終戦から69年を迎えた。要塞都市・下関であの戦争を経験した市民のなかでは、「お国のため」と大人から子どもまで戦争に動員されたあげく、戦地や空襲で親兄弟を失った痛恨の経験や、戦後進駐してきた米軍が、朝鮮戦争やベトナム戦争で下関をどのように利用していったのかなど、戦中・戦後の経験が鮮明な記憶として語られている。ここ数年、「アジア重視戦略」を掲げるアメリカが下関を「重要港湾」に指定したり、全国初の大規模テロ訓練がおこなわれたり、米軍艦船や自衛艦が頻繁に寄港したりと、下関市民にとって戦時下を思い起こさせるような出来事が続いてきたが、地元出身の安倍首相が中国や韓国と一触即発の状態をつくり出しながら、憲法改悪や集団的自衛権の行使など叫び、再び戦争への道を暴走しようとするなかで、この経験を後世に語り継ぎ、二度と戦争をさせてはならないとの思いが強まっている。
80代の婦人は、8歳上の兄を特攻隊で亡くした。兄は海軍航空隊として入隊し、レイテ湾でアメリカの軍艦に突っ込んで戦死した。亡くなる前、兄が電車で下関駅を通過すると電報が入り、「これが最後かもしれない」と家族みんなで夜中に会いに行ったという。「ホームに降りてきた兄は南方での敵との空中戦を手振りで話してくれ、“飛行機がなくなったから内地にとりに来た”といった。そして最後に“今日が家族にお会いできる最後でしょう。妹たちをよろしくお願いします”と父に頭を下げた。デッキに乗り、姿が見えなくなるまで手を振っていた兄の目に光るものがあったことを今でも鮮明に覚えている」と話した。
当時は英雄扱いで、新聞でもトップでとりあげられ、映画ニュースにもなったという。町内の人人の厚意で家の前には鳥居が建てられ、その横に「軍神」と兄の名が書かれた碑も建てられた。家がちょうど電車の停留所の前だったので、道行く人たちがみな鳥居に手を合わせていった。「しかし長男で頭もよかった自慢の息子を失った父の気持ちはどんなものだっただろうか」と語る。
8月15日、「玉音放送」で敗戦を知った翌日、朝早く目を覚ますと父が鳥居を取り壊していた。「町内の人たちが建ててくださった鳥居をどうして壊すの?」と聞くと、父は「犬死にだったな。海軍なんかにやるんじゃなかった」とぽつりとこぼし、その後は黙黙と鳥居を取り壊していった。その後、婦人の家族はみな、だれにも兄のことを話すことなく沈黙を守ってきた。しかし「今の世の中は戦争に向かっているとしか思えない。安倍総理は憲法を変え、戦争の準備をしている。戦争を始めるのは国の指導者だが、殺されるのは国民だ。兄は国に殺されたのだと悔しくて仕方がない。なにが神風だ。いくら家族、親族を殺されても国民にはなんの補償もない。2度と戦争だけはしてはいけない」と思いを込めて語った。
男手は戦地へと駆り出され、後に残った女性や子どもたちは、神鋼や三菱などの軍需工場や農作業へ、学徒動員や勤労奉仕に駆り出された。神戸製鋼には豊浦高校、阿部女学校(現在の早鞆高校)、下商、宇部高専など各学校から大量の学生が集められ、飛行機の部品づくりに従事した。なかには、早稲田の大学生もいたといわれる。三菱にも関工の生徒などが動員された。小学生でも高学年になると、防空壕掘りや飛行機の燃料にするための松ヤニとりなどに動員され、「勉強どころではなかった」と語られている。
中学2年生のときに学徒動員で彦島の三菱で働いていた80代の男性は、「小学校の頃から校庭に防空壕を掘ったりで、とても勉強どころではなかった」と話す。家の近所である、金比羅山、数珠山にも砲台があり兵隊が常駐していたが、軍の施設に関する詳しいことはすべて機密で、山に上がることもできなかったため、「砲台があったということしか知らない」という。「下手に歩いたり、探ろうとすればスパイとされた時代だった。“海を写生してはいけない”ということは市内中どこの学校でもいわれていて、山陰線の電車に乗るときには海側の窓はすべて閉め切って覆いがされ、海が見えないようにしてあった」と語った。
中学2年生で終戦を迎えた80代の婦人は、「小学校を卒業して下商に行った。食べる物はなかったが、親は自分たちは大根飯で我慢して、子どもの弁当には少しでも多く米粒を入れていた。おかずは梅干しや漬け物。うちは漁師だから魚の煮物が入っていたくらいだ。そんな弁当でも1クラス50人いるなかで、毎日三つずつ必ず弁当がなくなっていた」と当時の生活を語る。栄養失調で中学1、2年で体重は28㌔しかなく、終戦後、中学三年になってようやく32㌔になった。
しかし、軍隊や富裕層にはちゃんと食料が届いていたことも忘れられない光景として記憶に残っている。終戦直前、見たこともないような贅沢な家財道具が海に流れてきたので、地域の人たちみなが拾ったことがあった。すると竹ノ子島にあった船の検疫所に駐屯する兵隊から、「拾った物はみんな出せ」といわれたという。それは終戦を知った富裕層が、事前に船を雇って引き揚げる途中、台風にあって流れたものだった。大陸から引き揚げてきた人たちは大変な目にあったが、軍隊とお金持ちは、食べる物もない国民とは全然違う生活をしていた。「学校に行けば手榴弾の投げ方、死に方、竹槍訓練などばかり。手榴弾は20㍍先に1、2、3のリズムで投げないといけない。そんな学校に行きたいはずがない。B29に向けて高射砲を撃っても届かないのに、竹槍の訓練をしながら、“国は一人残らず死ぬまでたたかわせるつもりだな。日本の国はなくなるということかな”と子どもながらに考えたことを覚えている」と話した。
そして「40代の頃に、店に来た20代のお客さんに戦争の話をすると、“心配しなくても今の戦争はミサイルを撃って終わりだから”と笑われて以後、絶対に戦争の話はしなかった。しかし最近になって怪しい空気が流れはじめているので、やはり私たちが伝えなければと思い、話すようになった。安倍さんたちや若い人が思っているように、ミサイルを撃ち込まれて終わりではない。戦争というのは、食べる物から着る物までなくなって、勉強したくてもできない、寝たくても寝られない。戦争を知らない人は単純なことを考えているが、すべての生活が動員されるのが戦争だ」と語った。
民家焼き払った大空襲 神鋼や三菱は無傷
下関の戦争被害は、中国地方では原爆が投下された広島に次ぐ大きなものであった。昭和20年の3月以降、関門海峡には毎日のように機雷が投下され、6月29日、7月2日の2度にわたる空襲では、宮田町、唐戸町、南部町、豊前田、細江、入江、丸山、東大坪、高尾、観音崎、西の端、田中町など、旧市内中心部の108万9000平方㍍が焼き尽くされ、焼け出された市民は4万6000人をこえた。焼かれた建物は1万戸以上にもなるが、死者数など被害の実態はいまだに明らかになっていない。
小学校3年生のときに下関空襲にあったという婦人は、「下商の裏門のあたりに後田の町内みんなが避難する大きな防空壕があり、そこに走って逃げた。すぐ近所の家では家の前に自分たちで防空壕を掘っていてそこに逃げ込んで蒸し焼きになった。下商の体育館に怪我人や死体が集められ、それはひどい臭いだった。子どもたちは行くなといわれ行くことはなかったが、母が炊き出しの手伝いに行って、その惨状を話してくれた」と話す。
西大坪に住んでいた女性は「あの夜はおかしかった。警戒警報が出てそれが一旦解除されてみんなが安心したところで突然空襲警報がなり、焼夷弾が降ってきた。近所の家では警戒警報解除になって安心して寝ていたところに焼夷弾が直撃し、家族全員が丸焼けになった。今でもその泣き声が耳に残っている」という。「私の家は薬を売っていた。敗戦の2、3年前から物資が不足して売る物がなかったが、いざというときに備えて隠していた肝油や消毒を持って母が臨時の病院となっていた下商や西高に駆けつけた。しかしやけどした人があまりに多く、傷もウジがたかっていた。わずかな薬では助けてあげることができないといって母が泣き泣き帰ってきたのを覚えている」と語った。
80代の男性は、「米軍は毎晩のように機雷を関門海峡に落とした。それだけ関門海峡が交通の要衝だったということだろう。船が機雷に触れて爆発する瞬間を見たことがあるが、1回目はタグボートで、巌流島のそばで水柱が噴き上がり、水柱が収まるとそこには船の瓦礫だけが浮かんでいた。2回目はキャッチャーボートで水柱とともに船が浮き上がっていた。下関空襲のときには彦島から空が真っ赤に燃えているのを見ていた。クラスのなかにも家が焼け出された人が何人もいた」と話した。
しかし、交通の要衝を潰すといいながら、彦島の三菱、長府の神鋼、幡生の工場、線路や関門トンネルはすべて残された。
軍事施設利用した米軍鉄道も掌握
終戦後、下関にはアメリカ第2海兵師団第6連隊が乗りこんで占領統治した。昭和21年3月にはかわって第二ニュージーランド海外遠征軍が進駐した。
80代の男性は、「敗戦後、進駐軍が下関に来て、ニュージーランドの兵隊は長府の神戸製鋼に、鉄道は米軍が押さえた。下関駅には米軍の事務所があり、朝鮮戦争のときなどには、民間の輸送などは二の次、三の次で軍事物資が次次に運ばれていた。常に米軍が第1で、結局終戦といっても、日本軍のいたところに米軍が入ってきただけの話だった。小倉には戦時中は大きな造幣敞があったが、そこは米軍に接収され、朝鮮戦争の頃は小倉は米軍だらけだった。戦後は仕事もなく寂れきっていたのに、朝鮮戦争が始まると同時に軍需工場は昼も夜もないほどに稼働しはじめた。結局は占領軍が戦後に利用するところは残して、民間人を焼き払ったということではないか」と話した。
学徒動員で神戸製鋼で飛行機の部品をつくっていたという80代の男性も、「神鋼は、戦後すぐ朝鮮戦争が始まり、ベトナム戦争へと続いたので休む間もなく稼働してぼろもうけだった」と話す。幡生工場へと向かう後田の道路も、トラックに乗った進駐軍が大量に通っていたことが語られている。
「戦後、米軍がホロのついたトラックで小月飛行場に来て、しばらく駐屯していた。近所のおじさんが、“竹槍を持っとかないけん。なにをされるかわからない”といって、竹槍を磨いていた。進駐軍は来たとき、チューインガムと乾パンを投げつけた。私たちはパンパンと呼んでいたが、周辺の住宅で米兵相手の女の人を住まわせるところもあった。子供が兵隊に行って帰ってこないお年寄りの家が多かったように思う。夏の暑いとき、山の中のあちこちで、米兵と女の人が寝ている光景を見た。子どもらはなにをしているんだろうと思っていた。父は混血児が生まれたらかわいそうだから、だれかが面倒を見なければならないだろうとはなしていた」(王喜・婦人)
「神鋼に進駐軍が来たが、最初はアメリカの海兵隊、つぎにオーストラリア兵、ニュージーランド兵が最後だった。彼らは食料倉庫から肉やジャガイモの缶づめ、煙草、チョコレートなどを盗み取って町に酒を飲みに行く金にしていたから、棚卸しがあると、帳簿と現金があわなくなるから、倉庫に火をつけて燃やしてごまかす。そうした火事は3回くらいあった。生産工場の6、7棟目も焼けたことがあった」(神鋼退職者)
「長府北工場のなかに占領軍のキャンプがあった。もともと米軍の最前線の兵士は刑務所に入っていたのを使っているので気も荒いので、夜になって酔っぱらうと工場に来て鉄砲を撃ちまくるということもあり、労働者は逃げ回っていた」(神鋼退職者)
「夜に消防自動車で坂を登っていたところ、向こうから占領軍の車が来て、そのライトが運転手の目に入り、消防自動車が坂を3回転して落ちたことがある。その消防士は病院に運ばれたが、死んでしまった。占領軍の乱暴な運転が原因だ」(元下関消防署勤務)
「アメリカ軍の家族が乗った汽車が通るというので、関門トンネルまで見に行ったことがある。特別列車には夫人たちが乗っていたが、ガラガラにあいていた。日本の者は貨車に乗ったりしていたときなので、“はがゆいね”と話していた」(婦人)
「小遣い稼ぎで進駐軍に働きに行っていた。朝、警察署の前にトラックが止まってそれに乗っていく。ほかに働くところがなかった。土を運んだりしていたが、仕事は厳しかった」(男性)などと語られている。
実感ない政治家の暴走 深い怒り渦巻く
占領下の下関で、全国でも先駆けて進駐軍労働者の組合が結成され、500人以上のストライキがおこなわれたり、占領軍に逆らえば沖縄送りにされる状況下でも果敢なたたかいがくり広げられた。長府では街で「女を出せ!」と乱暴を働く占領軍兵士を力ずくで制裁する自警団がつくられ、民族的な誇りをかけてみながたたかった。
痛恨の経験をへて、戦後焼け野原から下関を再興してきた市民のなかでは、今戦争になれば、食料難にしろ、本土空襲にしろ、前の戦争以上に悲惨な事態になることが口口に語られ、そんな実感もない安倍首相をはじめとした政治家が、「戦争も辞さない」といって戦争準備を進めていることへの深い怒りが渦巻いている。