いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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投稿特集 ー梅光問題を考えるー

 下関市にある梅光学院(幼稚園、中高校、大学)をめぐって、本紙では教育的視点からどのように正常化していくべきなのか、関係者だけでなく多くの市民の紙面を通じた論議を呼びかけてきた。今号で、梅光の教育にかかわってきた関係者から寄せられた投稿意見を紹介する。

 

◇……………◇

 

子どもたちの教育を守るために
         元梅光中高校校長  力丸晃

 

 私は梅光中高に30年教員として勤め、短大・大学勤務をへて、中高の校長を勤めた。梅光学院はキリスト教にもとづく教育をする学校であり、嘘がない誠実な校風であった。その梅光が多くの問題を抱えている現状に憤りと失望を覚えている。

 

 少子化が問題になることは、1970年代後半からわかっていたことだった。私が30代後半の頃、子どもの数の推移を市役所で調べ、「今のうちに手をうたなければ梅光にも影響する」と進言した。直後に留学したのだが、帰国したのちに広津学院長(当時)とも何度かその件で相談をする機会があった。学院長がいろいろと模索されたことを私は覚えている。のちに、時間が経過してしまっていたのだが、私はやむにやまれぬ気持ちで英語科をたち上げることを学院長に申し入れた。

 

 1992年度にスタートした英語科は当初、学院長の強い希望で、卒業までに英検2級を英語科生全員にとらせることを目標にスタートした。英語科教員の全面的な協力と生徒たちの努力によって、42人中37人が2級をとることができたのである。英語科は英語科教員の努力もあり、それまでの「英語の梅光」との名声を裏付けることができたのである。それ以前から中高全体では、独自の単語検定をし、生徒たちは相当数の語彙を身につけたはずだ。英作文も全文を書かせていたので、梅光での英語の成績が悪かった生徒も、他校へ行くと上位。転校した生徒や親から感謝されたこともある。県の共通テストはずっとトップレベルだった。国語科も独自の漢字検定を国語科教員中心に学校全体でとりくんでいた。

 

 その後、私は大学を自主退職したが、2010年1月の終わり頃、大学の学長であった中野新治氏から呼び出され、「中高の校長をやってほしい」と依頼された。妻の体調が悪く、1週間後に手術を控えていた時期だ。3日間考える時間をもらって、妻の了解のもと、引き受けることにした。その後、妻の闘病の助けになりえなかったことに対して申し訳なさが今でも深く残る。

 

 2010年度から中高の校長になったが、赴任してみると(正確には覚えていないが)中1は29人、中3まで合わせて100人前後であることを知った。私は愕然とした。生徒数の減少で、学校全体が意気消沈していた。どんよりとした職員室の雰囲気が明るくなり始めたのは、オープンスクールに来る親子が増えてきたころだった。教員全体で手分けして学校のビジョンを伝えることに力を注いだのである。また、経費節減のためか、教員は他校との会議や研修会には出向いていないことも知り、驚いた。教員は外とのつながりによって学ぶことも多いはずだ。そこで許される限り研修会や発表を引き受けたりもした。

 

 2012年度から共学にし、その年の入学者は64人(うち男子16人)、翌2013年度も男女ともに同数だった。結果的に男子がいなくても生徒数は増えていたのである。受験者数は当然のことだがこの数を大きく上回っていた。

 

 私が校長の間、ボーナスカットや人事考課を出せという話が何度もあった。人事考課などは恣意的に用いると教員を委縮させる効果しかない。教育は目に見える業ではない。目に見えないところにこそ生徒への細やかな心配りが重要となるのだ。私が校長であるうちは絶対にさせないと決めていた。ボーナスカットもこれから新たなとりくみをしてもらうという時にすべき事柄ではないと受け付けなかった。教員を守ることは生徒たちを守ることだ。そのために上のいうことから教員や生徒を守る盾となるのが校長の役目だ。上の指示を一部はねつけながら、教員と一緒に精力的に努力した結果、中高の赤字幅は減少していった。

 

 2013年度から私の後任をひき受けてくれる人も決まっていた。ところが1月頃、只木氏や当時の院長と後任の校長(予定者)とのやりとりの中で考え方の違いが表面化して、後任の話はとりやめとなった。2012年度の1、2月頃、私が辞める直前のことだった。

 

 この重大局面では、私自身も含めて後任をひき受ける覚悟をしていた方もおられた。だが3月1日、高校の卒業式が終わった直後に、中野学院長(当時)から私と当時の副校長・教頭の3人が校長室に集められ、2013年度は中野校長、只木・下川・村田三氏でいくことがいい渡された。私たち3人は唖然とした。まったく寝耳に水の話だったからだ。私たちの目につかないところでこの人事は密かに進められていたのだ。私たちの意見はその場で封じられて聞く耳をまったく持ってもらえなかったのである。私たちのやり方が成功していなかったのならまだしも、生徒数は着実に増えていた時のことだ。

 

 まだ次年度に進まないうちに只木氏が中高キャンパスを業者とともに闊歩する姿を苦苦しく目にすることとなった。

 

 共学にするときに発表した体育館の建て直しも、それまでにとりやめが決まって、私が中野学院長とともに記者会見でおこなった約束を破る結果となったことに申し訳なさが残る。

 

 さて、中野校長(当時)のもと、私たちがとりくんできたことを否定して1年間中高の運営を進めた結果、2014年度の入学者は男子はわずか3人、女子も減少した。その間も私は校長室に出向き、そうならないために助言をしたがまったく聞き入れられていなかった。そして警告通りの結果を招いてしまったのである。ところがその結果を受けて中野校長(当時―学院長兼務)は自分の責任を棚に上げてこれを教員のせいにし、2015年秋の14人事件になっていった。私が中野氏に抗議すると、驚くことに、彼は「教師たちの力量が足りない」といったのである。退職に追いやられた教員を含めて、当時の教員たちは私が校長のときに助けてくれた人たちだ。「力量がないのは中野先生ではなかったか」と私は本人に強く抗議した。

 

 梅光は教育にとって何より大事な宝物をみずから捨てた。タブレットや電子黒板を導入し、経費もふくれ上がっているが、こんなもので教育はできない。教育はそれらを利用する教師の心の力に負うところが大きいからだ。

 

 意見をいえばクビになるかもしれないと心配するような環境では、子どもたちにいい教育ができるはずもない。教育論議をすれば、お互いに意見がぶつかるのは当然だ。私自身、教員時代にも上に意見することが多かった。校長になってからも教員と何度もぶつかった。だがそれで役職から外すなどをしたことはなかった。むしろ、そういう教員こそが梅光を思っての発言と分かっていたからだ。イエスマンばかりになったら教育現場としてはそれこそ命とりだ。

 

 清廉潔白だった梅光でモラルが問われる噂が立つことも合わせて、生徒や学生たちを大切にしない経営陣に憤りを覚えている。生徒たちのため、学生たちのために、一刻も早い正常化を願う。

 

◇……………◇

 

梅光学院執行部の専横 -大学は誰のためにあるのか-
          元梅光学院大学特任教授  菅孝行

 

 下関の伝統ある学校法人梅光学院は、いま、不当契約破棄や膨大な時間外労働不払いなどで批判が高まっている大学だけでなく、複数の無資格教員が授業していることが発覚するなど、中学高校までがスキャンダルまみれになった。私は、2014年度から3年間、大学で、1年契約の特任教授を務め、執行部に〈まつろわぬ〉教員として今年3月雇止めとなった。そういう元教員の視野から―今では隔靴掻痒の感を否めないが―梅光学院執行部の専横について、私見を述べたい。

 

 現執行部は「改革」を掲げて出発した。小さな地方大学のどこにもありがちな長期の募集不振に陥り、270余人の定員のところ、入学者が170人台にまで低迷した時期があったため、抜本的な体制刷新が必要とされたことは事実だった。「改革」の初年度、この定員割れはほぼ解消に近づいた。募集の飛躍的改善は、①AO入試の枠の拡大や入試時期の前倒し、試験機会の増加による人員確保、②新任の営業担当が足を棒にして高校回りを精力的に行ったこと、③学費の値下げに尽きる。功績は指針を提示した、「改革」に着手しようとした当時の大学経営コンサルティング企業と地を這うように足で稼いだ営業担当のものだ。授業内容の「改革」の立案・実施する役割を求められて、私が着任したのはこの年度だった。

 

 そもそもこの募集不振の一挙的解消という「快挙」が仇になったように私には見える。執行部は自分の功績と錯覚し、異論を一切聞き入れなくなったからだ。異論を唱える教職員を悉く敵視し、退職へ追いやることを執行部は画策した。はじめ、排除したい人物に守旧派、改革反対派のレッテルを貼った。しかし、執行部には改革の理念は何もなかったから、結局、異議を唱える者一切を叩きだす暴君の恣意だけがむき出しになった。かくいう私も「改革」派の一翼として着任し、特任にもかかわらず「抵抗勢力」と対抗させる目的で教授会に出席するよう指示されたが、執行部に異論を差し挟んだ途端に、次の年度から出席を拒否された。執行部の退職強要と、幻滅した教員の退職が重なって、教職課程設置に不可欠の資格を持った教員が不足し、文科省から教職課程が認可されず、一年間凍結されるという事態に陥った。また、大学院教育に不可欠の重鎮を追いやったため、指導教員が大学院生の課程在籍の途中でいなくなるなど、大学院の存続も危ぶまれる状況である。

 

 執行部が教員排除に熱中し始めた頃、コンサルティング企業ブレインアカデミーが執行部の意向を受けて提案した教員評価システムの試案が公表された。ゼミと講義の区別もつかない、大学のカリキュラムなどまったく理解していない人間が作成したお粗末この上ない代物だったが、ただひとつはっきりしていたのは、最終的な評価は執行部の判断ですべて決定できる―切りたい教員は最低評価に出来る―ように設計されているということだった。

 

 教授会の決議に決定権のある旧来の民主的な学則では、この教員評価システムは承認されようがない。そこで、執行部は、文科省の指導による大学学長権限集中策にのって、お手盛りで学則を変え、一切の決定権を学長に集中した。あまつさえ昨年度、理事の首がすげ替えられたため、執行部への異論は、現理事会が解体されない限り、絶対に通らなくなってしまった。

 

 執行部とは、理事長、学院長・学長(現在兼任)、統括本部長である。理事長は元文科省官僚、退職後は立命館、関東学院などを渡り歩いて梅光学院に来た。因みに副学長は、使い捨てにされる駒に過ぎない。むしろ執行部直系の幹部職員が規定力を持っている。

 

 職員に対する恭順要求は、教員以上に強圧的である。パワハラで突発性難聴になった職員もいた。心ある職員はいたたまれなくなり、嫌気を催して次々と自主退職し、業務の継承性が維持できない局面が随所に生まれた。給与明細の書類に、経理の引継ぎが行われないまま前任者が退職したため、間違っているかもしれないから、ミスがあったら連絡してほしい、という断り書きが同封されたこともあった。文科省に提出する第三者評価の書類作成も間に合わなくなり、「改革」当初のコンサルティング企業からの人材派遣で泥縄式に乗り切る始末だった。

 

 予算の使途にも多くの疑惑がある。ほとんど無用と思われる海外視察、研修旅行、会議などに幹部が何人も、くりかえしぞろぞろ出向くことが続いた。執行部肝いりの就活対策の合宿などに多額の予算が振り向けられ、本来の知的関心を充足するための研修旅行や特別授業などへの予算が大幅に制約された。募集担当が執行部直系の人物に差し替えられると、学生募集のためのテレビCMに巨額の宣伝費を投入するようになった。口コミが届く地域社会からの応募に頼る大学では、ほとんどムダ金である。

 

 財務運用にも重大な疑義がある。これまで梅光学院は、内部留保を取り崩しながらも、銀行からの借入をしない健全財政を維持してきた。ところが、財務担当者の首がすげ替えられると、理事長の方針で株式運用に手を出した。株価が2万円を大きくこえた時点から開始された資産運用(つまりは法人の資金による博打)では、多額の含み損が発生している。多くの大学で起きた失敗の後を追う愚策であることに執行部は気づいていない。あるいは、何かの理由で故意にやっている。だとしたら背任である。

 

 最大の裏切りは学生に対して提供すべきコンテンツの貧困である。執行部は、ながらく維持してきた梅光学院のリベラルアーツの伝統を破壊することに熱中してきた。それに代わって、就職に強い実学の大学、という実態を保証できるのならまだしも、執行部がやっているのは、実体と乖離した〈就職に強い大学〉のイメージをふりまくことだけである。執行部は、就活対策のガイダンスで、僥倖があっても1人か2人しか採用にならない正規雇用のキャビンアテンダントに「努力」次第で誰もがなれるかような虚偽情報をふりまいた。また、偏差値38の大学で就職率100%を実現したという触れ込みの就活対策の職員を講師に招いて、化粧だの服装だの髪型だの、最も付随的要素でしかない面接対策が決め手であるかのような幻想を刷り込んだ。ゼミに出ている学生を、教室から引っ張り出してこの講師の授業を聴講させた。愚行の限りである。

 

 地方の都市の、いまどき流行らない文系の大学―幼児教育教員や保育士の需要に促された子ども学部の定員増は、更なる少子化で早晩しぼむ―であるからこそ、オーソドックスに学生の知的関心を喚起し、キャンパスライフに活力を与えることが、卒業後、非正規でも派遣でもたくましく生きのびる知恵を獲得させる王道であるのだが、執行部が提供するのは20年遅れの「国際」(英語)・「情報」(コンピューター)幻想にすがった実学志向に過ぎない。高校での詐欺まがいの無資格教員による授業の露顕とも相俟って、このままでは、生徒・学生・保護者の幻滅は早晩やってくる。緊急に抜本的な再生策が講じられなければ、梅光学院の廃学は遠くない。

 

 執行部の労務管理の荒廃も目に余る。残業代不払い(職員が残業代を請求できないよう無言の威圧をかける)は後を絶たず労基署の指導も馬耳東風である。2015年3月、前年度から1年契約で雇い入れた特任准教授の、4月からの労働契約を、理由を開示しないで一方的に打ち切るという、大学と名のつく限りよほど破廉恥でないと仕出かさない暴挙に出た。卒業生を中心とする反対署名運動が昂揚し、裁判所は職場復帰命令の仮処分を出した。しかし、今に至るも執行部は現場復帰をさせていない。3年契約だった労組の委員長の教員を1年契約にし、来年度の再契約はしないと通告してきている。ただ働きはさせ放題、首は切り放題、不当労働行為もし放題である。

 

 問題はこうした無法地帯化が罷り通っているのに、有効な対抗措置を講じられないことである。だがこれは決して宿命ではない。執行部の専横が生んだ人災である。当事者は生徒・学生・保護者・卒業生だけではない。地域社会に責任を負う地方議員、地方議会、自治体行政府もまた、この醜状に対して責任を負う当事者であろう。マスメディアも梅光学院執行部の専横と荒廃を座視してはならない。こうした外部からの力が働けば学内の不法な「占領状態」を終結に導くことは可能なはずである。学校は誰のためにあるのか、「改革」は誰のためのものか、が没却されてはならない。(文筆業)

 

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広津学院長が築いた校風を受け継いで
               元同窓会長 平良美代

 

 私は梅光中高校を卒業し、広津信二郎元学院長のお声かけで、48歳のときから18年間、大学・短大の学生指導、おもに寮生・下宿生の生活指導の仕事をさせていただきました。朝、単位が不足しそうな学生を起こしに行ったり、悩みを聞いたり、ときには叱ることもありました。今の樋口紀子学院長のことも覚えています。18年間にはたくさんの思い出があります。短大・大学それぞれに寮監もいて、厳しく指導もしていました。経営面のみから見ると、わざわざ人を雇ってまで学生の生活指導をする必要はないと思いますが、梅光はそうした学生に対する細やかな配慮のできる学校でした。

 

 「改革しなければならない」といいますが、長い歴史のなかで培ってきた梅光の伝統や校風の何が悪く、何をどう改革するのか、それがはっきりしないまま、梅光はまるで違う学校になってしまいました。卒業生の1人として、広津信二郎元学院長の生き様を近くで見てきた1人として、深く憂えています。

 

 私は小学校5年生のときに終戦を迎えました。梅光中高校に入学したのは昭和22年のことです。梅光学院は昭和20年6月29日と7月2日、2度の空襲で校舎の大半が焼けました。入学当時は、戦時中に「紀元2600年」を記念して建てた記念館だけが残っていました。

 

 梅光の戦後は、校舎の再建から始まりました。当時は物資がない時代です。建設用の資材を置いていると盗まれるので、広津信二郎学院長が毎晩、寝ずの番をしていたという話も聞きました。私たちはそんな苦労を知るよしもありませんでしたが、校舎が完成するまで日和山と東駅の練兵場跡(現在の大学)のバラックを行き来しながら勉強していました。冬の寒い日、暖房もないので、みんなで教室で馬跳びをすると壁が壊れるようなバラックだったことを覚えています。

 

 昭和23年になると戦時中に帰国した宣教師の先生方も帰って来られました。マッケンジー先生も戦時中、梅光が気になって仕方がなかったそうですが、戦後すぐは住むところがないため東京女子大の先生になり、再び梅光に戻って学院長を務められました。その後を継いで学院長になったのが藤吉先生の娘婿である広津信二郎先生です。

 

 広津学院長は、早稲田大学国文科の出身です。本当は梅光に来て文学の研究がしたかったのだと話しておられましたが、ご自身は経営に追われて勉強どころではありませんでした。予期せぬ人生であったと思いますが、学内の仕事の一切を学院長がひき受け、佐藤泰正先生が研究にうち込んで梅光の顔として活躍できるよう支えられました。

 

 広津学院長は「私学はいずれ厳しくなる」と考え、昭和39年に短大を、昭和42年に大学をつくりました。「教育には人材が大切だ」という考えで、積極的に国内外に留学させるなど教員の質向上に力を入れました。留学した先生方がいいものを身につけて帰り、教育に活かしていく。そうして梅光の教育は充実していきました。のちに大学院もつくりましたが、当時、西日本に大学院を持つ単科大学はありませんでした。一番の問題は教員組織、どのレベルの先生が教えるかということです。地方の一私学が有力な先生方を集めるのは大変なことですが、それも広津学院長・佐藤学長の横のつながりで、源氏物語専門の先生など各分野のそうそうたるメンバーが集まりました。佐藤先生は学究肌。常に勉強をされる先生でした。その姿を見て若い先生方も勉強をする。「文学の梅光」という誇るべき校風は、こうして育っていきました。

 

 私は同窓会長を25年間務めましたが、同窓会もみな手弁当でお金を極力残し、利息だけで運営することを目指しました。梅光同窓会が多額の資金を持っていることに驚かれる方も多いかと思いますが、それも梅光の将来を考えた広津学院長の構想でした。

 

 広津学院長ご自身は古い家に住み、本当に質素な生活で、私腹を肥やすことはまったくされませんでした。「一人一人の生徒を大切にして世に送り出す」という梅光の教育理念をまっとうできるよう、ご自分は慎ましやかに生活し、先生たちを大切にして勉強させ、みんなが生活できるよう心を配っておられました。そのご苦労は大変なものであったと思います。教育者として熱い理想を持ち、全身全霊をかけて戦後50年ものあいだ梅光を導びかれた姿は、私たち同窓生や教職員の記憶のなかに今も鮮明に刻まれています。

 

 「梅光ファミリー」という言葉があります。学院長がみんなを大切にし、みんなで協力しあって学校をつくっていく、本当に家族のような温かい校風でした。梅光は宗教学校であり、キリスト教の教えを前面に出して教育をしています。「光の子として歩みなさい」というモットーのなかには「互いに愛して生きよ」ということが秘められています。キリスト教の精神は「神を愛し、人を愛する」それ以外にありません。人のクビを切るとか、自分たちの好きなようにするといったことは、その教えと根本的に離れています。自分ばかり愛しているのではないか? 常に学院のため学生たちのためを考え、清貧ともいうべき生き方をされた広津院長の姿を近くで見てきた私には、そう思えてなりません。

 

 私学は公立と違い、「経営」という問題があるのは厳然たる事実です。広津学院長も早くから「中高だけでは将来生き残れない」と考え、短大・大学をつくりました。同窓会のあり方もしかりです。遠い将来を考える先達がいたから今の梅光があります。しかし2000年、戦後の梅光を導いてきた広津信二郎先生、マッケンジー先生が立て続けに亡くなりました。急速に少子化が進み、「どうするか」というときに舵取りをする人がいなかった。そこにブレインアカデミーが入ってきて、「梅光」の名前は残りましたが、中身はまるで違うものになってしまいました。

 

 梅光は、中高が悪いときには短大・大学で支えるなど、お互いに支え合って経営してきました。今の経営陣は中高の赤字が許せないようですが、常にどちらも順風満帆ではないのは当然のことです。

 

 今のところ学校が潰れずに残っているということは、ある面から見ると成功なのでしょう。しかし伝統、校風がなくなり、名前だけ残って意味があるのだろうかと思うのです。梅光が、広津学院長をはじめとする先生方の献身的なご尽力の下で、なにを大切にしてきたのか、学院の舵取りをするみなさん、先生方、同窓生に知っていただきたいと切に願っております。

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