(10月28日付掲載)
戦時中の1942年2月3日に起きた水没事故で、朝鮮半島出身者136人を含む183人の労働者が犠牲となった宇部市床波の海底炭鉱「長生炭鉱」――。事故直後に坑口が封鎖されたため犠牲者は82年間、冷たい海の底に残されたままだった。犠牲者の遺骨返還をめざす「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(共同代表/井上洋子、佐々木明美)は、9月末に陸側の坑道入り口(坑口)を開け、10月26日、坑口前に犠牲者遺族を招いて「坑口あけたぞ! 82年の闇に光を入れる集会」を開催した。
集会には韓国、日本、在日朝鮮人の遺族が18人参列したほか、韓国からの訪問団(35人)や山口県内外から合わせて250人が参加した。遺族らは長年暗闇に閉じ込められてきた肉親に思いをはせ、坑口の前で慰霊の儀式をおこなった。戦前の日本政府の朝鮮植民地支配の歴史に向き合い、遺骨発掘と返還にむけて着実に歩みを進める長生炭鉱をめぐる市民の運動は全国で注目されており、「政治の壁をぶち破り、歴史の闇をぶち破った」とその意義が語られ、必ず遺族のもとに遺骨を返還するという決意を新たにする場となった。10月29、30日には坑口と排気筒(ピーヤ)からの潜水調査がおこなわれる予定だ。
集会に先立ち、刻む会共同代表の井上洋子氏は「あの坑道の水の向こうに助けを待っている犠牲者たちが必ずいる。ご遺族と心をひとつにして共に祈りを捧げよう」と呼びかけた。
参加者は遺族が坑口前で膝をついて深く頭をついて厳かにおこなう追悼式(チェサ)を見守った。
犠牲者の全聖道(チョン・ソンド)氏の息子・全錫虎(チョン・ソッコ)氏(92歳)は、この日の集会に韓国から訪れ、家族とともに開かれた坑口に初めて向き合った。「お父さん、私が来ましたよ」と坑口に向かって韓国語で叫び、涙をぬぐった。事故当時のことを知る数少ない遺族の一人だ。宇部市内に住んでいた小学5年のときに学校で炭鉱で事故が起きたことを知らされ、封鎖された坑口前で毎日泣いていたという。チェサの後、父母の遺影を胸に掲げて「(坑口を前にして)心が痛かった。お父さんが若いときに亡くなったので、とても悲しかった」と話した。
東京から参列した在日朝鮮人の遺族は、82年前に祖父とその兄が朝鮮半島から強制連行され、長生炭鉱で働かされて水没事故で亡くなった。在日2世として日本で生きていくうえで、祖父のことを表立って語ることはなかったが「坑口が見つかった」という知らせを受けて、東京から娘とともに参列した。「事故の数日前からネズミがいなくなり異変を感じたため“炭鉱に行きたくない”といったが無理矢理行かされて亡くなったと聞いている。私には坑口の水が犠牲者の涙に見える」と語った。
日本人犠牲者の遺族で、父親を事故で亡くした常西勝彦氏(82歳)は、父親の遺影を持って参列し、坑口の前で手を合わせた。常西氏は、事故の4日後に生まれた。会ったこともない父親が長生炭鉱の事故の犠牲者であることをはっきりと知ったのは3年前。集会には愛知県から参加した。「会ったことも、抱いてもらったこともない父親だが、今日ここに来て親父に本当に会えるのかなという気持ちになった。遺骨発掘に期待する。坑口の水を少しすくいたい、初めて父に触れられるから」と感慨深げに語っていた。
祭壇前では韓国、在日、日本人遺族らが互いに握手を交わし抱き合った。
遺族による弔辞【全文別掲㊦】の後、韓国遺族会の楊玄(ヤン・ヒョン)会長は、「82年という長い間、冷たい海の底で故郷の山河、家族に思いを馳せながら、炭鉱主の生産量の増加に過酷な肉体的強制労働を強いられ、無念にも犠牲となられた犠牲者がゆえにさらに心が痛む。監禁生活と監督たちによる監視により、人間ではない消耗品扱いを受けてまでも、一日一日を恨みと苦痛の地獄の中で長い月日を過ごされたかと思うと、この悲痛の思いをどう表したらよいかわからない。しかし、これからは坑口が開いたのだから、すべての事を忘れ、外へ出られますように。私たちがお迎えに参ります」とのべ、「日本政府は、机上の空論のような口先だけの“人道主義、現実主義”に執着することなく、遺族たちの切なる願いである、遺骸を発掘し故郷へ奉還できるよう導いてほしい」と訴えた。
また追悼の儀式のあと「この問題に国も宗教も、イデオロギーも関係ない。人間の尊厳を守るためのものだから力を合わせるべきだ。遺骨は必ず坑道にあることを確信している。ぜひ遺族のもとに還していただきたいと思う。遺骨返還の成功によって、将来の日韓関係がもっとよくなることを確信している」と語った。
韓国の朱豪英(チュ・ホヨン)国会副議長の「追悼の辞」が代読された。朱氏は、「彼ら(長生炭鉱水没事故犠牲者)の恨みと悲しみを胸に刻み、真実を明らかにすることは、生き残った者たちと私たちがやらなければならない役目だ。あの坑道の中で眠っておられる犠牲者たちの遺骨収集をすることで犠牲者の尊厳を回復させられる。皆様の絶え間ない努力により、82年間、暗闇の中に埋まっていた坑口がついに探し出された。犠牲者たちの遺骨が家族の元へ帰れる糸口が見え始めた。堅く閉ざされた門を開き、犠牲者たちの遺骨が愛する家族の元へ帰れるようにしなければなりません」とのべ、事業をともに進めることを約束した。
追悼式後には、韓国からの訪問団が慰霊の儀式や舞を披露した。韓国の女性は「(長生炭鉱問題は)韓国ではあまり報道されておらず、市民団体の活動で長生炭鉱のことを知り、歴史に関心があったので参加した。遺骨を発掘し返還することは、未来と平和のためにとても大事なことだと思う。二度と戦争はしてほしくないから」と語っていた。
歴史に向き合い礼尽くす 日韓市民の絆深め
集会後半では、刻む会事務局がこれまでの経過と今後の予定を報告。7月15日から始まったクラウドファンディングは、多くの市民の力によって目標の800万円を大きくこえて1200万円に到達したこと、30日には坑口からの潜水調査に入ることを報告した。
上田慶司事務局長は、「私たちは、坑道に一片でも骨があれば持ち帰ってくる。それを皆さんにお見せして“見える遺骨”にすることで国の事業として遺骨収集をするように動かしていく。そのために潜水調査は安全に注意してやりきって成功させたい」と強い決意を表明した。
そして、この事業が「人として当たり前のこと」という市民の良心、掘削工事をおこなった建設業者、プロのダイバーなどの協力のもとに進んでいることも紹介した。
掘削工事をおこなった建設会社社長の遠藤壽美夫氏は、人の骨が埋まっているという事実を知り協力しようと思ったといい、「半信半疑だったので坑口が出てきたときはホッとした。砂漠で10円玉を探すようなものだったが、符が良かった。みなさんの熱意の力だ」と刻む会をはじめ関係者の行動を讃えていた。
全国で歴史否定の動きが跋扈(ばっこ)するなかで、朝鮮半島の植民地支配の歴史と向き合い、一人一人の市民の地道な活動によって確実に前進する長生炭鉱の運動は注目されており、集会には各地で遺骨収集や歴史否定の問題にとりくむ市民やジャーナリストも駆けつけマイクを握った。
沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松氏は「長生炭鉱の遺骨の収集・返還は日本政府に責任がある。戦時下における石炭増産のために起きた事故で、この海の底に閉じ込められていることははっきりしている。犠牲者の遺骨、死者に近づこうとする行為そのものが犠牲になった人への慰霊になると信じている」とのべた。刻む会は坑道で遺骨が見つかりしだい、具志堅氏の力も借りてDNA鑑定などをおこなう予定だという。
ジャーナリストの安田浩一氏は、「開いたのは坑口だけだろうか。政治の壁をぶち破り、歴史の闇をぶち破った市民のみなさんのたたかいの成果だと思う」とのべた。
ヘイトスピーチや歴史否定の問題にとりくむ弁護士・師岡康子氏は、「長生炭鉱の坑口が開いたという市民の力は、全国で差別とたたかい、植民地主義とたたかう人たちを励ますと思う」と語った。
ジャーナリストの布施祐仁氏は、1945年8月24日、青森の炭鉱に強制連行された朝鮮人を乗せて舞鶴から出航した旧日本海軍の輸送船「浮島丸」が沈没し、500人以上の徴用工が亡くなった事件の掘り起こしに関わっていることに言及。「政府は、これまで犠牲者とその遺族に対する謝罪・賠償はおろか、事件の真相すら明らかにしていない。長生炭鉱での事件が浮島丸の事件と重なって見えた。遺骨を遺族のもとにお返しすることは当たり前のことだ」と語り、ともに連帯して進むことを表明した。
東京から参加した小林喜平氏は、「浮島丸事件」の犠牲者、戦争で亡くなった朝鮮人軍人・軍属の遺骨700体が安置されている祐天寺(東京都目黒区)で、1989年から36年間、追悼会を続けてきた。「祐天寺に安置された遺骨を一日でも早く遺族のもとに返還する」と思いを語った。
長生炭鉱のフィールドワークなどをおこなう東京在住の在日三世の男性は、「今日は新しい歴史を開いたと思う。加害の歴史と向き合って、その歴史を消そうとする者に対してわれわれの良心は向き合うことによって切り拓かれたと思う。関東の朝鮮人虐殺問題も70年代から日本人の方々が調べてこなかったら当局の思い通りに(歴史は)消されていたと思う。新しい歴史が始まった。その一歩にわれわれがいることは誇らしい。一つ一つの地域の問題を解決していくことが、日本の良心、市民社会を動かしていくことだと思う」と感動の面持ちで語った。
日韓両国の市民が力を合わせることによって国を動かし、それが両国の友好と平和な未来をつくっていく力になっていくという希望にあふれた集会となった。
集会後、参加者らは高台から坑口やピーヤを見学した。横2㍍20㌢、高さ1㍍60㌢というあまりにも狭く粗末な坑口を目の当たりにし、劣悪な環境下で労働を強いられた犠牲者に思いをはせた。
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■弔辞
犠牲者 白漢欽(ペク・ハンフム)の孫
姜日浩(カンイルホ)
長い歳月の間、暗くて冷たい海水の中で
どれほど怖かったでしょうか。
どれほど恋しかったことでしょうか。
どれほど無念の思いでつらかったでしょうか。
何も罪もなく、この遠い海の地下坑道に連れてこられ
人間以下の扱いを受けながら
帰らぬ人となってしまわれました。
これからは一筋の光が見え始めました。
これまでの80数年の間、
どれほどの恋しさと恨を胸に抱き
この坑道から逃れることができず
憤慨と絶望感で身を震えさせ
目を閉じることもできず
一つの魂となって
風のように飛び回っておれるかもしれない。
肉親は朽ち果てて骨になっていたとしても
必ず探し出し故郷へ
一度も会えず、名前さえも付けることが出来なかった
たった一人の娘
一生を恋しさと会いたさで過ごし
この坑道のどこかにいる父親に
深く思いを馳せながら
この付近を幾度もさまよい
結局は坑口の中も見ることもなく
星になって愛する父親の元へ
逝ってしまわれました。
遺骨を探し出し
父と娘の恨みだけも解かれるように
合葬でも出来るように
期待と願いを込め
孫がここでペク・ハンフムお祖父さんを呼び叫びます。
もう少しだけお待ち下さい
故郷へ、両親の元へ、
愛する娘のそばに行くことのできる日を待ち望みながら。
2024年10月26日