(2025年1月6日付掲載)
東京外国語大学教授の黒木英充氏は昨年12月25日、東京の日本記者クラブにおいて「シリア・アサド政権崩壊 背景と影響」と題する講演をおこなった。黒木氏は、今回のアサド政権の崩壊は、四半世紀にわたって形成されてきた「イスラエルに対する柔らかな包囲網」が崩壊したことを意味すること、アサド政権を倒したシャーム解放機構(HTS)に資金や武器を与えたのはトルコで、その背後にアメリカとイスラエルがおり、三者の驚くべき連係プレーがおこなわれたこと、シリアで内戦が激化しても欧米諸国が経済制裁をやめなかったのは、「アサドを引きずり下ろすまでは許さない」という米英仏首脳の強い決意があったこと、などを指摘した。講演と質疑応答の要旨を紹介する。(文責・編集部)
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まず、今回のアサド政権崩壊は、この四半世紀の「イスラエルに対する柔らかい包囲網」が最終的に崩壊した事件だった。
イスラエル包囲網崩す 9・11以降の行動
2000年にハーフェズ・アサドが死去し、バッシャール・アサドが後継の大統領に就任したとき、シリアは、従来の友好国イラン、レバノン、リビアに加え、中東のすべての国と良好な関係を樹立していた。
シリアは1991年の湾岸戦争でアメリカが主導する多国籍軍に参加し、これを機会に西側諸国との関係を改善した。それまでシリアは東側の強硬派と見られていた。同年、シリアはレバノンの内戦終結に関与し、アメリカの黙認のもとで軍隊の駐留継続とレバノン内政への干渉(民兵からの武器の回収、国民和解に向けての国の立て直し)をおこなった。2000年5月には、レバノンのヒズブッラーがレバノン領内にいたイスラエル軍を撤退させた。
また90年代には、シリアはエジプトやイラクとも関係改善・国交回復に進んだ。トルコについては、クルド労働者党(PKK)をめぐって関係が悪化していたが、1998年のアダナ合意でシリアがクルド勢力への支援をやめることが決まり、トルコとも関係改善へと進んだ。人や物資の行き来も盛んになった。
これらはハーフェズ・アサド大統領の外交手腕によるものだと見られている。こうして2000年頃には、シリアを要とする対イスラエルの「柔らかい包囲網」が成立した。
一方、イスラエルとアメリカにとっては、この「包囲網」を戦争・軍事行動によって各個撃破し、関係性を絶ち切っていくことが課題になった。昨年12月のアサド政権崩壊は、それが一つの節目にきたということができる。
具体的に見てみよう。2001年の9・11事件を契機に、米軍がアフガニスタン侵攻を開始し、2003年にはイラクとの戦争を始めてサダム・フセイン体制を打倒した。米国内ではネオコンが勢威を振るっていた時期だが、「中東の民主化」という建前のもと、「対イスラエル包囲網」の中の軍事大国イラクをうち破ったわけだ。
「次はシリアだ」ということで2003年12月、米民主党の親イスラエル議員がシリア問責・レバノン主権回復法案を提出し、シリアに対する圧力を強める法律が連邦議会で成立した。
レバノンでは、2004年10月にハリーリー首相が辞任し、翌2005年2月には暗殺された。「シリアかシリアとつながったヒズブッラーが犯人」という言説が力を持ち(真相は不明)、ベイルートでデモがおこなわれ、そしてシリア駐留軍が撤退することになった(同年4月)。シリアにとってはレバノンとの関係が絶たれたわけではないが、レバノンに強い影響力を及ぼしてきたテコが失われた。
すると同年8月、イスラエル軍がパレスチナ自治区ガザを完全封鎖し、翌年6月にはガザ攻撃を始める。これと呼応するようにイスラエル軍の対レバノン戦争が始まった。ただ地上戦でヒズブッラーが力を持ち、イスラエル軍を撤退させた。
シリアをめぐっては、2011年3月、「アラブの春」の波が波及し、ヨルダン国境の街ダラアでの反体制デモの弾圧を契機にシリアの内戦が勃発した。その後、シリアは欧米によって経済制裁を科されるとともに、国内がいくつかの勢力による群雄割拠状態になるなか、国力が大いに疲弊していった。
三者の連携プレー現出 ガザとシリアで
さて、ここでシャーム解放機構がいたトルコ国境に接するイドリブ地方と、パレスチナ自治区ガザとの類似点を考えてみたい。
アサド政権を倒したシャーム解放機構は、斜線の部分を支配しているといわれる【㊦地図参照】。また、ユーフラテス川から東にかけての地域は、シリア民主軍といわれるクルド人勢力が支配している。さらにトルコ国境の二つの部分にわかれているベルト状の地域は、トルコが占領しているといってもよい。南のイラクとヨルダンに接する地域は、乾燥したほとんど人が住んでいない場所だが、ここには米軍が基地を置いて2000人の米兵が駐留している。そして、南西のゴラン高原はイスラエル軍が占領している。そのほかシリア国内には、IS=「イスラム国」が抑えている地域も何カ所かある。
ここに至るまでにも、めまぐるしい変化があった。シリアの内戦はさまざまな勢力がさまざまな外国の支援を得て軍事的に攻防をくり返し、そこで戦う兵士も国内で、あるいは外からリクルートされてきた。
そしてイドリブもガザも、シリア国内、あるいはパレスチナから押し出された人々がその地域に送り込まれた、あるいはみずから避難したということができる。
シリアのイドリブ地方は、かつて非常に豊かな農村地帯だった。穀物をはじめピスタチオやオリーブの生産が有名で、もともと200万人余りが住んでいた。内戦の中で、そこにシリア各地から、ほぼ同じぐらいの人口の避難民が押し寄せた。とりわけ2013~15年、政権側の反体制派に対する攻撃が苛烈を極めた時期、反体制派の支配地域から投降した人々がバスに乗せられて送られてきた。こうしてイドリブ地方の人口は倍増した。
イドリブはトルコ側に一部の人が出入りできるだけとなり、一方のガザは完全に封鎖された。シリアからヨーロッパ諸国、北米・南米などに難民となって出ていった人が約600万人おり、パレスチナ難民も今、世界に約740万人いるといわれる。
さて、一昨年からのシリアをめぐる軍事行動と、ガザや周辺国に対するイスラエルの軍事行動とがまるで連携しているかのように見えることに注目してほしい。
シリア・アサド政権は一昨年5月、アラブ連盟に復帰している。ここでアサド政権はアラブ諸国、とりわけ湾岸諸国に受け入れられたように見えた。ところが、英紙『ガーディアン』の昨年12月13日付を見ると、シャーム解放機構の軍事部門の長が「われわれはイドリブにおいて、民兵組織を統一した軍事組織にすることに1年ぐらいの時間をかけた」と証言している。その証言が正しいなら、ガザにおけるイスラエルによるジェノサイドが始まった頃から、イドリブ地方での準備が始まったといえる。
ただし、シャーム解放機構はイドリブで「民主的統治をしてきた」というような印象が持たれているが、実際にはそこで支配下にいる人々に対する投獄、拷問、恣意的な処刑がおこなわれていたと伝えられている。だから、毎週のように人々が通りに出てデモをおこなっていた。
そうしたなかで昨年6~7月頃、トルコのエルドアン大統領はシリア・アサド政権に対して和平のアプローチをおこなった。アサド側が寄ってくるなら、私たちも真剣に向き合う、と。
一方、昨年7月25日にはイスラエルのネタニヤフ首相が米議会で演説をおこなったが、それはイランに対する宣戦布告に等しいものだった。つまり、「自分たちはハマースやヒズブッラーと戦ってきたが、それはすべてイランを中心とした悪の枢軸にアメリカの身代わりになって戦っているのだ」と。ネタニヤフ首相はアメリカの要人と会談し、その後帰国してすぐにハマースの指導者ハニーヤ氏を暗殺した(7月31日)。続いてレバノンのヒズブッラーに対する攻撃を激化させ、ナスラッラー師を爆殺した(9月27日)。
昨年11月11~12日、シリアの内戦解決のためのアースターナ会議(ロシア、トルコ、イランが参加)がカザフスタンで開かれ、そこでロシアがトルコを「(シリアの)占領者」と強く非難した。その2週間後の11月27日、シャーム解放機構が中心となった反体制派の進撃が開始され、12月8日にアサド政権が終焉を迎えた。反体制派の進撃が開始された日が、イスラエルとヒズブッラー間の「停戦」が発表された日だった。
そしてアサド政権が崩壊した翌日から、今度はイスラエル軍によるシリア国内の全軍事施設に対する大規模な破壊攻撃が始まった。3日間、ほぼ24時間にわたって戦闘機の音と大爆発音が聞こえていたという。12月18日にはネタニヤフ首相がヘルモン山(ゴラン高原にある非武装緩衝地帯との境界にある)に登って、緩衝地帯の占領を表明した。
以上のことからわかることは、シャーム解放機構はトルコから資金や武器の支援を受け、兵士の訓練までやってもらったことだ。アメリカも情報面や兵士の訓練の面で、トルコと一緒になって支援していたことも明らかになっている。イスラエルとトルコがアメリカを中心にして結びついていたこと、三者の驚くべき連係プレーがおこなわれていたことがわかると思う。
新政権の振付師は誰か 敗戦後の日本と酷似
シリアの現状は、敗戦後の日本と似たような状態にあると思う。
まず、クルド人地域を別にして、シャーム解放機構をはじめとする反体制派が持っている武器は、地上で敵と撃ち合う武器しかない。戦闘機や戦車、地対空ミサイルなどはすべて失われた。今後シリアは、国土を守る軍備を備えるまでにどれだけの時間がかかるのか、またどれだけの費用が負担可能なのかはよくわからない。
またシリアは、領土が外国に占領される状態がいまだに続いている。
さらに、約600万人といわれる在外難民(うち半数がトルコ)の帰還の問題がある。600万人といえば、第二次大戦が終結して以降の日本人の復員・引き揚げの総数に匹敵する。メディアでは「戦争が終わり、喜び勇んで国に帰る人たち」という映像が流されているが、多くの人々は十数年の間にそれぞれの地に根を下ろし、生活基盤をつくっている。とくに若い人たちはそうだ。その人たちが今後、強制的に送還される恐れがある。
私はトルコでシリア人の学生たちと話す機会があったが、「自分たちはトルコ語を学び、トルコ人の学生たちと競争して大学に入り、勉強に励んできたのに、もしシリアに帰れといわれても帰れない。トルコで頑張ってやっていくし、そのうえでシリアが平和になればシリアの役に立ちたい」といっていた。そういう人たちがけっこういる。
さらに、現在アフマド・シャラアという名前に変わったシャーム解放機構のリーダー(ジャウラーニー)だが、彼はかつてアル=カーイダ系のヌスラ戦線というジハード主義の組織に所属しており、その組織を実質的に率いていた。欧米からは「テロリスト」として指名手配を受けていて、彼の首には多額の懸賞金もかかっていた。それを最近になってアメリカは「取り下げる」としたが、そういった人物が今、シリアの多様性――少数派や女性の権利を尊重する「自由の戦士」に変身している。ここでも、かつての日本の軍国主義者が民主主義者に変身したことを考えさせられる。
したがってアフマド・シャラア氏が、軍の統一組織を急速につくりあげ、みずからも数カ月前と比べて別人になっているということは、ある意味で振り付けがされていると考えるのが自然かと思う。それをよく演じているともいえよう。今彼は、市場経済を導入するといっている。また彼は、イスラエル軍がシリアの軍事力を徹底的に破壊している最中に、それについてなにもいわなかった。それよりもヒズブッラーやイランに対する敵対の言葉の方が聞かれる。
ヘルモン山登頂の後は イスラエルの動向
イスラエルは今、シリアに対してなんでもできる状況だ。やろうと思えば、ダマスカスを占領することもできる。ネタニヤフ首相は高揚感に浸っていると思うが、今後、イスラエル・アメリカとトルコの利害が衝突する日がいずれくるだろう。すでにイスラエル政府がゴラン高原への入植者を倍増させると発表したことに対して、トルコのフィダン外相がこれを非難している。
次に、クルド人武装勢力とその支配地域をどうするか。シャラア氏はクルド人勢力の武装解除を求めており、自分たちの傘下に入れといっている。クルド人勢力はアメリカの支援を受けており、イスラエルとも協力関係にある。彼らは、この地域でイスラームの教えに反するような、男女同権の社会をつくってきた自負もある。また、彼らの支配地域にある油田はアメリカが盗掘しているわけだが、それはアサド政権にとってはシリアの収入源の一つを奪われてきたことを意味する。新政権はこの油田の収入を取り戻すためにも、クルド人勢力と向き合わざるを得ない。
今後、トルコ軍の支援を得たシリアの武装組織がクルド人武装勢力と衝突する可能性も考えられる。そのさい、アメリカはどうするか。トランプ大統領はシリアから撤退するといっているが、どうなるか。
まとめていうと、内戦で十数年にわたって苦しめられてきた人々が、自分たちが抑圧の下にあったと感じてきた政権を追放し、新しい政体を持ち新しい社会をつくることは積極的に考えたい。アサド政権のおこなった人道的犯罪の処罰も、国民和解のためにも進めるべきだと思う。
ただし、今日話した国際政治からの視点が重要だ。これまでアサド政権は、イスラエルからの爆撃をいかに受けようともなんの反撃もしなかったが、イランからヒズブッラーに武器がわたる輸送経路を提供し、シリア国内にイランが軍事拠点をつくることを認めてきた。それが今回完全に潰れた。
イスラエルにとっては周辺からの軍事的脅威を感じることなく、これからもガザや西岸での虐殺や、ゴラン高原の占領地拡大に専念できることになった。パレスチナ人はともにたたかう勢力を失った。
他方で、アメリカとイスラエルは国際的孤立を、とくに国連の場で、かつてなく深めている。今後の中東、とくにパレスチナとその周辺について、こういった今までとはガラッと変わった環境のなかで考えていかねばならないという歴史的瞬間に立ち至っている。
「独裁vs.民主主義」の誤り 質疑応答から
Q シリアの新しい政治体制はどのようなものになっていくと思うか?民主主義がシリアに定着する可能性は?
A 暫定政権のもとで選挙がきちんとおこなわれるかどうか、クルド人地域統合をどうするのかという問題は、まだよくわからない。ただ大半のシリア人は、イスラームの信仰は大事にするが、ジハード主義的なものとはおよそ縁のない人々だ。反政府勢力の民兵にしても、ジハード主義に心酔して戦闘をやっていたという人は非常に少なくて、大半は仕事がないために金がもらえるところに行く、または自分たちの地域にやってきた勢力に仕方なく従うというものだった。
シリアの国民の教育水準は高い。内戦による疲弊から国を再建する困難は大きいが、政治が民主主義的なものでなく、ジハード主義的なものになっていくとは考えにくい。だからシャラア氏も変身をして、なんとか彼自身の権力を守ろうとしている。かつてヌスラ戦線が支配下の人々におこなっていた狂信的な統治を復活させたいと考えている幹部はいるかもしれないが、実際にはシリアのあの人口を前にそれを強行しようとすると強い反発にあうと思う。
Q なぜ、アサド政権はあんなにあっけなく崩壊したのか?
A よくいわれるのは、ヒズブッラーがイスラエルによって軍事的に弱体化させられ、イランも下手に動くとイスラエルに口実を与えてしまうから動けず、ロシアはウクライナ戦争で手が一杯だった、だからあっけなく崩壊したんだ、と。しかしそれだけでは説明がつかない。
一番大きいのは、欧米諸国によるシリアに対する経済制裁が苛烈だったことと、貴重な収入源だった石油がアメリカに奪われて使えなかったことで、既に国としてはガタガタだった。軍人の給与があまりにも低く、軍隊の人的な弱体化もあっただろう。よく聞くのは「(シリアの軍隊が)戦わずに最初から退却していった」という話だ。各地の司令官レベルでやめようとなっていった。
Q シリアで半世紀以上も独裁政権が続いたのはなぜか?
A アサド独裁政権というが、とくに2000年代以降は「恐怖政治」といえるほどでもなかった。「独裁」といっても、サダム・フセインのイラクよりはるかにソフトな体制だった。内戦が始まってからは、それは変化したと思う。
父アサドは軍人であり、アラウィー派という少数宗派の出身だった。シリアは1920年代からおよそ四半世紀間、フランスによる委任統治下におかれており、フランスが植民地支配をおこなう過程で軍・警察・治安組織にアラウィー派を中心に起用したという歴史がある。
それが独立後も引き継がれ、何度かのクーデターを経て、そこに大衆運動的なイデオロギーとしてのバアス党の「反帝国主義、反シオニズムにもとづくアラブ統一国家の樹立」という目標を掲げた下からの民衆運動が起こり、その結果として、その上に乗っかった形で軍トップの父アサドが権力を握った。そこにはシリア人のなかに、イスラエルという拡張主義的な国と国境を接しており、イスラエルに対抗するためには多少の不自由も我慢しなければならないという考え方もあったと思う。それが政権を支えていた。
最後に、「多面性、多層性、多様性、逆説性の向こうになにを見るか」という言葉を示したい。シリアの内戦の構造を把握するためには、いろんな要素がからんでいて、それが連動している複雑さを見なければならない。しかも時間的に異なるスパンの動きのなかでそれが動いている。そこに多様な考えを持つ人たちがいる。それを「独裁か民主主義か」「白か黒か」とあまりにも単純に切ってしまうと、問題の所在がわからなくなると思う。