下関市立考古博物館で企画展「“発見! 恐竜卵化石”~日本初の恐竜化石は下関で発見されていた~」が開かれている。今年6月、下関産出の恐竜の卵化石があることが明らかになったのをうけての企画展だ。
この恐竜の卵化石は1960(昭和35)年に、当時子どもだった清水好晴氏が綾羅木川上流で発見し、5年後の1965(昭和40)年に友人とともに採集した。当時の日本国内には恐竜の存在を示す証拠はなく、誰も恐竜が日本に存在したとは考えていない時代だった。同氏は心のなかで恐竜の卵の化石ではないかと期待しながらも、確証は得られず、就職で下関を離れても手元から離さず長い間大切に保管してきたという。
その後、国内の恐竜の存在を証明する発見が相次ぎ、卵化石を含む恐竜に関する研究が進むなかで、同氏がその化石を最先端の研究機関に委ねたところ、今年6月にそれが約1億年以上前の恐竜の卵化石であることが明らかとなった。
恐竜の卵化石の実物を展示 当時の写真記録も
注目されるのは、清水氏が高校生だった採集当時に化石の写真記録や実測図面記録をていねいに作成し、それを化石資料とともに現在まで保存していたことが、50年前の発見の根拠を明らかにする決め手となったことだ。また高校生だった同氏の記録作成は、当時下関市内で大きな社会問題となっていた綾羅木郷台地遺跡の保存運動と大きなかかわりを持っているという。
考古博物館の企画展では、恐竜の卵化石の実物のほか、同氏が高校生のときに作成した写真記録や実測図形記録を展示している。これまで日本では岩手県で1978(昭和53)年に発見された恐竜化石が最初の例となっていたが、1965(昭和40)年には下関で恐竜化石が産出されていたことになり、国内最初の恐竜の存在を証明する発見がおこなわれていたということになる。
また下関市内では、2004(平成6)年に恐竜の足跡化石が吉母地区で発見され話題となったが、市内の各所で発見されてきた植物化石や魚介類の化石を展示している。さらに同展は、綾羅木郷遺跡の発掘調査の記録写真を展示している。この遺跡保存運動には全国から多くの考古学研究者が下関に駆けつけ、地元の学生、市民を指導し、遺跡保護のための発掘調査が大規模に実施された。清水氏はこの発掘調査にもボランティアとしてかかわり、遺跡保護の考え方や調査に伴う記録作成の方法について、実践的指導を受けていたという。このことが綾羅木川上流で恐竜化石を発見採集したときにおこなった記録作成に生かされ、50年以上をへて大きな成果を導くことになった。
展示写真には発掘調査に参加する若かりしころの清水氏の姿をはじめ、生きた教材を学ぶために発掘現場を訪れた地元中学生と研究者が談笑する場面などがあり、当時の歴史的遺跡の保存運動の盛り上がりを伝えている。浜崎学芸員は「清水さんは綾羅木郷遺跡の保存運動とのかかわり、当時の考古学の専門家などに影響を受けたことを語っている。このような歴史遺跡に対する態度や価値観の形成ができたのも、当時の下関であればこそだったのだろうと思う」と語る。
綾羅木郷台地遺跡は1950年代から遺跡調査が本格化し、県内外の研究者の支援で大きく進展した。これらの発掘調査は専門家だけでなく下関在住の考古学、民俗学、歴史学に興味を持つ在野の人人による下関始原文化研究会や一般市民のボランティアによって進み、地域の歴史・文化の愛護意識の醸成に大きく寄与した。一方で高度経済成長期の真っ只中にあり、綾羅木郷遺跡の下部に見つかった硅砂の堆積層が産業開発のための採掘対象となった。ベトナム戦争の影響で輸入できなくなったベトナム・カムラン湾の硅砂代替品として建設業者が採掘をはじめ、ブルドーザーによる遺跡破壊がおこなわれた。当時「経済的発展か埋蔵文化財の保存か」という二者択一の選択が迫られるなかで、現場の人人はブルドーザーと戦いながら調査を続けたという。保存を求める運動が盛り上がり、最終的には文化庁によって異例の速さで国の史跡として指定され、恒久的な保存が実現した。このような危機的状況を経て綾羅木郷遺跡が国史跡指定50周年を迎えようとしている。企画展は、郷土の歴史的遺跡を守る市民の身体を張った運動の歴史を現代に継承する意義を再確認するものとなっている。
なお16日(土)には記念講演会とミニシンポジウムが同館にて開かれる。記念講演は福井県立恐竜博物館の研究職員・今井拓哉氏が「下関における恐竜卵化石発見の意義~恐竜卵化石研究の最前線~」と題して講演する。シンポは「50年前の新発見! 恐竜卵化石発見から考える~下関の過去・現在・未来~」と題しておこなわれる。卵化石発見者の清水好晴氏もパネラーとして参加する。参加受付はしめきられた。展示は来年1月21日(日)まで。