劇団はぐるま座 富田浩史
広島の被爆市民がそうであるように、沖縄の人人はその体験が悲惨であればあるほど、容易には語ろうとしないといわれていた。集団自決のあった読谷村や一家全滅の多い南部の激戦地では、とくにそうだとされてきた。だがそれは表面がそのように見えるだけのことであった。
県民の4分の1が殺された沖縄戦の全体像は、確かに個個の力ではつかみきれぬほど、あまりに大きすぎる犠牲をともなうものであった。
何よりも、なぜこのような惨劇に年寄りや女、子どもたちまでが無慈悲に叩きこまれなければならなかったのか。あの戦争は、いったい誰が何のためにひき起こし、誰が犠牲となったものであったのか。その真実を覆い隠そうとする凶悪な力が、戦後一貫して物心両面にわたって働きつづけ、人人の口に鉄を噛ませてきたことも否定できない。
沖縄戦といえば、日本軍が住民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したり、あるいは凄惨な集団自決にすら追いこんで、「本土決戦」を準備するための「捨て石」にしたという一つの面が強調され、対する米軍の対日戦争の目的は、あたかも戦争を早く終わらせる人道的なものであり、アメリカは平和と自由と民主主義を代表する「解放者」であるかのような、あつかましい欺瞞がまかり通ってきた。
そうして、1銭5厘の赤紙で地獄のような戦場に有無をいわさず引きずり出され、無残に殺されていった多くの下層兵士やその遺家族にたいしても「戦争協力者」としての重圧を背負わせて、本土と沖縄を果てしもなく分断して支配する、周到に計算しつくされた占領者たちの手順が背後にあった。
広島と沖縄の真実の出会い
だが広島・長崎の惨状を描いた「原爆と峠三吉の詩」の原爆展を、県内12市町村で開催し、そのなかで聞いた約1000人の沖縄県民の壮絶な体験と思いを集中し、第2次大戦の全局の関係を研究した長周新聞の特集記事『沖縄戦はせずとも戦争は終わっていた』を、1軒1軒に配布して歩いた二カ月間の沖縄キャラバン行動は、どこでもはちきれんばかりの笑顔で迎えられ、新鮮な強い反響を呼び起こした。それは戦後60年にして実現した、広島と沖縄の真実の出会いでもあった。
人人は「あっ」と声をあげて息を呑んだが、まさに原爆投下の真相がそうであるように、戦争を終結させるためというのであれば、沖縄戦はまったく必要のないものだった。そして人人は、思い出すのもつらく苦しい戦中戦後の体験を、溢れるように語りはじめた。
北海道から沖縄まで、日中戦争の体験者が口をそろえて証言するように、すでに中国人民の頑強な抗日戦争で、大陸の日本軍主力は完膚なきまでにうち負かされており、敗走につぐ敗走を重ねていた。日本の敗戦を既定事実とした連合国のヤルタ会談でドイツ降伏の3カ月後にソ連軍が対日参戦すると決まった時点で、もはや日本の敗北は動かしがたいものとなっていた。
まさにそのときアメリカは、ペリー来航以来の醜い野望の意志によって、みずからの手で日本を単独占領し、中国・アジアへの侵略基地とするために、ただそのためにだけ、沖縄に五五万の兵員を送りこみ、日本軍と沖縄県民への皆殺し作戦を強行したのだった。
さらに日本全土の200以上の都市を無差別絨毯爆撃によって焼き払い、広島と長崎では、ドイツやイタリアの白人にたいしては決して使用されなかった原子爆弾すら投下するという、人類史上稀にみる恥ずべき暴挙がおこなわれたのだった。
しかもそれが、恐るべき絶対的な強制力ですべての国民を戦争の道へかりたてた張本人たちが、やすやすと国を売り渡して、みずからの保身のために、かえって好都合なことであったとは!
かけがえのない肉親の、おびただしい血と涙が染みついたオジイ、オバアたちのなまなましい体験と、朝鮮、ベトナム、アフガン、イラクと、住民虐殺の強盗戦争をいまもつづけるアメリカ占領者の凶悪な姿から、すでに沖縄の人人は、この歴史の真実をはっきりと見ぬきはじめている。どうあっても語らずにはおれないと、きびしい瞳をあげている。
3カ月にもわたる壮絶な地上戦として戦われた沖縄戦と、その結果として君臨している極東最大の沖縄基地の意味するものが何であるか。なぜ25万もの住民と兵隊が、かくも惨たらしく殺されなければならなかったのか。
平和で豊かな明日のために、いかなる屈辱にも負けずに生きた人人の、胸に秘められた底深い怒りの炎が、幾重にも折り重なった欺瞞のベールを引き剥がし、もはや誰にも押しとどめようもない力をもって、天高く噴き出しはじめているのだった。
あの戦争から60年、本土復帰から30余年。幾度となく沖縄の地を訪ねたが、人人の表情から村の空気、白い漆喰と赤瓦の家並にいたるまで、何もかもが違って見えた。それは、これまで「知った」つもりになっていた沖縄とは、まったく別なものだった。
沖縄県民に渦巻くアメリカへの憤激
1945(昭和20)年4月1日、読谷村(旧読谷山)の比謝川河口を中心とする渡具知、楚辺、都屋から宇座にいたる南北10㌔余の海岸線は、「海が見えなくなった」といわれるほどのアメリカの大艦隊によって埋めつくされた。
夜の明けきらない午前5時30分、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艦177隻の艦砲がいっせいに火を噴きはじめ、わずか3時間のあいだに10万発を超える、艦砲砲弾とロケット弾、臼砲弾がうちこまれた。さらに空からの爆撃と機銃掃射をくわえた無差別絨毯攻撃がおこなわれるなか、18万3000人の兵員が上陸を開始したのである。
読谷村内に散在する大小の壕や自然壕(ガマ)、慰霊碑等の戦跡は80余個所にもおよんでいるが、とくに米軍上陸直後の4月2日、アメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れた83名の住民が集団自決で非業の死を遂げたチビチリガマの惨劇は、国内外に知られている。だがそれは、少し離れたところにあるシムクガマで、ハワイ帰りの住民が「アメリカ人は人を殺さない」と説得して投降に導き、1000人前後の住民の命が助かったというエピソードと対比的にとりあげられ、「住民を集団自決に追いこんだ責任は日本軍のデマ宣伝や皇民化教育にある」「沖縄戦は日本軍国主義の侵略戦争が行き着いた先であり、日本軍にすべての責任がある」といってアメリカを美化する論調の象徴的な存在として利用されてきた。
それどころか「亡くなった人人は戦争の犠牲者でもあるが、被害ばかりをいうべきではない。それは県民が“天皇の赤子”としてアジア侵略に加担したことへの“報い”でもある」とすらいわれてきたのだった。
それは広島の人人の口に鉄を噛ませた抑圧構造と、まったく同じものだった。「日本軍閥の無謀な戦争に終止符をうち、本土焦土作戦から幾千万日本国民の生命を救うためにやむをえぬ手段として原爆は投下された」という宣伝が、広島を空の上から抑えつけてまかりとおり、「ノーモア・ヒロシマ」というのが「日本人は犯罪をくりかえしてはならない」という響きでおしつけられてきたのである。
だが、非戦斗の老幼男女の区別もなく、なぜこれほどまでむごたらしいやり方で、親兄弟や妻や子を虐殺しなければならないかという、広島市民の憤激をごまかしきるわけにはいかなかった。それと同じように、沖縄の人人のおびただしい血と涙によって胸底深くに刻みこまれた事実をかき消すことは、いかなる力をもってしても絶対できないことだった。
わたしたちは読谷村役場と楚辺公民館で合計5日間の原爆展をやり、チビチリガマのある波平区をふくむ会場周辺の全戸を訪ね、原爆展の案内チラシとともに長周新聞の特集記事『沖縄戦はせずとも戦争は終わっていた』を、1軒1軒に配布して歩いた。どこでも大歓迎をうけ、地域あげての協力がよせられた。天皇や日本軍国主義への激しい怒りは当然のことだった。しかし「集団自決の犠牲者は加害者でもあった」と語る住民など、ただの1人もいなかった。
それどころか「沖縄とか読谷村とかいうと、チビチリガマの集団自決のことが言われ、日本軍が悪かったと強調されているが、あのアメリカが“正義”であるわけがない。広大な土地を米軍基地に奪いとり、いまでも自分たちのもうけのために、イラクでやりたい放題のことをやっているアメリカなど大嫌いだ!」と、ほとばしるような憤激が語られたのだった。
殺された兵隊には深い哀惜
上陸部隊の掩護と補給にあたる海・空軍部隊を合わせれば、ベトナム戦争の最高時に匹敵する55万もの大軍で押し寄せた米軍に対し、日本の沖縄守備隊は、陸軍の正規部隊が6万7000人、海軍は9000人にすぎなかった。
日本陸軍の主力は中国大陸に釘づけとなり、あるいは東南アジアや太平洋の島島にちりぢりとなって散在し、すでに海軍は大部分の戦力を失って制海権も制空権もない丸裸のありさまであり、50万以上の米軍を相手にまともな戦斗ができる力などないことは、はじめから明らかなことだった。
そうであるにもかかわらず、天皇は沖縄守備軍にたいして「国体護持」のために最期まで戦いぬけと絶望的な命令を下したのだった。文字通り、沖縄県民を見捨てたのである。
そして17歳から45歳までの男子2万5000人が「郷土防衛隊」として、また14歳から16歳までの男子生徒1700人が「鉄血勤皇隊」として召集されていった。その他に「ひめゆり部隊」のように従軍看護婦として動員された女学生、あるいは「女子挺身隊」や「護郷隊」などにかりだされ、戦斗に巻きこまれて犠牲となった若者たちは数知れない。
こうして沖縄が「捨て石」にされたことは、戦後沖縄を本土から分離して長期にわたる軍政下においたアメリカが、本土と沖縄の対立を意図的に煽りたてて支配する上で最大限に利用されてきた。
だが、天皇をはじめとする戦争指導者への激しい怒りの声とともに、人人が何よりも強調したことは、沖縄の住民はもちろんだが、1銭5厘の赤紙で本土から送りこまれた兵隊も、人民はみな犠牲者であるという、痛切な哀惜の念だった。
那覇市の婦人は「わたしの家にも本土からきた兵隊がすしづめ状態で寝泊りしていたが、食べ物がないので母がイモをあげるとつぎつぎと兵隊がもらいにきていた。下痢ばかりしている兵隊にお粥をつくって食べさせると、涙を流して喜んだが、後から上官に殴られていた」と、語ったが、そうした話はどの町でもかならず聞いたことだった。
南部の激戦地・西原町では、妻や子を残して出征しなければならない父親が、その日までに間に合うようにと、たった1人で裏山に黙黙と壕を掘り、家族を案じつづけて応召した。父親はそのまま帰ってこなかったが、あのとき父がどんな思いで家を出ていき、またどんなふうにして死んでいったのか。1家の大黒柱とともに家も畑も失った、生きるための死に物狂いの苦斗のなかで、遺児たちはそれを片時も思わない日はなかったという。
そのように天皇の名による絶対的な強制力で、夫や息子、父や兄たちを戦場に奪いとられた沖縄の人人が、同じように家族と引き裂かれて本土から送りこまれた兵隊を見れば、わが子、わが夫の姿を思わずにおられないのは当然のことだった。それは兵隊の側から見ても同じであった。
読谷村では当時16、7歳の少年が、球(たま)部隊の軍属として動員され、美里村(現沖縄市美里)の貨物廠で働いていた。
いよいよ米軍の上陸が迫るなか、まもなく激戦地となる南部の島尻方面へ部隊が移動すると決まったとき、軍属の少年たち全員が「いっしょについて行きたい」と志願した。だがそのとき隊長は「だめだ」といった。「自分たち軍人は、骨は沖縄の石となり、肉は沖縄の土となる覚悟で来ているが、君たちはまだ若い。命を粗末にせず、かならず生きのびて日本の将来を見届けてくれ」と、その場で軍属の解散命令を出し、ありったけの食料を少年たちに持たせてやり、「家族のもとへ帰れ!」と命令した。そうして、逃れることのできない絶望的な戦場へと、死の行軍を開始していったのだ。
少年の1人だった男性は、血を吐くような思いで兵隊にとられていった父や兄たちの姿を、「生きろ」といってくれた兵隊たちに重ねていた。「だから……わたしらは生きている。他にも昭和3年、4年に生まれたものは、みんな同じ体験をしているんですよ」と、目をうるませて語りかけてきた。
喜名区では、上陸した米軍の重火器による包囲攻撃をうけて兵員の大半を失いながら、負傷兵や補給隊を脱出させたのち、突撃して全滅していった球九173部隊の兵隊たちの遺骨を、戦後の苦しい復興のなかで地元住民が収集し、1人1人の名前を刻んだ慰霊碑を建て、「梯梧(でいご)之塔」と命名した。だが、戦後5年にして開始された朝鮮侵略戦争の時期、中国・アジアへの侵攻をもくろむ米軍が沖縄基地の大増強をやるなかで、その地も米軍用地に接収され、1956(昭和31)年、現在の地に石碑を建立しなおした。以来自治会と遺族の人人が、今日までずっと慰霊をつづけているという。また、そのことに生き残った部隊関係者が「ただただ感無量であります」との感謝をこめ、「山吹の碑」を建てている。
かけがえのない故郷がアメリカの人殺しのための軍事基地に力ずくで奪いとられ、本土から切り離されたきびしい軍政下にあっても、「住民も兵隊も、戦場へ引きずり出された人民は痛ましい犠牲者であり、その死を悼むのは当然だ」という熱い思いは、消し去ることができないどころか人人の胸のなかに燃えつづけ、いまなお村内には満ち満ちているのだった。
特攻隊の犠牲悼む熱い思い
また、米軍の艦砲と機銃掃射を雨あられと浴びるなか、やっとの思いで本部(もとぶ)の山中に避難した婦人たちは、米軍の猛攻で島影まで変形した伊江島の上空に、どこからともなく四、五機の友軍の戦斗機が飛来したのを憶えている。彼女たちの部落の上を懐かしむように旋回した戦斗機は、やがて網の目のような砲火を浴びてつぎつぎと海上へ墜落していった。だが1機は、火だるまとなりながら敵艦に体当たりしていった。「ああ、助けにきてくれたんだ!」と手を叩いて喜んでいた村の人人は、一瞬にして言葉を失った。そして「いまのは、どこのお宅の息子さんだろうか……」と、いつまでも空にむかって手を合わせていたそうである。
この特攻隊の若者たちのあまりにむごすぎる犠牲を悼む、人人の胸の底に流れる熱い思いは、頭の涼しいインテリがアメリカ仕こみの「自由」や「人権」の理屈から考えてばかにするほど単純なものではない。
チビチリガマに避難していた住民だけでなく、これらの特攻隊の若者や日本国民全体を天皇制軍国主義が凶悪な力で縛りつけていたこと、また追いつめられた日本軍が住民への残虐行為をはたらいたのも事実であるように、天皇の軍隊が住民を守るものでなかったことは明白である。
しかし、だからといって県民の4分の1にあたる15万もの住民を無差別に虐殺した米軍の蛮行を「戦争だったから仕方がない」と認める人は1人もいない。それと同じように、11万人の日本軍のうち捕虜となって生き残ったのはわずか7000人というほど、ほとんど皆殺しに殺されていった、労働者であり農民である下層兵士たちの死を悼まぬ人はいなかった。日本人民を天皇・支配層と同列の「加害者」であるかのように見なすことは、遺族や県民感情からまったく遊離した屁理屈であり、とうてい通用するものではない。
だからこそ、オジイ、オバアは「話してやってもわからない」「体験したものでないとわからないさ」と、貝のように口を閉ざして語ろうとしないのだ。
戦争に反対か賛成かという口先だけの理屈ではない。その思想・態度そのものが、アメリカの侵略支配を賛美する凶悪な抑圧物として、ダカツのごとく嫌われている。それもまた、広島とまったく同じ構図なのだった。
周到に仕組まれた沖縄への侵略作戦
1500隻にもおよぶアメリカの大艦隊が、沖縄をめざして東方数百㌔の海上をすすんでいた1945(昭和20)年3月23日、米空母から飛び立った千数百の艦載機が、早朝から沖縄本島と周辺の島島に猛烈な爆撃と機銃掃射を開始した。太平洋戦争最大の兵員を動員した、沖縄上陸作戦のはじまりである。
「アイスバーグ作戦」と名づけられたこの作戦の任務は、沖縄を奪いとって、米軍の基地として整備し、沖縄諸島における制空、制海権を確保することにあった。それが、戦争を終結させるためのものでも、日本の人民を軍国主義から解放するためのものでもなかったことははっきりしている。
米軍司令官バックナーが「中国大陸への道筋とした、ロシアの拡張主義に対抗する拠点として、沖縄を保護領その他の名目で排他的に支配することが不可欠」と言明していたとおり、アメリカと日本の最大の争点は、広大な中国市場の争奪にあった。中国大陸への全面的な侵略をすすめた日本軍が、中国人民の抗日戦により、すでに決定的にうち負かされていたなかで、アメリカは日本にかわって侵略し、みずからの手に中国を奪いとることを最大の戦略にしていたのだった。
そしてこの米軍の「オレンジ・プラン」と呼ばれる対日戦争政策は、驚くべきことに、日米開戦の35年もまえに策定されたものであった。しかも立案者の1人であるデューイは「米国は平和主義をかかげてはいるが、他国の攻撃を受けた場合、とくにハワイが攻撃されれば国民は怒りをもって立ち上がり、正義と信ずるもののために戦争を耐え忍ぶ。そして工業力にものをいわせて猛反撃を開始し……日本の軍事・経済力を破壊し、無条件降伏に追いこむ」とまで明記していた。アメリカは明治39年、すなわち日露戦争の直後から、日本軍の真珠湾攻撃を想定し、それをもって米国民を対日戦争へと動員する詳細なプランを持っていたのだ。
そして日米開戦から1年まえ、米海軍情報部によって作成された対日戦略文書は、アメリカから日本に宣戦布告するのではなく、「日本に明白な戦争行為に訴えさせることができる手段」を具体的に提起していた。それは「ABCD包囲網」と呼ばれた対日経済制裁を徹底的に強めていき、日米交渉を決裂させ、日本を巧みに戦争へ追いこんでいくという、陰険狡猾なものであった。
真珠湾攻撃の10日まえ、ルーズベルト大統領の指示を受けた米陸軍長官・スチムソンは、陸軍高級副官にあて「日本との外交交渉が中断することは明らか」であり、日本に最初の一発を発射させ、「誰が見ても侵略者が誰なのか、少しも疑問を抱かないよう、はっきりさせることが望ましい」として、日本の奇襲攻撃をあけて通すように極秘で指示していたことが明らかになっている。
そのように、日米開戦の端緒となる日本軍の真珠湾攻撃そのものが、アメリカによって巧みに仕組まれ、挑発されたものだった。そして「オレンジ・プラン」が作成された1906年から1945年の最後の戦斗にいたるまで、台湾と日本列島の南端のあいだに1000㌔にわたってのびている「琉球諸島」の攻略は、米国戦略の一貫した主要なテーマとされたものだった。
「それにしても!」と問う体験者たち
アメリカがその思惑どおり、周到に準備しつづけてきた沖縄上陸作戦を開始した3月23日の深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と教師18人が、那覇市の南東数㌔にある南風原の陸軍病院に配属されていった。いわゆる「ひめゆり部隊」である。
翌24日には沖縄本島南部にアメリカの大艦隊が姿をあらわし、猛烈な艦砲射撃をおこないつつ、慶良間列島に侵攻した米軍は、4月1日、沖縄本島中部西海岸に上陸すると同時に本島を南北に分断した。日本軍守備隊と住民を北部方面へ逃げることができないようにして、南部の島尻方面へと追いつめていったのだ。
このとき、上陸地点からいずれも2㌔以内にあった日本軍の読谷、嘉手納の両飛行場は、上陸開始からわずか2、3時間で占領されたが、嘉手納飛行場はその日の夕方には使用可能なまでに修復され、早くも艦載機19機が飛来した。米軍は10万発をこえる砲弾を撃ちこんで非戦斗員の区別もない大量虐殺行為をおこなったが、沖縄を基地として略奪する目的から、それがいかに綿密に計算しつくされた攻撃であったかをあらわしている。
こうして米軍部隊が南下するにともなって、日本軍の死傷者は激増していった。つぎつぎと後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体の埋葬などに奔走していたひめゆり部隊の少女たちもまた、日本兵とともに海に面した断崖絶壁の南端部へと追いつめられていき、動員された教師・学徒240人のうち136人、在地部隊その他で90人が痛ましい犠牲となった。
その生き残りの1人である70代の婦人は「でも、それにしても!」と抑えきれないように問いかけてきた。
「イラクの戦争をテレビのニュースを見て以来、亡くなった同級生の夢を毎晩のように見るようになりました。あの友たちの死は何だったのか、沖縄戦とは何だったのかと考えて眠れない夜もあるのです。負けるとわかっていたのに、日本はなぜもっと早く降参しなかったのですか? どうしてアメリカはあそこまでひどい攻撃をやったのですか? なぜいま日本は、アメリカといっしょになって戦争をやろうとするのですか?」
当時16、7歳だった同級生は40人。7人は疎開していたが、動員された33人のうち18人が亡くなった。それも、どこでいつ亡くなったのかわかるのは7人だけ。あとの11人は遺骨の所在すらわからない。配属された第2外科壕が米軍による馬乗り攻撃を受けるなか、彼女たちはかろうじて脱出し、伊原の第1外科壕まで逃げていった。だがすでに日本軍に戦う力はまったくなく、空からは爆撃と艦砲をうけ、陸からも機関砲の銃撃を浴び、もはや逃げ場はどこにもなかった。そして真暗な思いで「解散命令」を聞き届け、それぞれが同郷の人と語らって、北部の国頭方面へ突破しようと飛び出していき、つぎつぎと倒れていったそうである。
今も夢に出る友の無残な姿
ひめゆり部隊の女学生たちに解散命令が出されたのとほぼ同時刻の6月18日午後、前線を視察していた米軍司令官バックナーが日本兵に狙撃されて戦死した。
もともと米艦隊司令官・バルゼーが「ジャップを殺して殺しまくれ。もしみんなが自分の任務を立派に遂行すれば、各人が黄色い野郎どもを殺すのに寄与することになるのだ」と、常軌を逸した激を飛ばしていたように、日本人への人種的偏見を戦意高揚に利用してきた米軍部隊は、ヨーロッパの戦線ではおこないえないほどの残虐行為を平然とはたらいていた。だがバックナーの戦死以降、「戦時国際法」のたてまえすら、公然とかなぐり捨てたといわれている。
雨のように降り注ぐ艦砲砲弾の破片によって、避難民の1家がつぎつぎと全滅していった南部の戦斗の体験者は、木の枝に直撃弾を受けた人の肉片がひっかかって銀バエがたかっていたり、上半身を吹き飛ばされた遺体が畑に2本足で立っていたというような光景を、誰もが目の当たりにさせられた。米兵に強姦された若い娘さんが真っ裸で死んでいる姿がいたるところで目撃され、着物や祖先の位牌を背負ったまま、赤ん坊にお乳を飲ませていた母親も、艦載機の機銃掃射が無慈悲に撃ち殺していったと語られている。
かろうじて壕のなかに逃れた住民も、火炎放射器、爆雷、手榴弾、毒ガスなどのあらんかぎりの攻撃をうけ、喜屋武半島方面へ逃げてゆく避難民の列にも見境のない攻撃が加えられていた。道には子牛ほどにも膨れ上がったおびただしい遺体が折り重なって散乱し、1歩すすめば腐乱した遺体に足がめりこむほどの地獄絵図であったといわれている。
南風原では、米兵が捕虜にした子どもをふくむ住民を1列に並ばせて、「司令官の報復だ!」と叫びつつ、一人残らず皆殺しにするのをガマのなかから目撃していた人もある。婦人であれば、老婆さえもが強姦され、肉親の目の前で殺されていったそうである。
「ひめゆり」の女学生たちも、迫撃砲や艦砲の砲弾がひっきりなしに炸裂するなかを、腐乱して膨れ上がった遺体の群れにつまずきながら逃げ惑い、壕のなかへかけこめば火炎放射器で皆殺しに焼き殺され、あるものは毒ガス弾を投げ込まれて、気がつけば、顔全体が腫れ上がって口の裂けた、人とも思えぬ形相の無残な遺体の山であった。米軍の艦載機はパイロットの笑い顔が見えるほどの低空飛行で少女たちを追いまわし、機銃掃射とともに友達が前のめりに倒れると、顔が吹き飛んでいたと幾人もの人人から証言されている。それはいかなる理由によっても正当化できない、大量虐殺行為そのものだった。
絶望と恐怖に耐えかねて「お母さん!」と叫びながら、つぎつぎと手榴弾を爆発させて死んでいった少女たちの無念の思いは、どれほど深いものであっただろうか。
ひめゆり部隊の生き残りの婦人は、「戦争終結に原爆投下は必要なかった」というパネル展示を食い入るように見つめていた。そして「沖縄戦はせずとも戦争は終わっていた」という新聞の見出しを凝視した。
いまも目を閉じれば、ありし日の学び舎のたたずまいや恩師、学友の面影がありありと浮かび上がる。運動会や学芸会、さまざまな楽しかった思い出が、生きていた学友の笑顔とともに頭をよぎる。憧れの女子師範に入学した、あの夢多い、もっとも多感な女学生たちが「欲しがりません、勝つまでは」と、どれほど健気に献身したことか。その友たちが、なぜあれほど悲惨な最期を遂げなければならなかったのか。その真実をどうしても知りたかった、どうしても知らずにはおられなかったというのだった。二度と戦争を許すまいと、いまだに遺骨すらわからない恩師や友たちに固く誓っているからだ。
「でも、それにしても……」と、婦人はつつましく眼を伏せたが、「これはいったい、何たることであるか!」と、今にも叫び出さんばかりに拳を固く握りしめていた。
革命恐れ若者殺す 醜悪な売国の構図
最近、アメリカの国立公文書館で発見された《米国陸軍省軍事情報部心理作戦課『日本プラン』》という公文書は、1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたものだった。そこには「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。それはすべての戦争責任を「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本の支配階級を目下の同盟者として再編し、単独で日本を占領支配するという計画であった。
戦後、駐日大使となったライシャワーは、この「日本プラン」にもとづいて「日米戦争勝利後の『ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権』」を提言し、「天皇は100万の軍隊に匹敵する」と主張して占領政策の指揮をとった。マッカーサーもまた、その方針を承知して踏襲していった。
アメリカは敗戦による混乱のなかで、日本国内やアジアの人民の力によって革命が起こり、天皇制のもとでの資本主義制度がくつがえされ、みずからの日本への侵略支配の野望が崩れさることを何より恐れていたのだった。そして1942年5月には、「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出したのだった。
かくして、334機のB29が来襲し、1夜にして10万人もの無辜(こ)の市民が焼き殺された東京大空襲の最中でも、また大小105回にもおよぶ空襲が折り重なって襲いくる首都東京のど真ん中にありながら、天皇と皇居だけは見事に攻撃対象から除外されたのである。
米軍が沖縄に上陸する直前の昭和20年2月14日、天皇側近の近衛文麿元首相は、日本の敗戦が必至である旨の意見を上奏したが、近衛はそのなかで「英米の世論は国体の変革にはすすみ居らず。もっとも憂うべきは敗戦にともなって起きることあるべき共産革命にござ候」と述べていた。天皇制支配層の中枢は、何よりも人民が立ち上がって革命を起こすことを恐れて震え上がる一方で、英米が天皇制を廃止する考えを持っていないことを、すでにつかんでいたのである。
だが近衛の意見具申に対して天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と応え、近衛は「そういう戦果が挙がれば誠に結構と思われますが、そういう時期が御座いましょうか」と述べたとも伝えられている。
それはいったい、どういうことだろうか。近衛の上奏にたいして、天皇はもう少し戦果をあげてからだといった。しかし近衛がいうように、もう少しの戦果など期待できるはずもないのは明らかなことだった。すでに中国人民の抗日戦によって完膚なきまでにうち負かされ、もはや敗北が避けられないなかで戦争をつづければ、ただ、やられっぱなしにやられるだけであることは、わかりきったことだった。にもかかわらず、なぜ天皇は戦争終結をひきのばそうとし、戦争指導者たちはそれを受け入れたか。「いくら考えてもわからない」「不思議でしょうがない」といわれている。負けることがわかっていてズルズルと戦争をつづけさせ、丸腰の兵隊を満載した輸送船をつぎつぎと送り出して米潜水艦の餌食にさせ、沖縄をはじめ、日本中の都市が空襲の犠牲にされて焦土と化すなかでも、あくまで「本土決戦」を叫びつつ、国民には竹槍だけで銃も渡さないまま、ついに「本土決戦」は掛け声だけのものに終わらせた。しかも戦争の犠牲者は、この最後の1年間に集中されているのである。
何よりも人民による革命の勃発を恐れていた天皇制支配層が、近衛文麿の上奏どおり、アメリカに日本を単独占領させ、その保護のもとで傀儡(かいらい)となって、生き延びていくためには、いかにもアメリカに「敗北」したかのように見せかけなければならなかった。
同時にまた、異民族の侵略支配に立ちむかおうとする国内のいっさいの反抗の芽を摘んでおくためには、力のある若い兵士がアメリカによって殺されるだけ殺され、広島と長崎が原爆によって焼き尽くされ、国民全体が都市空襲の炎の雨を浴び放題に浴び、絶望と飢餓のどん底に突き落とされていくことは、かえって好都合なことでさえあった。そうしてやすやすと国を売り渡し、侵略者の手下となって自らの地位をまもる方向をとっていった。そう見るほかに、どう考えたらよいのだろうか。そして事態はそのようにすすんでいったのだ。
「でも、それにしても……」と、ひめゆり部隊の婦人はこらえきれずに眼を伏せたが、この醜悪きわまりない侵略と売国の構図こそ、いまではアメリカの国益の下請として日本の若者をふたたび死地へかり立て、日本全土を原水爆戦争の戦場にして憚らないという、売国、亡国の極みにまで行き着かせている元凶なのである。
それは、なんという侮辱、なんという屈辱であることか!
天災でも運命でもなかった真実胸に
西原町の60代の婦人は、沖縄戦で両親をはじめ家族六人を殺されていた。父親は兵隊にとられて八重島で戦死。お兄さんは艦砲の破片によって腕を切り取られ、お姉さんは首を切られて犬ころのように死んでいった。当時7歳だったその婦人も、艦砲の破片がお腹から内股にかけて貫通し、動くこともできない重傷を負わされた。だが4歳と2歳の弟妹を連れていたお母さんは、重傷を負った娘を連れて逃げることはできなかった。さんざん迷った挙句、大きな亀甲墓のなかに泣きじゃくる娘を入れてやり、「かならず迎えにくるから」といい残して出ていった。
米軍の艦砲の破片によって下腹部を貫かれ、歩くこともできなくなってしまった7歳の少女を、その母親はどんな思いで亀甲墓に入れただろうか。そして「迎えにくる」という言葉を信じ、母親が残していったわずかばかりの鰹節と黒砂糖をかじりながら、墓の天井からしたたる雨水をなめていたが、いつまで待っても誰も迎えには来てくれなかった、その少女の孤独と恐怖、絶望は、どれほど深いものであっただろうか。
どれだけ多くの子どもたちが「戦争を早く終わらせて!」と天を仰いで祈っても、平和の敵によって冷徹に計算しつくされた、このどす黒い目的が果たされてしまうまでは、沖縄の戦火が止むことはけっしてなかった。
そしてこれらの悲劇が、まさしく天災でもなければ、運命でもなく、アメリカ占領者の醜い野望の意志によって、はじめから終わりまですべてが仕組まれたものであったとしたら、人としてもっとも惨い死に方で亡くなった25万の人人が浮かばれる道は、いったいどこにあるのだろうか。
沖縄の戦火が止んだかに見えたあとにも、また施政権が返還されたのちにおいても、極東最大の沖縄基地は居座りつづけ、以後60年にもわたって一貫して戦争はつづけられ、今度は日本全土が原水爆戦争の戦場にされようとするいまというとき、沖縄のオジイ、オバアは、あの沖縄戦に貫かれたどす黒い真相に節くれた拳を震わせながら、大粒の涙を拭った澄んだ瞳で、「でも、うちら絶対に負けなかったさ!」と、焼けつくような強い日差しを振り仰いで立っている。
いまもなお、沖縄の地下に無言で眠りつづける幾多の戦死者――家族のためにたった1人で壕を掘り、身を裂く思いで戦地へむかい、虫けら同然に吹き飛ばされ、焼き殺されていった父親たち。蜂の巣のように撃ちぬかれて火の玉になりながら、敵艦に突入した兄や弟。さらに鋭利な刃物のような艦砲の破片が雨あられと降りそそぐなか、首を切られ、足をちぎられ、子どもを残し、親と裂かれて、阿鼻叫喚のなかに非業の死をとげなければならなかった人人が、この真実に目覚めたとしたら、どうなるだろうか。
沖縄の人人の平和と独立へのあふれる思いは、そうした25万の犠牲者への激しく深い哀惜の念とともに、もはや抑えようにも抑えきれない人の子としての、また人の子の親としての感情から、もっとも強い人間の意志として、民族の気高い誇りとして、その真心から噴き出しはじめているのである。
それにふさわしい私利私欲のない国民的な平和擁護のたたかいが、広島・長崎、そして全国・全世界の平和を愛する人人との揺るぎない連帯と信頼の上に建設されていくことが、いまどれほど切望されていることか。
それを担う力はわたしにもあり、あなたにもある。そしてかならずつくりだそうではないか。それはきっとできると、怒りの島・沖縄は、誇り高く訴えかけている。