(9月18日付掲載)
本紙8月28日号の寄稿文「教育は国家百年の大計~数字・数学を用いた考え方を大切にしよう」に関して、体験も交えたより掘り下げた原稿を期待する声があることを知り、本稿を書かせていただくことになった。なお、その記事で紹介させていただいた近著『昔は解けたのに・・・大人のための算数力講義』(講談社+α新書)は、いくつもの点で本原稿の参考にしている。
「数」というものの起源を考えると、紀元前1万5000年~紀元前1万年頃の旧石器時代の近東には、動物の骨に何本かの線を切り込んだ「タリー」と呼ばれるものがあった。それらの切り込みは、1日1日の太陰暦を1つ1つの切り込みにしていたという説がある。また、紀元前8000年頃から始まる新石器時代の近東では、円錐形、球形、円盤形、円筒形などの形をした小さな粘土製品の「トークン」というものがあった。そして、1壺の油は卵型トークン1個で、2壺の油は卵型トークン2個で、3壺の油は卵型トークン3個でというように、「1対1の対応」(1つ1つに対応させる関係)に基づいて使われていた。
数の概念が個々の物品の概念から独立したのはその後であり、人類は長い年月をかけて正確に表現する「整数」を生み出したのである。注意すべきことは、「個々の物品の概念から独立」という点である。3人の「3」も、3匹の「3」も、3mの「3」も、抽象化すると同じ「3」になることである。筆者は犬に算数を教える夢は未だにもっているが、この点を理解させることは「0」の認識と並んで困難なことだろう。
昨今はいわゆる「早期教育」なるものが一部で盛んである。そして中には、「イチ、ニ、サン、シ…」と発言している子どもに、「ヒャクまで覚えなさい」と言う親御さんがいる。しかし、上で述べたような「同じ3」「同じ5」…のような概念を理解させることを無視して、単に数字を暗記させているだけで、整数の理解ではないのである。
前回の記事では、「割合%」についての学びが、現在深刻であることを全国学力テストの結果も参考データとして示した。その背景に、理解を無視した「やり方」の暗記だけの教育や学びがあることを述べた。人類が長い年月をかけて生み出した「数」や「割合%」は元来、誤解なく正確に「結論」までのプロセスを表現するためのものである。マークシート試験の答えを当てるような感覚で、「結果」を求め過ぎるマイナス面が現れてしまったと考える。
マークシート試験は、膨大な人数を対象とした記述式試験では採点が困難であるから、仕方なしに行われていることに留意すべきである。筆者は大学入学試験の数学責任者をいくつかの大学で行ってきたが、記述試験としては素晴らしい問題でも、マークシート試験にすると「裏技」によって瞬時に答えを当てられる問題を、残念ながら不採用にした思い出がたくさんある。マークシート問題の解答群に文字変数があるものは、具体的な数字を代入すると答えがバレるという致命的な欠陥が内在している。そもそも、証明問題をマークシート式の問題にすることは不可能である。そのような経緯から、結局、計算問題が主となっているのだろう。
そのような見方がエスカレートして、「数学は単なる計算技術である」という迷信の域に達すると危険で、それが「ゆとり教育」に至った主な原因である。算数・数学は最も客観的な「数」を礎に置いて、それらを用いて誤解なく正確に「結論」を導くためのものである、という認識をもつことが大切である。
現在の日本では、諸外国や昔の日本と比べてその認識が著しく欠如している。実際、全国学力テストや国際的学力調査の度に「日本の子ども達は計算は得意であるが、論述や応用が苦手である」という指摘がある。また、「算数・数学は計算だから、それほど面白いとは思えない」という「数学嫌い」が断トツに多い日本の教育の問題点を生んでいる。
1921年にノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインは、簡単な計算ミスが多いことで有名であった。筆者の数学教育に賭ける原点は、この辺りに関する蟠りが根本にある。計算は「早く」よりも「一歩ずつ正確に」、そして計算ミスは必ず見付け出して正す力が必要であると考える。
2007年に桜美林大学リベラルアーツ学群の設置人事で、それまで勤めていた東京理科大学から桜美林大学に移った。勤め始めて数年後に就職委員長を補職としてお引き受けした当時は、まだ学生の就職難であった。就職適性検査の非言語問題(算数・数学の基礎的発想)が苦手な学生向けに、正規の数学や数学教育の授業とは別に、後期の毎週木曜日夜間に「就活の算数ボランティア授業」を開催した。この授業は後に、リベラルアーツ風にアレンジした正規の授業「数の基礎理解」となって、退職年度まで続けた。冒頭で紹介した拙著は、その授業を叩き台として完成させたものである。
その授業では忘れられない思い出がある。微分積分の計算は得意でも、「割合%」の問題が苦手な学生が少なくなかったことである。それも一因となって、理解・論述・応用を重視した授業を徹底した。学生が分からないことはそれぞれ対話によって原因を突き止め、そこから丁寧に説明することを心掛けた。「そんなことも分からないのか」というような暴言を吐かないことは当然として、分からない所が分からなくなっていた学生の気持ちも可能な限り汲み取ったつもりである。当然この姿勢は歓迎されたが、それは遅々として少人数教育が進まない日本の教育の問題点を映し出していると悟った。国際的に見ても日本の学級規模はOECD加盟国平均を大きく上回っており、理解力の点で個人差が激しい算数・数学の教育を考えると、その点からも改革が緊要であろう。
以下、具体例をいろいろ交えて「理解」、「論述」、「応用」それぞれについて、要点を述べていこう。
理解力の要点は「心」
「理解」についての要点は、ずばり「心」だと述べたい。多くの人達は、「算数・数学は所詮計算で、誰がやっても答えは同じだから、算数・数学は心とは無関係」と思うようである。しかし算数・数学に関しては、理解力の強い人も理解力の弱い人もいる。これに関しては、よく「どちらに合わせる説明をすればよいのか」と言う人がいるが、この質問はよくない。「可能な限り、それぞれに合わせた説明を別々にすることが大切」と言いたい。
筆者は大学教員人生45年間で、非常勤講師を含めると10の大学でのべ1万5000人ぐらいの大学生の授業を担当した(文系・理系ほぼ半々)。その間に、約200校ぐらいの小・中・高校に出前授業に出掛けて(半分は手弁当)、これも約1万5千人ぐらいの生徒や児童に話したことになる。授業をして嬉しいことは、学生や生徒や児童が、分からなかったことが分かった瞬間に見せる感激した表情である。手を叩いて喜ぶ者もいれば、飛び上がって嬉しさを表現する者もいる。筆者の説明で分かってもらったと思うと、本当に嬉しいのである。
ここで、参考までに思い出に残る出前授業を2、3紹介しよう。2006年9月に2日間に渡って北海道立浜頓別高校に訪ねた(手弁当)。ほとんどの生徒に1回は授業をしたように思い出すが、何冊かの拙著に紹介してある「不動点定理」というものの一例である「名刺手品」というものの証明を述べた後で、ある生徒が感激して興奮を止められなくなってしまい、先生方が生徒を冷静にさせるために一苦労したのである。浜頓別高校近くにあるクッチャロ湖に沈む夕陽は、それまでの人生でもっとも美しく見えた夕陽であった。
秋田県大仙市立西仙北西中学校には2005年から3、4回訪れたが、泊まり掛けで出掛けた2回目以降は、近隣にある大沢郷小学校などにも足を伸ばしてスピーチした。緑に囲まれた木造の素晴らしい小学校で、校庭にはバーベキューの施設もあったことを思い出す。冒頭の拙著にも述べてある「誕生日当てクイズ」で、生徒全員の誕生日を当てて喜んでもらった。「ハイ、ハイ、ハイ」と元気に挙手をして、ぴったり当ててもらったときの嬉しそうな表情は格別であった。さらに、その翌年に皆が進学した西仙北西中学校で、そのクイズのカラクリを説明して納得してもらったときの嬉しそうな表情は、1年越しに再会して理解した喜びに溢れていた。今では過疎化の影響で両校とも廃校になっていることが残念でならない。政治家には「少子化対策」を発言するならば、まずは「過疎化対策」にも言及してもらいたいものである。
さて、2024年の元旦は月曜である。「それでは2025年の元旦は何曜日か」という疑問について考えてみよう。どんな日であっても、7日後、14日後、21日後、…、364日後は同じ曜日である。364も7で割り切れるからである。そして、2024年はうるう年で366日あるので、2024年の元旦から366日後の2025年の元旦は水曜日になる。
一方、「7で割る」という意味が分かり難い人に対しては、2024年の1月2日は火曜、1月3日は水曜、・・・、というように1つずつ進めていけば、2025年の元旦は水曜日になることが分かる。この説明で分かってもよいだろう。
要するに、算数・数学の説明は平易なものから難しいものまで、多種多様である。算数・数学は、一歩一歩理解を積み上げていく教科である。その積み上げ方はそれこそ無限にある訳で、どのレベルで説明するかは相手(読者、履修者など)の状況を考えて決めるものであって、説明する者の立場ではないはずだ。だからこそ、算数・数学は「心」が大切なのである。
論述力に必要となる「言語の定義」
次に「論述」についての要点は、「理解」のところで述べた「心」と、「言葉の定義」だと述べたい。論述文を読んでもらう相手が理解し易いような文を書くことは必要である。以下、「言葉の定義」について説明しよう。
前回の記事で詳しく述べた「割合%」についてのキーワードは、「比べられる量」と「もとにする量」である。最初から奇妙な公式に頼ることから、それらの関係があやふやになってしまうことが、正解を導けない原因である。まずは、それらの意味をよく理解させる指導が大切である。
図形の分野に目を向けると、たとえば平行四辺形の面積は、「底辺×高さ」と覚える。したがって小学生に、「底辺」と「高さ」だけが図示されている平行四辺形の面積を求める問題を出すと、ほとんどの児童は正解となる。しかし、「底辺」と「高さ」だけでなく、もう一つの辺の長さも図示されている問題を出すと、間違えてしまう児童は一定数いる。これは、全国学力テストの結果からも分かる。「底辺」と「高さ」という言葉の定義を、図を用いてよく理解させる指導が大切なのである。
ここで、「貧困」という意味を考えてみたい。2016年8月18日放送のNHKニュースで、実際に取材に応じた「貧困女子高校生」が取り上げられた。それに関しては、国会議員をも巻き込んで、異なる立場の人達の間で大きな意見の対立が起こった。「大した貧困ではないじゃないか」、「この状態で勉学を続けるのは困難ではないか」、「日本は格差問題にもっと真剣に取り組むべきだ」、等々の意見がネット上を駆け巡ったのである。
偶然にもその3年前に、将来このようなトラブルが起こることを危惧して、相対的貧困率について定義からまとめて本に書いたことがある。2013年に出版した拙著『論理的に考え、書く力』(光文社新書)で、前回の記事では教員免許更新制に関する持論の部分を引用している。
詳しい用語の説明や計算例は同書を参考にしていただきたいが、貧困には絶対的貧困と相対的貧困があり、前者は、必要最低限の生活水準が満たされていない状態、すなわち衣食住に関しても困っている状態を指す。一方、後者に関しては以下のように捉える。国民全体の等価可処分所得を大小の順に並べて、その「中央値」の半分に満たない人達を相対的な貧困層と捉え、その割合をOECDの「相対的貧困率」と定義する。注意したいことは、豊かな国の「中央値」と貧しい国の「中央値」には、生活実感として相応な開きがある。要するに、絶対的貧困と相対的貧困とは全く別のものである。それらの定義を無視して議論を展開したものだから、大きなトラブルに発展したのである。
応用力を高めるために「生きた題材」を
次に「応用」についての要点は、ずばり「生きた題材」だと述べたい。いま「340×6=2040」という式を書く問題を考える。教科書や参考書では、次のような問題が多くある。
「太郎君と花子さんは1冊340円のノートを6冊買いに行くことになりました。二人はいくらもって行けばよいでしょうか。」(答え 2040円)
このような問題を見て、児童は面白いと思うだろうか。いつまで経ってもこのような問題ばかりやっていては、算数・数学にはなかなか興味・関心を示さないだろう。
それでは、光は秒速約30万kmであるが、音は秒速約340mである。その意味を説明した後で、次のような問題を出すとどうだろうか。一応、秋田県大曲市、東京都墨田区、山口県下関市の子ども達に対して出題することを想定する。
「夏の大曲(隅田川、関門海峡)花火大会で花火を見ていると、ピカッと光ってから6秒後にドーンと音がしました。花火が光った場所までおよそ何mのところから見ているのでしょうか。」(答え 2040m)
もう一つ、例題を述べましょう。
「太郎君と花子さんはA君にじゃんけんを100回行ってもらいました。そのうち、グーは40回、チョキは25回、パーは35回でした。A君はいつも同じ割合でグー、チョキ、パーを出すとすると、A君とじゃんけんをする人は、どのような手を多く出すとよいでしょうか。」(答え パー)
この例題ではリアルな感じがないので、「ああ、そうか」で終わりだろう。次の文は冒頭の拙著に載せたものである。出前授業でこの話をすると、生徒は直ぐに使いたくなるようだ。
1990年代の後半に、当時勤めていた城西大学数学科の4年ゼミナールの学生10人にノートを渡して、膨大なじゃんけんデータをとってもらった。そのノートは今でも大切に保管しているが、725人から集めた、のべ11567回のじゃんけんデータの記録が残っている。725人の各々が、10~20回のじゃんけんをして得たものであり、次のような集計結果となる。
のべ11567回のじゃんけんデータの内訳は、グーが4054回、チョキが3664回、パーが3849回である。これから一般に、人間はグーが多く、チョキが少ないことが分かる。したがって、「一般にじゃんけんではパーが有利」といえる。そのデータに関して心理学的には、「人間は警戒心をもつと拳を握る傾向がある」という説明のほか、「チョキはグーやパーと比べて出し難い手である」という説明もある。
また、そのデータから別の特徴も見られる。2回続けたじゃんけんはのべ10833回であったが、そのうち同じ手を続けて出した回数は2465回である。たとえば、自分はじゃんけん10回戦を行って、順にグー、グー、パー、チョキ、グー、パー、パー、パー、チョキ、グーと出したならば、そのうち、1回目と2回目、6回目と7回目、7回目と8回目が同じ手を続けて出したことになる。この例に関しては、「2回続けたじゃんけんはのべ9回で、そのうち同じ手を続けて出した回数は3回あった」ということができる。
10833回のうちで2465回という数が意味することは、「人間は同じ手を続けて出す割合は1/3よりも低く1/4ぐらいしかない」ということである。このことから、「2人でじゃんけんをしてあいこになったら、次に自分はその手に負ける手を出すと、勝ちか引き分けになる割合は3/4もあって有利」という結論が得られる。グーとグーであいこになったら次に自分はチョキを出すと有利、チョキとチョキであいこになったら次に自分はパーを出すと有利、パーとパーであいこになったら次に自分はグーを出すと有利、ということである。
なお、上記データに関しては何回かテレビに出演して紹介したこともあるが、筆者は“じゃんけん博士”ではないので、現在はじゃんけんに関しての出演は丁重にお断りさせていただいている。
また、上記データに関して某ネット記事でも紹介したところ、「芳沢氏のでっち上げではないか」という困った書き込みがあった。そこで、上記データの収集責任者は現在、青森県弘前市の柴田学園高等学校数学教諭の中村友是さんである。彼に相談したところ、「今後、そのデータを紹介されるときは遠慮なく私の名前を明記してください」と言われたので、ここに紹介させていただく。ちなみに当高校へは、コロナの感染が広がる前まではどきどき出前授業に手弁当で訪れていた。
上で述べた例から「応用」に関しては、いかに「生きた題材」が大切であるかを御理解していただければ幸いである。
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よしざわ・みつお 1953年東京都生まれ。東京理科大学理学部教授(理学研究科教授)、桜美林大学リベラルアーツ学群教授を経て現在、桜美林大学名誉教授。理学博士。専門は数学・数学教育。著書として『昔は解けたのに……大人のための算数力講義』(講談社+α新書)ほか多数。五・一五事件で倒れた犬養毅元首相は曽祖父。元国連高等難民弁務官の緒方貞子は従姉妹。