一、
現代はハラスメント社会である。ハリウッドでは、映画女優たちが大物映画プロデューサーから過去に受けたハラスメントについて次々と声をあげ、大騒動になっている。日本でも、人気の女性ブロガーが、電通在職時に著名なクリエイターから受けたハラスメントを告白して、話題になっている。女性政治家が秘書に暴言を吐いた録音が明るみに出て、ワイドショーで取り上げられるということもあった。これらは氷山の一角に過ぎず、社会のあちこちでハラスメントは日常的に横行している。
通常、ハラスメントは強者から弱者に対して行われる。会社などの階層的な組織においては、予算執行権や人事権、業務上のさまざまな権限を広範に掌握する者が強者である。優位な立場にある強者が、組織に生きる人間の生殺与奪権を背後において、ハラスメントを行うのである。ハラスメントの加害者は、「ハラスメントという意識はなかった」という言い訳をしばしば口にするが、嫌がらせ行為が、自分より立場が上の者へ行われることはない。意識せずにやった行為であるなら、自分より立場が上の者へもその行為を行ってよいはずだが、いつも弱い立場の者が狙い撃ちにされる。「ハラスメントという意識はなかった」とは言いつつも、その行為が不謹慎な行為であり、不快な気持ちにさせる行為であることがわかっているからこそ、立場が上の者には実行されないのである。
加害者は、自分の社会的な生殺与奪権を持つ強者(上司)に対しては、ハラスメントを行わない。反撃することができない弱い立場の者(部下)を選択して、ハラスメントを行うのである。組織内での地位や収入が同等の同僚間であっても、その組織内での少数派(女性であるとか、学歴が低いとか、病歴があるとか)である弱者に対しては、ハラスメントが行われる。
会社組織でなくとも、大金を得た場合、虎の威を借る狐になった場合、圧倒的な体格差や腕力のちがいが歴然とわかる場合、特別なスキルや情報を独占した場合などに、それまでとちがって威圧的になり、攻撃的な言動が目立つようになり、ハラスメントの加害者に変身する者は、いくらでもいる。優位な立場にあるからと言って、悪意をむき出しにしなくともよいし、嫌がらせをしなくともよいのに、ここぞとばかりに隠していた邪悪な欲望を噴出させる者がいるし、心の奥底にあった小さな悪意を加速的に肥大化させて、暴君と化す者がいる。
ハラスメントの加害者は、たとえ被害者が従順になっても、ハラスメントを止めない(さらに加速させることもある)。被害者が加害者のもとから新しい環境へ去っても、加害者は被害者の新しい環境にまで執拗に悪影響を及ぼしたり、仕事を妨害したり、追い討ちをかけてくることもある。逃れた被害者を追撃しない場合は、第二の被害者となるターゲットを見つけ出して、また同じようなハラスメントを繰り返す。
なぜ加害者は恒常的に弱者を挫き、嫌がらせをするのかと言えば、立場の弱い者が、制度上の理由から仕方なく加害者に従っているだけであるということが、加害者に感知されるからである。「自分に心酔してほしい」、「自分を敬ってほしい」、「自分に心から賛同してほしい」という欲望が叶わないことに対する加害者の苛立ちが、給料の削減や人事異動や日常的なハラスメントとして顕れるのである。権力を持っている自分を羨望してほしいのに、誰も羨望してくれない。しかも、仕方なく従っていることがわかる。となれば、羨望してほしい自分の力を大いに誇示することで、加害者は被害者に対して強引に自分の力を認めさせようと努力しはじめる。
しかし、加害者が権力をはじめとする独占的な力を使えば使うほど、被害者は嫌気がさし、不快になり、表情を失っていく。ますます加害者から人心が離れる。人心が離れれば、加害者は人心を得たいがために、さらなる大鉈を振るう。そうすれば、さらに被害者の心離れに拍車がかかる。人心乖離とハラスメントがスパイラルのように旋回し、やがてどうしようもない人権侵害の残酷な環境が作られてしまう。被害者が心を病むまで、あるいは死に追いやられるまで、組織が蝕まれて壊滅するまでに事態は進行していく。
加害者が抱く「自分を認めろ」という「承認欲求」(誰かに認められたいという感情)は、関係の優位性を利用した高圧的なものである。これによって相手の心までかしずかせることはできない。このため、優位な立場にあるはずの組織の上司は、不機嫌になり、いつもイライラしてしまう。ところが、イライラして弱者にあたる原因が、承認欲求が満たされないからだという自分の気持ちに気づかない加害者もいる。気づいている者であっても、自分の優位性をひとまず置いて、対等なコミュニケーションをとろうとまでは、なかなか思わない。
心から同意を得るためには、他者に対して、それなりの接し方をして、それなりに遇しなければならない。部下であろうが、我が子であろうが、生徒であろうが、立場の異なる他者を尊重して大切に扱わない者が、他者から敬意を抱かれるわけがないし、承認を得られるわけがない。立場が上位であることを誇りたい加害者は、上意下達の命令系統に執心しているがために、人間関係を縦糸だけで見てしまう。加害者には、人間関係を横糸で見る相互承認という当たり前が見えないのである。
二、
承認とは、一方的なものではなく、相互に認め合うことである。上司が部下を大切に遇して一人の人格ある人間として認めれば、部下もまた上司を一人の人間として敬い、承認する。しかし、社会の各所で、上司による部下への承認が行われないのみならず、多数派から少数派への承認、大人からこどもへの承認、強者から弱者への承認が失われている。上司に蔑ろにされた部下も、仕事帰りに立ち寄る居酒屋やコンビニの店員や最寄駅の駅員に横柄な態度で接するということがある。パート先で店長に理不尽な扱いを受けた者が、家庭で幼い我が子や年老いた父母に厳しくあたるということもあるだろう。
行き過ぎた資本主義が、社会の各所から他者への承認を喪失させる。というのも、他者への承認は、資本主義の電卓でその価値をデジタルな数値に換算できるものではないからである。「あなたについては、二百円分だけ承認しています」、「もう三百円いただかないと、これ以上の承認はできません」などといった売買ができるシロモノではない。数値として弾き出せないものや、貨幣と交換できない類のものは、無価値なものとして資本主義社会の査定の外へ追いやられる。敬意や義理や人間性の承認などは、その代表例である。と言っても、コトは「資本主義が悪い」と断定して終わる話ではない。現代のハラスメント社会は、行き過ぎた資本主義の産物だと叫んだところで、社会からハラスメントが一掃されるわけではない。もちろん、現に起こっている加害者個人の責任は糾弾されるべきであるし、一つ一つの事案について行動を起こしている個人や団体もあるし、被害者の勇気ある告発によって加害者が相応に懲らしめられるケースもある。しかし、ハラスメントが露見せず、被害者が未だ耐え忍んでいるケースも圧倒的に多い。新しいハラスメントが次々と社会に登場し、被害を未然に防ぐのも難しい現状である。
社会は、各地の草の根から時間をかけて善くなるものだ。しかし、社会が悪くなるのも、同じく草の根からなのである。諸悪の根源のような黒幕的な悪者の奸智によって、ある日突然世の中から他者への承認がなくなったというわけではない。社会は、草の根から、じわじわと周到に時間をかけて悪化していく。その帰結が、ハラスメントだけでなく、現代社会の諸問題として各所に噴出している。社会が上手に機能していないのだとすれば、無論それは為政者の責任によるところが大きいわけだが、その為政者を選んだのは国民にほかならない。「私は現在の為政者を支持していない」という人ももちろん大勢いるが、その人にしても、現在の為政者が選ばれるのを防ぐことまではできていない。では、どうすればよいのか。
社会には、悪い連中がいる。政治の世界にも、職場にも、学校にも、家庭にも、メディアにも、社会の至るところに悪者は存在している。連中は、ハラスメントの悪臭を撒き散らしている。この連中の諸悪に対抗するには、時間はかかっても、やはり草の根で押し返すしかない。「草の根の悪」には、「草の根の善」である。迂遠なようで、それが改善への確かな近道だ。悪臭を撒き散らす連中がいるように、世の中を少しでも善くしようと奮闘する者も同じように一定数いる。そういう者と手を携えて、あるいは助力を請い、あるいは支援や応援をするのである。できることから、少しずつでかまわない。塵も積もれば山である。社会の構成員一人ひとりが少しずつ責任を感じて、劣化した社会を少しでも修復して、未来を善きものにしようと考えて、できることからやっていくということが大切だ。それでは、具体的に私たちにできる「草の根の善」とは、何であろうか。
政治哲学者のハンナ・アーレントは、ナチスの恐ろしい戦争犯罪を行使する者の正体は、何も特別なものではない「陳腐な悪」であると言っている(『イェルサレムのアイヒマン』)。ナチスのアイヒマン中佐の裁判を傍聴したアーレントは、大勢のユダヤ人を「絶滅収容所」へ送って虐殺した張本人であるアイヒマン中佐の悪の動機の一つが、小心者による出世のための忠実な職務執行という「陳腐」なものであったと見破った。承認欲求に起因する現代社会におけるハラスメントの加害者の動機も、「私に敬意を払え」、「私のことを認めろ」という幼児的な欲求に基づくもので、とても「陳腐」なものである。アーレントは「陳腐な悪」への対抗の仕方については語らなかったが、「陳腐な悪」に対しては、当たり前の善が有効であろう。一夜にして悪を滅ぼし、立ち所に問題を解決する聖人君主や英雄(特別な善)の到来は、現実的にはなかなか期待できない。敵は人外の魔物ではない。居丈高ではあっても、小心者の幼児的で「陳腐な悪」である。これならば、私たちの当たり前の善で充分対抗できるはずだ。
当たり前の善とは、あちこちに溢れているありきたりの単純な善である。まず相互承認がその一つである。歌人の俵万智に、「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」という人口に膾炙した短歌があるが、「応答すること」が相互承認の第一歩なのである。承認は、応答責任を果たすことからはじまる。それが、相手を敬して遇することにつながる。これを草の根から、できるところから始めることである。簡単なことである。店で商品を買ったら、店員に「ありがとう」と言う。隣人に出会ったら、「こんにちは」と挨拶をする。自分より弱い者の話に、相槌を打って耳を傾ける。質問には誠実に応える。こういうレスポンシビリティ(responsibility=応答責任)とアカウンタビリティ(accountability=説明責任)を基本とすることで、社会は少しずつ善きものとなっていくはずだ。しかし、悠長に構えてはいられない。「草の根の悪」は至るところに蔓延っていて、社会の破壊は危機的な状況に達しているからだ。「隗より始めよ」という故事があるが、いずれ知恵者も現れる。まず自分から実践である。「当たり前の善を草の根から」の精神である。立場の上下という縦糸とは別に、互いが互いを尊重する相互承認による横糸の社会が進行すれば、ハラスメントはなくなり、やがて「陳腐な悪」は滅びる。