いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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朝鮮戦争当時のメディアの自主検閲を振り返る GHQ監視のもとで

 北朝鮮とアメリカの軍事的緊張が激化し、ミサイル発射などがくり返されるなかで、日本国内ではここぞとばかりに有事体制を強める動きが顕在化している。この世論動員に一役買っているのが商業メディアで、Jアラートが鳴った朝にはNHK・民放のテレビ全局が一斉に番組を「ミサイル」一色の「有事報道」に切り替えるなど、世界各国でも稀なる騒ぎをくり広げた。朝鮮半島を巡る歴史的、構造的な矛盾について冷静かつ適確に捉えて国民に伝えるという任務を遂行するのではなく、もっぱら「狙われた」「けしからん」を煽り立てるものとなった。ただ、朝鮮情勢をめぐるこうした日本のマスメディアの報道姿勢は、今に始まったものではない。それは、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争(今は休戦状態にある)以来、一貫したものだ。

 

伝えられなかった小倉の米兵脱走事件 米国情報のみ許可

 

 当時、アメリカの占領下でマスメディアは、GHQの言論統制(プレス・コード)のもとに置かれ、朝鮮現地の状況についての報道は、アメリカが与える情報以外は禁じられていた。それは、前線報道だけではなかった。

 

 開戦直後の7月4日には、米軍の出撃拠点となった小倉(現・北九州市)の米軍城野キャンプの黒人兵200人以上が出動を拒否し、集団脱走する事件が発生した。この事件は、米兵の民家への乱入・暴行から、MP(憲兵隊)との市街戦へと発展し、市民に大きな不安と恐怖を与えた。しかし、新聞各紙の報道は一段のベタ記事で、事件について話すことも禁じられ、市民には真相が覆い隠されたままであった。

 

 当時、日本のマスメディアは原爆報道を中心に、GHQの徹底した検閲下にあった。占領当初の事前検閲は、事後検閲に変わっていたが、その実質は各紙誌・放送局の社内検閲(自主規制)であった。「拳銃で強迫、現金強奪   街や劇場に米兵の非行」という記事が原因で発行停止処分を受けたり、「日本娘の行状を非難し、間接に米兵の非行にふれた記事」が公表禁止処分を受けるなかで、新聞各紙は社内規制を強めていた。

 

検閲課復活させた朝日新聞  それでも脅され…

 

 『朝日新聞』などは、戦後廃止した天皇制下での検閲課を復活させ、GHQ報道については「天皇報道の扱いのような高いレベルで、全社を挙げて神経を張り巡らせる」ことを確認しあっていた。だが、朝鮮戦争に関する『朝日新聞』(7月4日付)の社説の次の部分が、GHQの事後検閲に引っかかった。

 

 「占領下にある国民としては、徒らに不安に怯えず、また興奮することなく、静かに、当面の日本に課せられている降伏条件の遂行に、特に忠実であり細心であることが大切である。政府としては、民心の動揺を防ぎ、国民の中から事態をわきまえない者が出て、連合軍の占領政策遂行の妨害になったり、逆にまた個人的な興奮から義勇兵を志望するような空気が出て、国内に混乱や興奮を作り上げないよう、あくまで国民の冷静を要求し、事態に対処すべき政府と国民の態度を宣明すべきである」

 

 このように、社説の内容は朝鮮戦争を機に混乱を企てる者が出ないよう、占領政策に忠実に従うよう呼びかけたものである。だが、GHQ新聞課長のインボデ中佐が『朝日』の長谷部忠社長を呼び出し、「高みの見物をするなどもってのほか、中立はありえない」と脅しつけた。長谷部はほうほうのていで帰社し、編集局や論説幹部を集めて今後の対応として、①北鮮軍の行動は侵略行為であること、②国連がこれに対しておこなった決定はやむを得ないこと、③アメリカが国連の決定に基づいて軍事行動をとったことも当然である   という3点だけは社論として明確にすることを決めた。この自己検閲は今日まで、破棄されたことはない。

 

細菌戦、捕虜等こまかく規制

 

 米津篤八氏(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター)は『日本人従軍記者の朝鮮戦争報道とその性格』などで、朝鮮で休戦会談が始まったころ、日本の再軍備を求めるアメリカが日本の従軍記者を大がかりに組織し、朝鮮南部に動員していたことを明らかにしている。

 

 1951年7月、日本の新聞社、通信社、放送局など16社、18人で組織する日本人従軍記者団をソウルに派遣したのを機に、1953年7月の休戦協定締結までの2年間にわたって、朝鮮戦争に従軍した日本人記者は60人余りに上った。

 

 アメリカはこの記者団に、「国連軍佐官級将校身分」の従軍記者という好待遇を与え、食費の40%を個人負担する以外は交通費、宿泊費、通信費などすべて免除していた。米軍はその一方で、朝鮮戦争の客観報道に神経をとがらせ、徹底した統制と事前検閲下に置いた。

 

 検閲基準は20分野88項目にわたる膨大なものであった。そのなかには、 「細菌戦や伝染病に関する記事は、それが友軍領域であれ敵陣の背後であれ、いかなる扱い方であっても、GHQ参謀第二部(G2)によって審査されるか、またはGHQ渉外局によって発表されるまで報道してはならない」 「“エージェント”という語の使用、“民間の情報源”、および越南民(越境者)、戦争捕虜からの引用は許されない」 「国連軍による実際の、又はあり得る残虐な行為、あるいはその他のジュネーブ条約違反を暗示したりほのめかすような、国連軍隊と生存する戦争捕虜もしくは戦争捕虜の死体が写された写真は許可されない」 「心理戦の計画に関するすべての情報は、GHQ参謀第二部心理戦課によって発表される。GHQ渉外局を通じて公式に発表されたものと一致しているか、またはそこから採られたものでない限り、いかなる話も許可されない」

 

 米津氏は、「“細菌戦”“越南民”“戦争捕虜”“心理戦”等、朝鮮戦争において敏感な単語が羅列されており、ここで米軍側がこの戦争の諜報・心理戦的な性格を隠そうと努力していた痕跡を観察することができる」と指摘している。また、この従軍記者団に参加した記者たちが「朝鮮前線第一報」として「痛々しい戦火の跡 廃屋の中から煙立つ」(『毎日』)など、戦乱で廃虚と化したソウルの街並みを見て驚いた様子を記したが、そこでは米軍による空襲の結果だという事実には口をぬぐっていたことも明らかにしている。

 

今も続く商業紙の自主検閲  統一論調張る根拠

 

 こうした朝鮮戦争下の、アメリカによる日本のマスメディアに対する徹底した言論統制とアメリカの戦略や米軍の行動を称揚する記者の買収と育成は、60年代に入ってアメリカの大学や研究機関への特権的な待遇を与えた留学を通して強められていった。『朝日』『毎日』『読売』『産経』などの論説は色合いの違いはあれ、そこから輩出した者が中心になってきたことで共通している。それが、「有事」体制はもとより、オバマ来日や天皇問題など、決定的な政治局面では、一致して為政者の側に立った統一的な論調をはる基盤となっている。

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