。ここでは、南部政府をつくり、6年間の暫定期間をおいたうえで独立を問う住民投票をおこなうことが決まった。そして6年後の2011年1月におこなわれた住民投票では南部住民の98%以上が独立に投票し、同年7月9日、南スーダンは独立を果たしたのである。
ジョン・ガランは和平協定が結ばれた05年の7月にウガンダから戻る途中に飛行機が墜落して死んだため、部下だったサルバ・キールが後を継ぎ、大統領となった。殺された可能性もあるといわれるが真相はわからない。
この南スーダンの独立にはアメリカの意向も大きくかかわっているといわれる。石油利権の問題に加え、イスラーム圏である北部スーダンはビン・ラディンを匿ったといわれた国でもあり、南部スーダン以南のアフリカはキリスト教が多いので、アメリカは南スーダンをイスラーム化を防ぐ防波堤、分水嶺と見て分離独立させたのである。しかしながら、多くの犠牲者を出した内戦の一応の帰結ということで、南スーダンの人人はこれからの復興に希望を持っていた。
独立後の紛争
だが、独立後も決して平穏ではなかった。各地で紛争が頻発していた上に、次第に清廉潔白で真面目であったと言われていたサルバ・キールの独裁化が問題になり始めた。また、政府要職にある人人の横領も問題となっていた。実は、SPLAがスーダン内戦期支援物資の横領をしていたのは公然の秘密であった。そしてサルバ・キールが独裁体制を敷き始めたことにリエックやその周辺が反発していた面が大きかった。それに対してサルバ・キールは2013年7月、閣僚を全員更迭した。同年12月に起こった戦闘では、「リエックとその周辺の一派がクーデターを画策した」といい、クーデターを起こしたとされる人人を逮捕し、ジュバ市内でリエックの属するヌエル人の虐殺をおこなった。このクーデター自体、リエックは否定しており、専門家のあいだでは「サルバ・キールが民族対立を煽ってリエックを追い出したのだ」と見られていた。真相は闇の中だが、戦火は急激に拡大し、多くの犠牲者を出しながら泥沼化している。
政治対立だったはずが民族対立の色も濃くなり始めており、サルバ・キール側もそれを煽っている気配がある。国に金がなく、公務員や軍すら給料を遅配している状況にある。周辺諸国の相当な圧力によって2015年8月に和平協定(南スーダンにおける紛争の解決に関する協定ARCISS)がなされたのちも、地域―民族間対立をあおるようなやり方で10州を28州に分ける、ARCISSで決められていたはずのジュバの非武装化(政府軍のジュバからの撤退)をしないなどサルバ・キールの政策は評価されていない。リエックが一方的に支持を集めているわけでもない。
7月のリエックのジュバからの撤退を受け、同じIO側にいたタバン・デン・ガイが副大統領に就任し、アメリカをはじめとした国際社会もそれを承認する傾向にある。だがこれは半ばタバン・デンによるリエックへの「裏切り」である。サルバ・キールがタバン・デンを政府側に引き込んだのである。こうした「引き込み」はサルバ・キール側、そしてリエック側が互いにおこなっている。
簡単にいえばサルバ・キールとリエックが狐と狸の化かしあいをしており、互いに相手の味方から造反しそうな人を見つけ、自分の側にひき抜き、勢力範囲を広げつつ変えていく、さらに国際社会を使って自分の有利なように動かそうと画策しているという状況である。
南スーダン人の中にはこの状況を冷ややかな目で見る人も多い。とくにディンカ・ヌエル以外の南部の人達の中には、この紛争は自分達が「巻き込まれたもの」であると感じている人が多い。このような状況で強引に和平協定が結ばれたとしてもその履行が確実になされるかには疑問が残る。 ジュバ市内はウガンダから幹線道路を通じて物資は入ってくるので、お金さえあれば生きていける。しかし輸入品なのでレートがかかって高い。紛争前に約2南スーダンポンドが1000ウガンダシリングだったのが、現在は1000南スーダンポンドが4000ウガンダシリングとなっていて現地の人も「もう紙だよ」といっていた。500㍉㍑のコカコーラが3南スーダンポンドで買えていたのが今は35南スーダンポンドという話も聞いた。「インフレ率600%、世界1」ともいわれている。
ジュバはお金がなければ生きていけない地域だ。市内の土地は高騰していたので、もともとの住民以外はあまり土地を持っておらず、耕すこともできない。水も配水車から買うのだが、それも値上がりしている。七月に紛争が起きた後、政府軍がマチャルをジュバから追い出したので、一応治安は落ち着いているとされるが、それでも2013年以前と比べればそれは恐ろしく悪化した。強盗事件の数は増加し、生活の苦しさや治安への不安からウガンダなどに逃げる人も多い。そうした強盗事件が政府軍によるものだといわれることもある。給料が払われず、武器を支給されたら食料の「自己調達」につながりうるのは容易に予測しうることである。また紛争で家を追われ国連施設や教会に逃げた人は生活を大きく変えざるをえない。とくにヌエルの人たちは国連の中にいなければ政府軍の標的になる可能性があり、避難生活を続けていることが予測される。
これまでは戦闘が主におこなわれたのは南スーダン北部であり、ジュバも含め南部のエクアトリアは比較的落ち着いていた。しかし昨年8月の和平協定を受けて今年4月にリエックが副大統領に復帰したさい、軍を引き連れてジュバに戻ってきたことから状況は変わった。両者がエクアトリア地方に軍を展開したため、各地の兵士の間で小競り合いが起こり始めた。カジョケジでは今年5月半ば過ぎから始まり、6月頃には頻発していた。行政機関はほぼ機能していないといわれ、ほぼ政府軍の支配下にある状態である。その政府軍も統制がとれていないという。7月の戦闘以降はほとんど内戦状態になっている。この戦闘では300人(実際はそれ以上)が亡くなったといわれ、政府軍がヌエルの一般市民も標的にしていたという話もある。
2週間ほど前にはウガンダからの重要な補給路の一つになっているイェイ(ウガンダ・コンゴとの国境地帯の町)のカヤという地域を反政府軍が封鎖したという話だ。おそらくここからの物資は止まっており、人人がウガンダに抜けることもできない状態と聞いている。イェイは激戦だったという話で、農耕もできていないと考えられるため、生活物資や食糧の不足が危惧される。
もう一つの、ウガンダと南スーダンを結ぶ一番大きな道路があるニムレという町は政府軍が押さえており、そこからジュバに物資は入っているようである。ただ、この町を反政府軍も狙うし国外へ出ようとする人たちが政府軍の標的にされるという話も聞いている。住民はみなウガンダに逃げ、ニムレは車が通るだけの町になっているという。難民はエチオピアやウガンダ、北スーダンに相当数が流れており、ウガンダで最大数の難民受け入れをおこなっているアジュマニ県では、国民人口の23万人を超える難民を抱えて、別の場所に新しい受け入れ先をつくっている。北側も昨年8月以降「戦闘は収まった」といわれていたが、今年7月以降は各地で戦闘がおこなわれており、相当数の難民が出ているようだ。
しかしあまりにも急で、あまりにも難民の数が多すぎるため支援が追いついていない。新しい難民居住地に親族を訪ねて行った人に聞くと、ビニールシートなどの資材も足りないし、食べ物も十分な量は支給されていないという。南スーダンから逃れるのがいいのか、とどまって踏ん張るのがいいのか判断しかねる状況にある。北スーダンにも一定数の難民が逃れているが北スーダンの難民の扱いは恣意的で、難民と認めたり、「たんなる移民だ」といったりして扱いはいいとはいいかねる。紛争を巡っても北スーダンは「中立」を装っているが、確実にリエックを支援していると見られている。
こうした混乱状態のなか、2012年から自衛隊が南スーダンPKOに派遣されているが、現地の人たちはあまり自衛隊の存在を知らずむしろJICAの方が有名である。自衛隊も当初はインフラ整備を主な任務としており実際に道路建設をしてきていた。その活動を全否定するものではない。地方経済を活性化させるためにもジュバ市内の物価を下げるためにも、道路をつくり、南スーダン内部で物資を回すのは重要だからだ。本当は一番インフラ整備が必要とされていたのは北側のジョングレイ州やアッパーナイル州、ユニティ州などだが、危険なため自衛隊はジュバに限定して活動を始めた。
雲行きが変わったのが、特定秘密保護法や防衛装備移転3原則が決まるなど、安保法制に向けた議論が始まった2013年頃である。ちょうどこの頃に唯一自衛隊がPKOとして派遣されていたのが南スーダンであり、安保法制を変えるために、またその導入として「駆け付け警護」が無事にできることを証明するために、南スーダンがとり上げられていると感じている。
安倍首相が「衝突であり紛争ではない」などといっているが、現地の様子を見て、どこが紛争でないのかと思う。今の混迷した状態で普通の軍の常識は通じない。さらにジュバで「駆け付け警護」をするというとき、「誰に銃を向けるのか」という問題が起こる。誰が味方で誰が敵かわからない状態は続いている。襲撃してきたのが反政府側なのか政府側なのか、第三者なのかわからないのに、自衛隊が自分で判断できるのか疑問だ。もしかしたら一般の人に銃を向けてしまうかもしれない。
国連PKOの4000人増派が決まったとき、政府側ははっきり「主権侵害だ」「植民地主義の再来だ」といって反発している。SPLA/Mは政党であり軍隊であるのに、国連軍が入ってきてジュバが非武装化すれば、政府軍もジュバから出なければならないから、政府軍のなかで国連に対する相当な反発が出ているのは明らかだ。稲田大臣が訪問したときの南スーダン側のコメントも、「インフラ整備などで日本の協力は必要だ」といっているが、「駆け付け警護が必要だ」とはいっていない。自衛隊の活動としてインフラ整備は否定しないが、それは自衛隊でなくてもできるのではないかと思う。ましてやこれほどの混乱した情勢のなかに、あえて「駆け付け警護」を導入する意味があるのか、疑問を感じざるをえない。
南スーダンの人たちは比較的親日的である。ウガンダや南スーダンでは中国の進出が目立ち、道路整備や住宅建築も中国がしている場合が多い。南スーダンの人人はその仕事の早さに一定の評価を与えつつも、車やバイク、パソコンなどの物資を考えたときに「やっぱり日本の物がいい」といわれたりする。これは日本人である私へのリップサービスかもしれないが。また日本はアフリカで植民地支配をしていない。きれいで、いい物をつくり、過去にわだかまりのない国として心象はいい。これが「駆け付け警護」などで、どちらかの民族なり勢力から「敵だ」とみなされたとき、日本にとっても南スーダンの人にとっても、なんの利益にもならないと思う。
ひとりの日本人として、南スーダンに深くかかわってきた者として、国際社会における日本の役割と共に、日本と南スーダンがいかなる関係を築きうるのか、そのために何ができるのか、それを今もう一度南スーダンの状況との「対話」から見直す必要があるのではないかと考えている。