沖縄における米軍ヘリ墜落とその後の米軍による現場占拠、警察の現場検証拒否、さらに同型ヘリの飛行再開の強行という、日本の主権じゅうりんの実態は、沖縄のみならず、軍事だけでなく政治、経済、文化、教育、メディアなど全生活にわたる主権放棄の全国の縮図として広範な怒りがまき起こっている。アメリカはかつての戦争で、広島、長崎に原爆を投げつけ、全国の都市に空襲を加え、非戦斗の老若男女をむごたらしく殺した。沖縄県民の怒りは、沖縄戦における大量殺人と戦後の占領支配の体験に根ざしている。占領したアメリカは、沖縄県民が殺されたのは日本軍部に協力したからであり、アメリカはそれから解放するために沖縄を占領したといったインチキな宣伝をしてきた。だが沖縄戦と戦後占領の実態は、日本人を虫ケラのようにしか見ていないこと、民族的な侮べつを加えたうえに、朝鮮、ベトナム、そしてイラクと各国人民を虫ケラのごとく殺す戦争を重ねてきたことを示している。沖縄戦と戦後の占領における沖縄県民の苦難への新鮮な怒りを呼び起こすことはきわめて重要である。
米軍が大殺りくした沖縄戦
沖縄戦は太平洋戦争における激戦地で45年3月の慶良間諸島上陸から3カ月間つづき、日本側の戦死者は24万4000人余にのぼった。このうち15万人が民間人で、いまも山野に数千体の遺骨が埋もれたままである。
米軍は沖縄戦に地上戦斗部隊の第10軍18万3000人と海軍部隊などをふくめた総勢55万人と艦船約1500隻を動員した。その目的は「沖縄奪取、基地としての整備、沖縄諸島における制空、制海権の確保」。最初から沖縄全島を占領し刃向かうものは殺し尽くす作戦だった。
3月23日に沖縄大空襲をやった米軍は、4月1日に沖縄本島へ上陸作戦を開始。空母40隻、戦艦20隻を中心とする1500隻の英米連合軍艦船で包囲し、猛烈な艦砲射撃と1600機におよぶ空母艦載機で銃撃、爆撃した。上陸準備の艦砲射撃を7日間つづけ、沖縄本島の中部西海岸に上陸するまえには南北13㌔の海岸線に約10万発の砲弾を撃ちこんだ。それは90㍍4方に25発以上というち密な事前計算にもとづくものだった。
米軍は4月19日、与那原に大量のナパーム弾爆撃(爆発すれば50㍍4方を火の海にする)を加えて焼き尽くし、長い歴史を持つ首里も1日で瓦礫にした。沖縄にわずか2カ月足らずで51万発の艦砲弾と177万発の野砲・重砲弾を撃ちこんだ。1日7万5000発以上の砲弾の嵐のなかでは弾にあたらない方がまれで、生き残ったものが「艦砲の食い残し」といわれるほどだった。
沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦斗員まで殺害した。
嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。
国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。
米軍は沖縄戦ではじめて火炎放射戦車を使い、日本軍の塹壕や横穴陣地を焼き尽くした。丘陵のトンネル陣地は地表面を占領して、入り口から発煙筒をうちこみ、煙が出てくる穴という穴に梱包爆薬を投じてガソリンを流しこむ「馬乗り攻撃」を加えた。
中部の住民十数万人は戦火を逃れて南部に逃げたため、沖縄南部は30万人の住民と日本軍が集結していた。これに米軍は海上から艦砲射撃、地上では火炎放射器で壕を焼き払った。さらに南端の喜屋武岬にいたる原野のカヤやススキのうえにガソリンを空からまき、その上に焼夷弾を落とし焼き殺した。南部では1坪あたり20発ぐらいの砲弾を投下した。沖縄本島の住民を3人に1人の確率で殺し、島尻に逃げた人人のなかでは2人に1人が命を落とした。
住民にも鬼畜のような蛮行
沖縄を占領した米軍は「解放軍」のように宣伝したが、やったことは強姦、強盗など鬼畜のような蛮行だった。沖縄戦さなかの45年5月には、旧首里市役所職員古波蔵保知氏(38歳)と2人の男性が国頭の山中の避難小屋の付近で米兵に腹を切り裂かれて殺された。古波蔵氏は首里の避難民を引率して疎開中、若い女性が米兵に追われて逃げてきたところに直面した。米兵はいったん引き返したが、その後約30人の武装米兵が避難小屋を襲撃。そして古波蔵氏ら3人の男を河原に引っぱっていき、自動小銃で射殺。米兵が引き揚げたのち、同じ小屋に避難していた婦人が河原におりてみると3人は腹を裂かれていた。
米兵が、壕に隠れていた男たちを追い出し、救うようなふりをしてタバコを与えて背後から射殺したり、隠れていた穴から飛び出してきた国民学校の生徒を射殺したことも目撃されている。食糧確保のため離島に渡った若い娘が米兵に追われ射殺されたり、妻子に乱暴しようとした米兵をいさめた夫を米兵が連れ出して射殺したり、米兵が来るまえに女性を逃がしてやった村人を正座させたまま射殺するなど蛮行のかぎりをつくした。本部半島のある部落では海兵隊上陸直後に部落中の婦人が米兵に襲われた。男が戦争にかり出され、女、子ども、老人しか残っていないところを狙った蛮行だった。
米兵の婦女暴行事件は戦火がやみ、米軍の支配下におかれてますますひどくなり、多くの混血児が生まれた。夜になると鉄条網がはられ逃げられない収容所を米兵の集団が襲って「娘狩り」をくり返すため、そのたびごとに酸素ボンベを打ち鳴らして女性たちを逃がす状態だった。米兵から襲われて殺されたり、混血児を産まされた証言はきわめて多い。
45年7月時点で合計約32万人余の沖縄住民と旧軍人などが米軍政下に入った。軍人などは捕虜収容所、住民は難民収容所に収容。収容所では入所と同時に殺虫剤を散布され、新しい衣服に変えさせられた。それは米兵を伝染病から守るためだった。
そして必死に戦場を生きのびてきた住民にわずかな食糧しか与えず、負傷者や栄養失調者にもまともな手当てをしなかった。しかも重病人以外は自分の食糧確保のための農作業と米軍用道路や基地建設工事にかり出しこき使った。一般住民も米兵のきびしい管理下で「捕虜」あつかいされ、劣悪な衛生環境のなかで多数の死者が出た。浦添村民の収容所では312人が死亡したが、それは浦添全体の死者の1割にのぼった。
米兵の犯罪が多発 占領後の沖縄
米兵の犯罪は戦後もへることはなかった。とくに射殺、刺殺、撲殺、強姦といった残虐な方法の殺害がめだった。傷害も強姦傷害、婦女暴行傷害、発砲による傷害が多く、真先に被害を受けるのは婦女子であった。沖縄での米軍人・軍属による刑事事件は53年から71年までの18年間だけで1万5220件(このうち死亡222件、傷害560件)にのぼる。それは毎日2~3件という頻度。施政権が日本に返還された72年から95年の23年間だけでも検挙された沖縄の米兵犯罪は4657件にのぼっている。
戦後の犯罪で頻発した第一は米軍車両による人身事故やひき逃げであった。
45年9月には羽地村の39歳の母親が子どもを背負って野原でヨモギを摘んでいたところ、米兵4人がジープで来ていきなり車のなかに引きずりこまれた。そしてジープが猛スピードで曲がったときに親子は振り落とされ、背中の子は即死。母親は全身打撲で傷は完治せず足はびっこをひき、右耳は鼓膜障害で電話も使えない身となった。
さらに同月、当時小学校4年生だった安座間スミ子ちゃん(11歳)が勝連町の道路で8~9人の友達と遊んでいたところ、米兵四人の乗ったジープが近づきチューインガムやビスケットなどを路上に投げ、子どもたちが奪いあって拾うのを笑った。スミ子ちゃんも背中に負ぶっていた親戚の娘をおろしお菓子を拾いはじめた。ガムを投げたジープは走り去ったが、そこへ別のジープが疾走してきた。子どもたちがいることを知っていながら速度を落とさず、米軍のジープがスミ子ちゃんともう1人の子をはね飛ばし走り去った。1人は近くの池に落ち軽傷だったが、スミ子ちゃんは右足大腿部を引かれ後頭部を強打し意識不明となった。だがまだ死んでいないのに米軍の病院は「軍隊は5時までしか病人の手当てはしない」と見殺しにした。そして6時ごろスミ子ちゃんは息をひきとった。
この年の11月当時8歳だった津波実義さんが路上でキャッチボールをしていたところへ米兵のジープが猛スピードで突っこんだ。すぐ病院に運ばれて命はとりとめたが強打した脳に傷害が残り、6年後しばしば卒倒を起こすようになり中学校を退学した。発作が起きるため仕事にもつけなかった。67年には前原高校2年生がトレーニング中に米兵の車に引かれて即死した。家族にまともな補償もせぬ米軍にたいし怒りが噴出。抗議デモでは高校生が先頭に立った。
さらに米軍機やトラックによる轢殺である。46年6月に国頭村の海岸で川蟹をとっていた9歳と14歳の少年を米軍機が急降下して襲った。9歳の少年は飛行機の車輪で頭を砕かれ即死。14歳の少年がかかえ起こそうとしたとき再び飛行機が低空で近づいてきたためススキ原に逃げこみ夢中で部落に帰った。米軍機はトンボと呼ばれる偵察機で意図的な轢殺だった。
52年10月にはコザ中3年の花城安昇君(16歳)がいとこの花城安一君(8歳)を自転車のうしろに乗せて走っていると反対車線から疾走してきた米軍ガードが道を横切ってわざと自転車に突入。安昇君は即死、安一君は病院で死亡した。犯人は逮捕され裁判にかけられたが無罪となり、無罪判決の3日後には帰国している。
また伊江島のLCT弾薬輸送船の爆発である。48年8月、波止場へ連絡船が戦死者の遺骨を積んで帰ってきたため、村の人が大勢出迎えに来ていた。そのとき米軍の波止場は弾薬の積みこみが終わり、桟橋を離れようとしていた輸送船内の500㌔の爆弾の山が崩れ大爆発を起こした。この事件は死亡103人、重傷21人、軽傷88人の大惨事となった。だが米軍は被災者に食糧と毛布一枚を支給しただけで賠償金も支払わなかった。
さらに51年10月には米軍機が那覇市のパナマ帽製造業者・上江洲さんの家に炎上するガソリンタンクを落下させ仕事をしていた大工の親子、上江洲さん夫妻と息子(3歳)、娘(1歳)を焼き殺す惨事を引き起こした。夫の上江洲由憲氏は庭にいたが妻子を助けるため炎に飛びこんで焼死した。このときも米軍はなんの補償もしなかった。
基地建設の為畑や家を潰す 伊江島
米占領軍は戦後飢え死に寸前のところで食糧や服を与え「解放軍」と宣伝したが、それは健康にして奴隷労働をさせるためであった。そして米軍は住民の土地をむりやりとり上げて基地を拡張し朝鮮侵略戦争のための基地労働者としてこき使っていった。その典型が伊江島での銃剣とブルドーザーによる土地強奪だった。
米軍は53年に伊江島の真謝部落の測量を開始し翌年には「農耕も自由。損害を受ければ補償する」といって4戸を5日間の期限で立ち退かせた。そして射撃演習の目標をつくるためブルドーザーで畑を荒した。他の農民の芋畑500坪も荒したうえ、爆撃演習でスイカ畑300坪が焼かれ全滅。植付けしても演習で焼かれるため、農耕はできず食糧難となった。だが米軍にいうと「すでに土地は借用済み」と追い返すだけだった。そして54年9月には150万坪の土地の接収と民家152戸の立ち退きを通告。55年3月には農民たちの激しい抗議を受けるなか、3隻の大型上陸用舟艇が伊江島に上陸。約300人の武装米兵がジープ、トラック、催涙ガスを用意して真謝部落に突入した。抗議する地主代表にたいして米軍は「米軍の地をもって日本軍よりぶんどった伊江島であるから米軍の自由であり勝手である」といい作業を強行。そして農民が育ててきた芋、落花生、サトウキビ、防風林の松、畜舎、納屋、家屋敷もブルドーザーでひきならしていった。そして100万坪の農民の土地をジェット機演習場として金網で囲んだ。
さらに13戸の家には住民がまだ家財道具を持ち出そうとしているにもかかわらず、かまわず火をつけ破壊した。そして銃を突きつけて住民を1カ所に追い立て、「このカネは君たちの家を破壊した賠償金だから受けとれ」とカネを押しつけ、指を持って強引に捺印させた。抵抗して農耕をつづける農夫を見つけると米兵はなぐるけるの暴力をふるい、逮捕して実刑を科した。
こうしたなかで農民の生活は困窮をきわめた。6月には陳情行動から帰った34歳の婦人が過労と栄養失調で4人の子どもを残して死んだ。12月にも別の婦人が栄養失調で死亡した。農民の要請で健康診断に来た名護保健所の所長によると100人のうち92人が栄養失調でこのままでは命が危ない状況だった。
こうした沖縄戦にはじまる殺りく、戦後も一貫して継続している米軍の犯罪、沖縄のじゅうりんは日本人を虫けらのようにあつかってきた歴史であった。それは日本全土共通の縮図であり、米軍ヘリ墜落事件とその対応はいまだに植民地占領状態がつづいていることを暴露した。
【沖縄めぐる運動路線】
米軍基地撤去が県民の要求 運動攪乱する米軍占領感謝潮流
戦後の沖縄県民の歴史はアメリカの武力による占領支配と抑圧に反対して米軍基地の撤去を求めてたたかいつづけてきた歴史であった。
アメリカは、沖縄戦で幾十万の罪のない老人、婦人、子どもを無差別に殺傷し、民家を焼き払い、地上のいっさいのものを焼き尽くし、破壊し尽くしたうえで、県民を収容所にとじこめて自由を奪い、当初からの目的であったアジア侵略のための米軍の最重要拠点にするために強制的に従わせた。沖縄戦での米軍の蛮行で肉親を殺された大多数の県民は、米軍の命令一本で、基地建設の労務や港湾荷役などに強制的に動員されこき使われたり、軍事基地にするためにうむをいわさず田畑をとりあげられ狭い土地に押しこめられてその日暮らしの生活を強いられることに抗議して、ハンガーストライキや座りこみなどで体をはってたたかった。
だが当時、これらのたたかいを一つに束ねて、アメリカの軍事占領支配に正面から反対してたたかううえでは、困難な状況に置かれていた。アメリカは天皇制軍国主義の野蛮な支配に苦しめられていた沖縄県民を、温かい「人道主義」で助けるから感謝すべきだという欺まん的な宣伝で頭から抑圧していた。そのうえに、1947年にあいついで結成された政党、民主同盟、沖縄人民党、社会党は、いずれも当時の本土の革新政党と同じように、「アメリカ軍によって日本軍国主義者の支配から解放された沖縄は、今後、民主的な自治政府をつくって、独立の方向へと進むべきである」という立場をとっていた。
だが、沖縄県民が直面する現実は、アメリカの軍事的抑圧支配は「解放」どころか生き地獄そのものであった。たたかいは伊江島や伊佐浜での武力による土地接収に反対する犠牲を恐れぬ斗争をはじめ、全島的に生活の改善や自治、学校教育の再建などを要求する運動として発展していった。
米軍は県民のこうした最低限の人間的な生活要求すらはねつけた。55年の「プライス勧告」では、「琉球列島には挑戦的な民族主義運動がないので、アメリカは、この島島を長期にわたって、アジア・太平洋地域における前進基地として使用することができる。ここでは原子兵器を貯蔵または使用するアメリカの権利にたいし、なんら外国政府の干渉や制約を受けることはない」と横暴さを露骨に示した。
沖縄県民の積もり積もった怒りは「プライス勧告」反対の島ぐるみのたたかいに発展、それは明確にアメリカの異民族支配の鎖を断ち切り、祖国日本への復帰を求める運動として勢いよく発展していった。
1951年のサンフランシスコ講和条約締結まえに、「日本復帰署名運動」が提案され、1960年4月、その後の県民の運動の母体となる沖縄県祖国復帰協議会が発足した。本土で「安保改定」阻止の政治斗争が発展したこの年の6月19日、当時のアメリカの大統領・アイゼンハワーが東京を訪れる途中に沖縄に立ち寄ったが、労働者、学生の怒りのデモ隊に囲まれ身動きできなくなり、海兵隊の銃剣に守られて、逃げるように帰国した。
毎年4月28日に開催される祖国復帰県民大会は年を追って盛大になり、本土での沖縄返還の運動も原水禁運動、基地撤去斗争と結びついて発展、1963年からは北緯27度線上に船をくり出し、本土代表と交歓する海上集会がもたれるようになった。
1965年、アメリカがベトナム戦争で北爆を開始し、沖縄が大型爆撃機B52の出撃基地となるなかで、沖縄県民の運動は労働者を中心にしたベトナム侵略戦争に反対する運動と結びついてさらに発展していった。65年8月には、佐藤栄作首相の沖縄訪問もデモで包囲され、スケジュールをこなすことができずに終わった。
68年、嘉手納基地にB52が墜落爆発する事件が起こった。これを機に基地労働者をはじめ各産業の労働者はベトナム人民との連帯をかかげてB52撤去斗争を発展させ、翌年2月の24時間ゼネスト決行にむけてたたかいを前進させた。だが、ここでも、「革新」とされる屋良朝苗主席が総評幹部らとともに東京に呼ばれ、日本政府の脅しと懐柔を受けて「ゼネスト回避」の裏切りを働き、県民の失望と怒りを買った。
69年6月には、安保破棄・B52撤去・即時無条件全面返還要求県民大会が開催され、11月佐藤首相が「ニセ沖縄返還」をとり決める訪米阻止の斗争は、「安保廃棄、米軍基地撤去、自衛隊の沖縄駐留阻止」の課題を鮮明にしてたたかわれた。
このように、沖縄県民のたたかいは沖縄戦と戦後の米軍の野蛮きわまる占領支配の歴史的な体験に根ざして発展した。それは、「安保」条約破棄・米軍基地撤去の課題を鮮明にし、本土の基地撤去斗争と固く連帯し、アジアでのアメリカによる侵略、抑圧支配に反対する斗争と連帯してたたかわれたときに全県民の力を結集し、力強い運動として発展していったことを示している。
それはまた、アメリカに隷属して沖縄に屈従を強いる日本政府や、アメリカの支配に感謝してその代弁者となって県民の運動を崩す役割をはたしてきた修正主義や社会民主主義勢力の撹乱とのたたかいでもあった。
1970年5月15日、沖縄の「施政権」が日本政府に移されたが、その後の事実は、米軍基地の機能がさらに強化され、日本全土の沖縄化による米軍基地の再編強化へとすすんだことを示している。
犯罪的な大田県知事の本土移転路線
だが、その後の沖縄県民のたたかいは、新たな困難に直面し一時的な後退をよぎなくされたことも事実である。それは、「革新」「進歩」をとなえる運動内部に、「自衛隊反対」は声高にとなえるが、沖縄県民の苦難の根源である「米軍基地撤去」「安保破棄」の課題は黙して語らないという特徴をもってあらわれた。
それはとくに、1980年代なかばから、「日本人加害者論」と響きあって、「沖縄県民はアメリカよりもヤマトを敵にすべきだ」という論が進歩的装いでふりまかれ、県民の実際の体験からほんとうのことを語り、アメリカへの怒りを米軍基地撤去にむけて発展させることを抑圧するものとしてたちはだかるようになった。
沖縄の平和教育はこのころから、「沖縄戦の実態」「自衛隊はなんのためにあるのか」「住民虐殺と友軍」などの関係について教えることが強調されるようになった。沖縄戦から学ぶことは「米兵よりも日本兵の方が怖かった」「友軍が沖縄県民を虐殺した」「皇民化教育で集団自決を強いた」などのことを強調するが、そのことをもって沖縄戦で無差別艦砲射撃で県民を無差別に殺りくし、その後のアジア・中東にむけた核基地として県民に途方もない危険を強いてきたアメリカに反対してはならないという特徴をもった。
1995年9月、米兵による少女暴行事件を契機に「鬼畜米兵は帰れ」という米軍への積年の怒りが噴出し、米軍基地撤去を願う全県民の運動として発展した。このたたかいはあらためて、日本が対米従属のもとにあり、沖縄が全土の縮図としてあることを暴露し、全国的な「安保」破棄・米軍基地撤去の鋭い政治斗争として発展した。
当時の橋本政府はアメリカの指図で、このたたかいを抑えこむために「沖縄の痛みを分かちあう」といったが、それを実行するうえ重要な役割をはたしたのが、「革新」を名のる大田昌秀・沖縄県知事であった。大田知事は「安保条約」と米軍基地を容認したうえで、「普天間基地の県内移設には反対、県外へ移設する」「2015年をめどとして米軍基地を段階的に移設する」などといって民族的な裏切りをおこなった。
大田知事の路線がいかに犯罪的であったかは、その後の事態が証明している。今日、有事法制化の動きが強まるなかで、またイラク戦争への出撃基地として、米軍が沖縄県民を虫けら同然にみなして強圧的に沖縄の基地機能を拡張・強化しており、日出生台や北海道、岩国などへの米軍基地の全国分散によって日本全土の米軍基地の再編強化が段階を画してすすんだ。大田知事とそれを支えてきた一部の反動的な労組幹部たち、「安保廃棄通告までは安保を容認」という修正主義潮流が、このような危険な道を掃き清めたのである。
今日の沖縄の事態は、日本全土で日常的に起こっている日本の主権じゅうりんが露骨にあらわれたものである。
米軍ヘリ墜落炎上事故を契機にした沖縄県民のたたかいが、このような歴史的な経験をふまえてさまざまな妨害をうち破り、本土のたたかいと団結して米軍基地撤去のたたかいを発展させることが期待される。日本の主権回復を要求するものは、イラク人民の反占領斗争に連帯するものである。