「原爆と峠三吉の詩」原爆展を全国で展開している全国キャラバン隊(後援・長周新聞社)の第1班が2日から沖縄県内での街頭原爆展を開始した。初日は那覇市にある沖縄県庁北口近くのデパート・パレット久茂地前で午前11時ごろから夕方6時ごろまで展示。原爆展パネルとともに米軍ヘリ墜落事件など沖縄問題に関連した長周新聞の「論壇」を掲載したパネルも掲示され強い共感を呼んだ。とくにイラク戦争と現在進行している米軍基地増強への怒りを重ね、沖縄戦で米兵から残酷に殺された経験を持つ体験者がパネルを指さしながら声を震わせて体験を語る姿、体に焼きつけられた艦砲射撃の傷跡を見せながらアメリカへの憤りを語る姿がめだち「沖縄のほんとうの思いを伝えたい」と切実な思いが語られた。
米軍の砲爆撃、掃討でみな殺し
炎天下での展示がはじまると、「沖縄戦もいっしょだよ」と、参観者が集まりじっくりと見ていった。 「わたしも戦争にあってけがをしているので、広島の人たちの苦しみがよくわかる。5歳のとき、米兵に足を撃たれ、くの字に曲がったまま伸びなくなった。子どものころ、体育の時間があると学校に行きたくなかった」と、60代の婦人は深い傷跡が残る左足の膝を見せた。
「わたしたちは糸満の方のひめゆりの塔のある辺りで逃げ場所をなくしたとき、いったんすれ違った米兵に突然銃を乱射され母はうしろから背中を撃たれ大けがをして死んだ。叔母も従姉妹も即死。祖母は“わたしは重傷で歩けないから捨てていってくれ”と頼んだが、わたしが泣いたのでみんなで背負っていき助かったと聞いた。わたしは左足の関節を撃たれた。曲がらないし、ひどい傷になり、娘のころはいつも長いスカートをはいてかくしていた。復帰まえはミニスカートが流行っていたが、はけなかった。いつも寝巻きみたいに長いスカートをはいていた」と話す。
ついで、「でも父の弟の奥さんは、壕のなかでなにかの破片が顔にあたり、鼻がとれて穴があいているだけの、無惨な顔にされてしまった。“あんたは足だけだから、かくせるからよい。叔母さんのことを思いなさい”とおばあちゃんからいわれて育った。いくら補償してもらっても、この苦しみはお金にはかえられない。原爆でも戦争でも、やられた人でないと苦しみはわからない。心があるなら、あんなことはしない」と語った。
そして疎開していた子どもたちが帰ってみると、家も焼かれ、家族はみんな殺されていたという例が多いことにふれ、「そんな子どもを地域で助けあって育ててきた。戦争をやって勝ったというが、アメリカはなにがうれしいのですか。アメリカの考え方には人間らしい心がない。いまもどんどんごう慢になっている。大学にヘリが落ちても、痛みがわからないどころか、また戦争をやろうとしている。人を殺して、自分らが威張りたいというのは恥ずかしいことだ。こういう展示をたくさんの人に見てもらい、人の痛みのわかる若い人を育てていかないといけない」と、強調した。
「沖縄戦のときは、20歳で東京に働きに行っていた」という79歳の婦人は東京大空襲にあって逃げ惑い、戦後沖縄に帰ると両親と兄は沖縄戦で死に、姉と叔母と従姉妹の3人は壕のなかで米兵に殺されたことを語った。「姉たち3人は壕に避難していたら、アメリカ兵に“出てこい”といわれ、出ていかなかったら爆弾を投げこまれていっぺんに殺された。パネルを見ると、東京大空襲や沖縄戦の聞いたことを思い出す。ぜったいに戦争は嫌だ。がんばってください」と署名してカンパを寄せ、何度もふり返りながら手を振っていた。
米兵に襲われ殺された娘達
ゆっくりパネルを見たあと「アメリカはこうなることがわかっていてやったんでしょうか。やっぱりアメリカは人間じゃない」と切り出した本部町出身の60代婦人は「沖縄戦のときは2歳であまりに泣くので壕から出され木の下に捨てられていた」とみずからの体験にふれた。「そのとき母が壕を出てわたしを守ってくれた。助けてくれたのは母親で米兵ではなかった」と強調した。
さらに当時16歳だった姉が敗戦直後、襲われないように顔を黒く塗り友人と2人で歩いていると、突然あらわれた米兵に友人だけが引っぱられていき、急いで逃げた姉の目の前で無惨に殺されたと語っていたことを明かした。「姉はその場所をとおると“ああここだ。この場所に来たら思い出すんだよ”とぽつりという。でもそれ以上は語らない。母の戦争体験も聞いたことがない。みんなあまりに残酷すぎて口にしないんです」と語った。また「学校からの行き帰りに、訓練をしていた米兵が突然迷彩服で出てくるし、暴行事件は多かった。米兵はチューインガムやコーヒーの塊はくれていた。でも夜になると、よく米兵に追いかけられる夢を見るほど恐ろしかった」と語った。
むしずが走る既存の「平和運動」
「体験をしているだけに見るのがつらい。原爆で少年が背中にやけどを負っている写真を見てつらくなって…」と切り出した七〇代の婦人は、「沖縄戦のときは八歳ぐらいで、裸足で歩いて逃げまどった。艦砲射撃は鉄の破片がバラバラとふってくる。わたしにも傷跡がある」とかかとに白くくぼんだ傷跡を見せた。「小学生のときは短パンをはくのが嫌だった。でもいまも艦砲射撃で肩に傷を受け呼吸が苦しくなるなど後遺症をもった人がたくさんいる。いまはベトナム戦争でB52が飛び立っていったのと同じ。いまわたしたちが語らないといけないと思っているけれど、みんなほんとうのことは語っていない」と語った。そして「戦後米兵がものをくれたというけれど、わたしたちは生きることにはかえられないからともらって食べていただけ。あれだけ焼き払っていてと思う。よく革新の人たちが日本兵が悪かったとだけいうけれど、実家は日本兵の宿舎で日本刀がたくさんあった。戦後米兵がドカドカと泥靴で踏みこんできたのを覚えているし、アメリカが殺したんです」と強調した。
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既存の平和運動についても「わたしたちは道を歩くたびに、ああ、あそこで足があぜ道にちぎれていた、あそこで人が死んでいたと思い出し、いまでもうめき声が聞こえてくる。それなのに本土から観光気分で五・一五平和行進などに来てわいわい騒いで“ひめゆりの塔に行った”とか話されるのを聞くと“そんなものが平和運動か!”“真の苦労も知らないでなにか!”とほんとうにむしずが走る思いをしてきた」と語った。「市民系、革新系、いろいろ動いているけれど背後に各市の予算などいつも金が動く。だから体験者は語らなくなってきた。わたしは米軍がくれた物質の幸せはいらない。ほんとうの心の幸せがほしい。米軍基地を撤去して、農漁業をやって自給自足をしたらいい。そして沖縄戦のほんとうのことを若い世代に伝えたい」と強調した。
また「おばあちゃんは壕の中で米軍の戦車で壕ごとつぶされ、お父さんは日本兵に撃ち殺されて複雑な思いだけれど、パネルを見ていると涙が出て言葉にならない」と語り出した六〇代の婦人は、「名護の給油所の近くには戦後直後、米軍の戦車にひき殺された娘とお母さんの無縁仏がある。沖縄にはこんな無縁仏がたくさんある。地元の人はみんな知っている。県や国など政府はこんな問題をみなお金で解決しようとするが、それが許せない」と語った。
米軍の残虐を書いた本ない
ベトナム戦争のとき5歳だったという男性は「日本軍が悪いのは確かだがアメリカのことを書いた本が一つもない。ほんとうのことがかくされている」と強調した。そして「沖縄だけで動いても基地はなくならない。全国が動かないといけないと思う」と語った。
40代の男性も「人間は戦争のくり返しで歴史は流れてきたが、米兵の事件は、人としてあるべき姿はなにかという根本的な問題を考えていくようにするべきだ。基地の被害を小さくするとか、他所に持っていくとかいうような小さい問題ではないと思う」と語った。
また50代の男性は「米軍統治下の建物がつぎつぎに壊されている。この近くにあった立法院もサミットのとき壊された。今度のヘリ墜落事故のとき、ちょうど本土の展覧会に行っていたが、マスコミのあつかいは小さかった。いまもアメリカの占領状態は変わらない。辺野古への移転は大多数がダメだといっているのにすすめている。ヘリ墜落をきっかけに、根本的なところへむくどころか、早く基地を移転させようとしているのだからデタラメだ」
と語った。
原爆展は高校生や大学生など若い世代も熱心に見入り「こんなに被害がひどいとは知らなかった。このような写真は見たことがなかった」「言葉になりません」など感想を語っていた。