連載開始によせて (9月20日付)
100年後に残すべきものを考えてみよう。私も、あなたも、仕事の成果も世界から消えて、その痕跡すらなくなるだろう。しかし、私たちの子孫や文化は、たとえ形を変えたとしても、いつまでも残るだろう。自分の亡き後にある社会のために、人生の時間を使いたい。そんなことを思うようになった。
教育を通じて伝えていくべきものは、そうした時間の試練に耐えうる価値のなかにある。そう考えると、子どもを育てるという行為は、大人たちが「本当に価値のあるものは何か」という哲学的な問いに向き合うための入り口であるといえる。それを私たち大人が吟味することなく、資本が要求する標準的技能の習得を子どもたちに押し付けている限り、この問題に満ちた現代社会からも、同じ過ちをくり返してきた人類の歴史からも抜け出すことはできない。逆にいえば、もし私たちが脱資本主義的な視点で人生や教育について見直すことができたなら、未来の社会は想像できないほどに豊かなものになっている可能性がある。
その希望を一人でも多くの人と共有したい。それが『脱資本主義の教育論』という文章を書こうと思ったキッカケだ。社会主義運動も知らない世代の私が、資本主義の常識から離れて物事を分別できるようになるまでには随分と遠回りをする必要があった。
まずは連載初回の本稿にて、その経緯を自己紹介がてら話しておこうと思う。
会社からの逃避
20代の頃、私は東京にある広告代理店で命を削るような猛烈な働き方をしていた。独身だった当時は、長時間労働も厭わず、会社の売上に貢献することだけに価値を見出していた。上司の覚えはよかったが、同僚たちからは「お前にはついていけない」と見放された。それでも「仕事が遅い人たちが悪い」と開き直れるほどに、会社は利益をもたらす私を誉めそやした。資本主義社会は自己を犠牲にして資本に尽くす人間を優遇するということを、身をもって学んだ。
一方で、私は自分が不毛な仕事に従事していることを潜在的に理解していた。だからこそ、意固地になって働き、承認を欲していたように思う。ある時、屋上で煙草を吸う先輩のデザイナーに「僕らの仕事は誰かのためになっているんですかね」と聞いた。深い溜息に煙を乗せながらも、先輩は答えてくれた。「そんなことは分からん。ただ立場がそうさせるだけだろ。だから、一緒に仕事をする人の気持ちを大切にすることぐらいしか、俺にはできない」と。私は自分の立場にも納得できなくなっていたし、人の気持ちも大切にできなくなっていた。その半年後、会社を辞めてアメリカに留学した。それは単なる現実逃避だったが、結果は悪くなかった。
仕事を放り出して日本から離れてみると、会社での実績も履歴書に記す資格も自分にとっては無意味だったと素直に認められた。もはや東京に未練はなかった。
現在からの解放
その後、2018年に地元にUターンして学習塾を創業。結婚して2人の子どもにも恵まれた。自分が子育てをするようになって初めて、先祖の家系図を思い描いては(一般庶民のわが家には家系図がない)、自分が今を生きていること自体の価値の重さを知った。そして、私自身が次の世代への結節点となれたことに喜びを感じた。消費することではけっして得られなかった感動があった。こうして、「現在の自分」という限られた時間の物差しを手放し、「歴史のなかの自分」という視座で物事を考えられるようになった。
それにしても、何故こんなあたりまえのことに思い至らなかったのだろうか。年収で自分の価値を測り、消費で自分を表現するようなことばかりしていたのだろうか。
資本主義からの解脱
その答えはカール・マルクスの『資本論』に書かれてあった。資本は自己増殖を目的として、すべての人や物を手段として巻き込んでいく。この「資本の包摂」と呼ばれる現象は人間の精神にも及ぶ。私は知らぬ間に資本の価値基準を内面化していたのだ。それを意識できるようになってからは、資本の論理を排して価値判断ができるようになった(気がする)。
そして、『資本論』の知見は教育の分析にも応用可能であると考えた。例えば、効率化や英語必修化、GIGAスクール構想などは、「資本の包摂」の延長として捉えることができる。その目的や出自をたどれば分かるが、それらは人間の可能性を引き出すためのものではなく、まして市民社会を成熟させるためのものでもない。これから始まる『脱資本主義の教育論』の連載では、資本主義社会において教育の役割が非政治的・脱共同体的・反知性的な労働者を育成することに変質したことを示し、この社会の仕組みに適度に順応しながらも、そこから自立するための教育論を展開する。
資本主義社会の基本原理は商品交換であるが、人間社会は決してそうではなかった。私たちは与え合って生きてきた。教育とは過去から未来への贈与であり、その営みは現在を生きる私たちの暮らしのなかにある。そこに希望がある。きっと読めば分かる。そんな連載になることを信じてやまない。
1.失われた人生の言葉、跋扈する資本の言葉 (9月27日付)
個々の人間の経験と省察から生まれる「人生の言葉」が失われている。その一方で、経済的価値を生むことだけを目的とした「資本の言葉」が溢れている。この状況は子どもたちにどのような影響を与えているだろうか。
ある小学校の全校朝礼で実際にあった出来事を紹介しよう。ある先生がスピーチのなかで「タイム・イズ・マネー」といい放った。その台詞を聞いて小学4年生の女の子は思わず声をあげて笑った。周囲にも笑いは伝染して、先生のスピーチは気の抜けたものになってしまった。その後、体育館の裏手に呼び出され酷く叱られた女の子は、泣きながら教室に戻って来たそうだ。
この女の子は何に対して笑ったのだろうか。先生の英語の発音があまりに酷かったのかもしれない。あるいは、いつもは友情や絆といったキレイゴトを語る先生の本音が漏れたことに面白さを感じたのかもしれない。あるいは、時間の大切さを伝えようと思っているにもかかわらず、それをお金に換算して伝えるしか術を持たない大人を嘲ったのかもしれない。
いずれにせよ、先生のスピーチに対して何らかの反応を示すということは、その話を受けとる生徒の権利として認められるべきだろう。たとえ、それが失礼な振る舞いであったとしても、そうさせてしまう要因がその話にはあったのだ。
この女の子は先生が「時間はお金だ」と本気で思っていないことを見抜いたのだろう。本気の言葉は心に刺さる。そうでない言葉は上滑りする。「タイム・イズ・マネー」は先生の言葉ではなく、資本主義からの借り物の言葉にすぎない。このスピーチは笑ってもよい程度の本気度でしか語られていないことを女の子は感覚的に理解したのだ。
「資本の言葉」は効率性と生産性を向上させて、経済的価値を生むためだけにある。それは合理的であるがゆえに画一的で、打算的であるがゆえに退屈なのだ。「国際化の時代だから英語を学びましょう」「効率的な方法を身に付けよう」といった昨今の教育者や親の言説は、教育ビジネスのキャッチコピーあるいは職場の煙たい上司の発する指示とまるで違いがない。それらは誰でも言いそうな匿名の冷たい言葉なのだ。こうした言葉を子どもたちはしばしば拒絶する。
それに対して、子どもたちが欲しているのは「人生の言葉」だ。大人たちが生きてきたなかで、強く心を動かされたことを伝えるだけでいい。それは個人的であるがゆえに多様であり、経験的であるがゆえに心に響く。ありふれた出来事だっていい。ある場所で、ある時間に、相手から自分へ伝えられる特別な言葉。そうした言葉の贈り物であれば、子どもたちは本気で受け止めてくれる。
「資本の言葉」は魂を支配するためにあり、「人生の言葉」は魂を豊かにするものである。子どもたちにはその違いが分かる。だからこそ、資本主義が人間の魂までも包摂しつつある現代において、教育の第一歩は私たち大人が「人生の言葉」をとり戻すことから始まる。
2.「一人で生きていけるように」ならなくてもいい (10月4日付)
共同体のなかで固有の役割を果たせるように成長することを「自立」と定義すれば、市場経済のなかで労働と消費に専念するようになることは「孤立」と呼ぶべきだろう。この対極にある二つの概念は混同され、本来は「孤立」であったものが、今では「自立」としてまかり通っている。
中学1年生の男の子がコンパスを家に忘れてきたことに気づき、授業が始まる前に隣のクラスの友人から借りることにした。コンパスを借りて教室に戻ったところを数学の先生に見つかり叱責を受けた。
それで話は終わらなかった。こともあろうに、先生はコンパスを貸した生徒まで呼び出して説教した。「情けは人の為ならず。忘れ物をした友人を助けてしまうと、彼をもっと堕落させてしまう」ということを伝えたそうだ。ことわざの見事な曲解には失笑するしかないが、人に頼ることも、人を助けることさえも許さない「孤立」の論理はいつから正当性を持つようになったのだろう。「一人でも生きていけるように」と子どもに願うようになったのは何故なのだろう。
その答えは資本主義の成立時点に遡ることで見えてくる。資本主義以前の社会では、農業で自給している人や封建制で身分が固定されている人だけしかおらず、誰も雇用されることはなかった。やがて、生産手段を持たず、身分的制約から解放された二重の意味で「自由な労働者」があらわれたことで資本主義は始まった。ここでの要点は、自由な労働者がなければ資本主義社会は成立しないということだ。
そして今、少子高齢化で労働者が減少する日本において、労働者一人一人の労働時間を増やして労働力を確保することで資本は生き残ろうとしている。働く人が地域や家族などの共同体を放棄して自由になれば、本来は育児・介護・ボランティア活動に使われていたはずの時間を労働に割くようになる。新しい市場も生まれ、資本にとっては一石二鳥だ。
幼児教育・保育無償化、育児休業給付金、介護保険等は一見すると優しい制度に見えるが、それとは裏腹に制度に依存を促し、人々を孤立させるという側面がある。つまり、自由と孤立は表裏一体なのだ。
それにしても人間の価値判断は脆いもので、どんなに家族が大切でも、生存・生活の基盤が市場となってしまった現状では、共同体を犠牲にせざるを得ない。就職のために故郷を離れたり、仕事のために家族と過ごす時間を削ったり――こうした葛藤すなわち認知的不協和を解消してくれるのが「孤立」という名の宗教なのだ。それは経済的自立こそが唯一の救済であるとする教義を持つ。かつて祈る者が救われたように、今では稼ぐ者が救われるという教えだ。それは稼ぐ以外の人間的行為を無価値なものであると誤認させる。そして、私たちの多くは共同体を放棄して「孤立」してきた。その結果は、資本への全面的依存だった。
それでは、どのようにして私たちは正しい方法で「自立」できるのだろう。とある身近な人物が幼い頃に母親から言い聞かされたという言葉に答えの一つはあった。
「困ったときに、おにぎりを恵んでもらえるような人間になりなさい」――誰かに頼ることのできる人間は、誰かに手を差し伸べる人間にもなれる。経済的自立だけを目指して「孤立」するのではなく、弱さを抱えたまま「自立」する生き方を教えられるのは、もはや家族だけかもしれない。
3.誰が子どもを育てるのか (10月11日付)
とあるコワーキングスペースで地域社会の雑多な課題について世間話をしていたところ、居合わせた人が「結局は教育が悪いんですよ」としたり顔でいい放った。誰もが「確かに…」と口をつぐむ。しかし、この手の教育原因論には二つの点で致命的な欠陥がある。何となく正しいことをいえているようで、何も具体的なことをいえていない。
ひとつめは公教育の本質に対する無理解である。そもそも公教育は一人一人のためにあるのではない。それは国民国家の成立と同時に、官僚機構・常備軍を組織する必要から制度化された。したがって、国家主義の立場から愛国教育が足りないなどと批判をすることは可能でも、個人の立場からの批判は原理的には過剰期待による言い掛かりとなる。一昔前は竹槍で人の殺し方を教えていたのが教育であり、それに比べれば現状は随分とマシだろう。つまり、学校で子どもたちが伸び伸びと過ごすのを期待するのは勝手だが、これまでも、これからも、学校はそういう目的の場所にはなれないのだ。(もちろん、学校にも素晴らしい先生たちがいて奮闘していることはいい添えておきたい。)
もうひとつの欠陥は、教育の範囲を学校だけに限定している点だ。教育は学校で完結しない。むしろ家庭や地域の文化の方が個人に与える影響が大きい。未就学者の語彙力が、その後の学力と強い相関があるのもその証左だ。そうした点を棚上げして、学校教育に責任転嫁すること自体が解決の方法を狭めてしまう。思考停止の教育批判から抜け出すためには、広義の教育を私たちの手にとり戻す必要がある。
伝統芸能の世界あるいは同族経営の老舗においては、門外不出の技術や一子相伝の知恵が代々受け継がれている。だから、陶芸家が「美術の授業が少なすぎる」と文部科学省に訴えることもないし、和菓子職人が「ケーキではなく和菓子を作れ」と家庭科の授業に口出しすることもない。彼らは学校に依存することなく、家族という共同体のなかで独自の文化を継承している。
これは特別な家系に限ったことではない。本当に子どもに伝えたいと願うことは、自分たちで伝えていくしかないのだ。味噌の作り方から、対人関係における礼節、自然への感謝、地域の伝統、人間の尊厳、人生の価値判断に至るまで――これらは家庭や地域で、世代をこえて、暮らしのなかで受け継がれる文化である。
しかし、このような「共同体の教育」は崩壊の危機にある。近年、「国家による国民教育」は「資本による労働者教育」へと変質した。英語教育、キャリア教育、産学連携はこの一環にある。国民的道徳が必要といわれても聞き流していた多くの人も、グローバリゼーションや情報化社会に備えろという資本の口車に乗せられて早期英語教育・早期受験対策に必死だ。大きな流れに身を任せるのは危険だ。国家の教育が戦争に行き着いたように、資本の教育は更なる搾取に結びつくだろう。だからこそ、継承すべき文化を再発見して、共同体のなかでの経験をとり戻さなければならない。
わが家には親の代から使っている広辞苑がある。随所に引かれた青い線は、知への尊敬を感じさせる。また、書斎に並ぶ未読の本たちは、いつも私に無知を悟らせてきた。私は学校ではなく親に育てられた。だから、私もそういう親になるつもりだ。そして、子どもの成長を見守る地域の一員でありたいと思う。
4.大切なことは子どもが教えてくれる (10月18日付)
最初の話は早期教育について。友人から、彼女の知人が2歳の子どもに早期教育教材のフラッシュカードを活用している様子を動画で見せてもらった。親から「右」のカードを見せられたら子どもは「左」と答える。「上」のカードを見せられたら「下」と答える。成功するたびに狂喜する両親の声が背後から聞こえてくる。肝心の子どもは全然集中している様子もなく、ときどきカードの方を見ては期待されている答えを返している。こんな意味の分からないことをさせて喜ぶ親の様子を見て、子どもは一体どんな風に感じているのだろう。他人の育児に口を挟むべきではないと思いつつも、こんな教材を販売している会社の文句ならいっても許されると考えて筆を執った。
子どもは遊びを通じて成長するが、集中と感情は重要な要素である。そもそも早期教材の多くは、親の介入を必要とするため、子どもだけで没頭できるものではない。そして、画一的な学習教材では子どもの感情を十分に引き出せない。絵本や積み木にしておけばよいものを…「黒」を「白」と答える能力なんてげすな政治家にしか必要ないだろう。どうして、こんな無駄なものを生み出しているのか理解に苦しむ。
次は散歩の話。二歳になる娘と家のまわりを散歩していると、「あれは何?」と聞かれることがある。それに対して「花だよ」「蝶だよ」としか答えられないのは申し訳なく思うようになり、身のまわりの自然について一緒に図鑑で調べるようになった。娘は次々と草花や虫や鳥の名前を憶えていった。ヒメツルソバ、マツバウンラン、ニワゼキショウ、ハクセキレイ、ベニシジミ、モンキチョウ…美しいものの名前を覚えるごとに、注視する集中力も、自然への愛着も増していく。
最後に言葉の話。道端で拾ったクワガタを娘が通う幼稚園に持って行った。二歳児クラスの子どもたちは興味津々で集まって来る。まだ、あまり言葉を話せない男の子も私の口の動きを真似して「く・わ・が・た」と一生懸命にいおうとしている。生きているクワガタを見て、この名前を呼びたいと強く思ったのだろう。映像や図鑑やフラッシュカードでは足りない――美しい自然こそが感情を引き出す。
レイチェル・カーソンは自然に触れて感動する感性を「センス・オブ・ワンダー」と呼んだ。資本主義社会のなかにあって、お金以外の価値を知り、資本の包摂を逃れる術はこんな身近なところにもある。また、認知科学の「記号接地」という概念を知って、実体験が思考力の向上に不可欠であることが分かった。記号接地とは、「ある言葉に対応する現実の情報に身体的感覚を持つこと」で、それによって人は真に意味を理解するに至るという。つまり、身体的な体験なくして、理解なしということだ。身体的感覚を持たないチャットGPTなどのAIは、永遠に記号接地することのない無意味の海の中にいる。私たちもデジタルメディアの海に子どもを放り投げて、情報に溺れさせていないだろうか。現実を生きる子どもたちには、できる限り現実の手触りを届けてあげたいと思う。それが世界を知るということであり、生きるということだ。
子育てをしていると大切なものが見えてくる。小澤征爾は大江健三郎との対談のなかで「親が子どもに感謝しなきゃいけない。子どもがいるおかげで、親が人間並みの考え方になったりするでしょう」と語った。子育ては親育ちというのは本当だと分かった。ありがとう、娘。
5.無思考階級からの脱出 (10月25日付)
営利目的の企業やメディアの情報を無思考・無批判に受け入れ、むしろ企業のマーケティング戦略に従って消費することこそ合理的であると思い込んでいるような人間の集合を「無思考階級」と呼ぶことにする。
「無思考階級」の発生メカニズムを幼児英会話教材の例で紹介しよう。教育ビジネスには定番の三段論法がある。まずは「これからは英語の時代です」といった適当な予言をする。次に、「あなたは英語を教えられない」と親の無力を告げる。最後に、「早めに対策すれば大丈夫だ」と手を差し伸べる。こうしたメッセージを浴び続けるうちに、いつの間にか多くの人が不安と無力感に支配され幼児英会話・早期教育教材などに依存するようになる。そして、親は「グローバリゼーションに備えて子どもに英語を学ばせている私は凄い」と企業の理屈を無邪気にも内面化してしまうのだ。
冷静に考えれば分かることだが、多くの日本人にとって英語は不要だ。それに、第二言語の習得は母国語の文法習得が済んでからでも遅くはない。それどころか、二つの言語を幼少期から同時並行して学ぶことで、思考に必要な内的言語(母語)の成長が遅れる可能性が高い。しかし、資本からの情報に晒され続けると、そんな当たり前のことすらも考えられなくなるようだ。消費者として適切な教育商品・サービスを購入することこそが育児であると妄信する。そして、その教育費を捻出するために、限りある時間を労働に割いて家庭を犠牲にするという倒錯が生じる。
カンザス大学のベティ・ハートとトッド・リズリーの「3000万語の格差」という有名な研究がある。4歳になるまでに親子の間で交わされる言葉の数には、親が知的職業についている中流家庭とそうでない貧困層の家庭とで3200万語もの差があるという。違うのは会話の量だけではない。前者の家庭の子どもは肯定的な言葉をより多く聞く一方、後者の家庭の子どもは禁止の言葉をより多く聞かされる。こうした家庭内の言語環境の違いは、学習効果の違いに直結する。つまり、親子間で交わされる言語が豊かだと、学業成績もよくなるのだ。
また、新井紀子氏は『AIvs.教科書が読めない子どもたち』において、中高生の多くが教科書の記述を正しく読みとることができていないことを指摘した。基礎的な読解力によって学力格差は生じているのだ。したがって、家庭のなかで語彙力と読解力を身に付けるだけで、学力競争において優位に立つことは十分に可能だといえる。何よりも、教科書を読んで理解できるようになれば教育ビジネス資本に依存する必要はなくなる。
このように、大人が意図して家庭での会話を楽しみ、親子で本を読むことを習慣にすれば、「無思考階級」から脱出することができる。豊かな時間を過ごす家庭が増えることで、低次元なメッセージを量産する資本への依存度を社会全体で下げることができる。「これからは会話と読書の時代です。それは誰にだってできるし、いつからだって遅くはないのです」
(本紙にて週1回掲載)
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おかずみ・たけろう 個別指導塾フェイブスクール代表。下関市出身。36歳。慶應義塾大学法学部政治学科卒。住宅会社、広告代理店での勤務を経て、2017年にカリフォルニア大学へ留学。そこで資本主義の最先端に見切りをつけてUターン起業。『学び続ける文化を創る』を理念に、個別指導と教養講座を組み合わせた学習塾で自ら指導に当たる。教育関連の講演や地域交流のイベントも企画。