峠の詩に広範な共感
峠三吉の時期のようにアメリカの原爆投下の犯罪をあばき、原水爆を使わせない全国民的な規模の運動の再建をめざす2003年原水爆禁止広島集会が6日午後1時から、広島市中区のアステールプラザで開かれた。集会には地元広島をはじめ、東京から沖縄まで全国各地から650人が参加した。集会は、おりから峠三吉没50周年を記念して福屋デパートで開かれていた広島市民原爆展の大成功と響きあい、広島の被爆者が平和運動の前面に登場したことを浮き彫りにして進行。アフガン・イラクで罪のない人人を殺りくしたアメリカが日本を拠点にした新たな原水爆戦争の危機を強めるなかで、1950年8・6平和斗争の路線に立ち返り、朝鮮、アジアをはじめ世界の平和愛好者と団結して、労働者を中心に各界各層の統一戦線の力で原水爆の使用を許さぬ力のある運動を再建する出発点に立つことを決意しあった。また、この日最終日となった広島市民原爆展は1400人が入場、期間をとおして7000人が参観、8月に入って平和公園で連日開かれた原爆展にも全国から多数がつめかけた。5日には広島に学ぶ小中高生平和の旅の200人が平和公園を訪れ、広島の被爆者の体験を熱心に学び広島市民原爆展を参観するなど、広島の被爆者が行動に立ち上がり広島のほんとうの声を若い世代に全国、全世界に伝えるうえで画期的な成果を収めた。
全国から650人が参加
集会ははじめに原爆死没者への黙祷をささげたあと、主催者を代表して原水爆禁止全国実行委員会の倉崎繁委員長(九州国際大学教授)があいさつに立ち、「アメリカがアフガン・イラクに乱暴な戦争をしかけ、イラン、朝鮮、中国、ロシアなどを先制核攻撃する対象とすると公言しているなかで、小泉政府がアメリカの下請け戦争に国土と人を総動員する戦時国家づくりをすすめ、日本とアジアを原水爆戦争の火の海に投げこむ危険にさらしている。峠三吉たちが活動した1950年8・6平和運動の原点に立ち返り、原水爆の製造も使用も禁止する力のある平和運動を再建することが急務である」と訴えた。
つづいてフィリピンの労働組合・KMUからの連帯メッセージが紹介された。
平野照美・原水禁全国実行委員会事務局長が基調報告をおこなった。
平野氏は下関原爆被害者の会がはじめた原爆展以来、「原爆と峠三吉の詩」パネルが衝撃的な反響を呼び起こしてきたこと、とくに一昨年の旧日銀広島支店での原爆展は広島市民の大きな支持を受け、アメリカに謝罪を要求する広島アピール署名が広島と全国で強い共感を受けたことを明らかにし、今夏の広島市民原爆展には「被爆した広島市民がぞくぞくと訪れ、50数年来胸につかえていた思いを堰を切ったように語った。被爆市民がこれほどの規模で公然と思いを語る状況は戦後はじめてといえる」と指摘した。
また「広島市民が峠三吉のパネルをやっと本物に出会えたとみなして安心して語るのは、峠三吉の詩とパネルが原子雲の下にいた市民の苦しみや悲しみ、怒りを代表し、原爆投下者の犯罪を正面から糾弾しているからである」とのべた。
さらに、「アジアと日本をふたたび原水爆戦争の火の海に投げこむ不気味なたくらみ」を許してはならないと訴え、とくに北朝鮮の核開発を理由にしたアメリカの核攻撃体制の強化、迎撃ミサイルの日本への配備、日本の「核武装可能」発言などを批判し、「世界中からすべての原水爆兵器を廃絶することを要求する」「そのためには最大の核兵器保有国であるアメリカが率先して廃絶しなければならない」と強調。「アメリカの国益のために日本の青年に死んでこいというイラク派兵法」に反対し、「核搭載機を配備した沖縄や岩国など米軍基地機能を再編し、日本をアメリカの戦争に総動員する体制づくり」をあばき批判した。 平野氏は最後に、峠三吉の時期の原点に返って原水爆禁止の大運動を再建する具体的な課題と方向を明らかにし、「被爆市民の心を代表した私心のない運動の原点に立ち返る」よう訴えた。
広島市民が次々発言
発言はまず、広島市民原爆展を大成功させた広島の主催者や協力者がつづけておこなった。
原爆展を成功させる広島の会代表世話人の重力敬三氏は、「思い出したくない思いがあるが、思い出して末永く後世に伝える義務がある」とみずからの被爆体験を語り、福屋で7000人をこえる参加者があり、見る人がひじょうに熱心な態度であったことを報告。「被爆で亡くなられた多くの人たちが、安らかに眠れるように、広島の体験を風化させないように平和運動を展開することがわたしたちの使命だ」としめくくった。
同じく代表世話人の田中武司氏は、中学1年の学徒動員のさい被爆した体験を語り、「焼け野原となった広島を復興させるために尽力し、思い出したくもない体験したくもないと、ただ復興のため一生懸命できたが、体験を伝えることがわたしの使命だと思い語ることになった」とのべ、さらに「1人の力では弱いが、力を結束すれば無限の力を発揮することができる。欺まんの平和ではなく、真の平和をつくっていかねばならない」と訴えた。
広島市民原爆展賛同人で連日会場で奮斗した大下ユキミ氏は、「原爆ドーム隣の郵便局電信課に勤めていたが、結婚して離れていたときに原爆で全滅した」ことを訴え、「友だち、先輩、後輩の同僚みんながあっというまに白骨になってしまった。それを思うと涙が出て止まらない。若い世代が平和のために、核戦争のない世の中になるよう一生懸命やってください」と訴えた。
市民原爆展賛同人で資料展示のために、みずからの被爆写真などを提供した呉市の被爆者・佐々木忠孝氏も会場から発言、被爆して大やけどと原爆症に見舞われた痛苦の体験を語り、資料を提供した思いを語った。
また、東京・武蔵野市原爆被爆者の会・けやき会の永井淳一郎会長も登壇し、「下関の方から東京の井の頭公園でやっていた原爆展を見たことで後世に知ってもらうことが必要だと思うようになった」と語り、若い世代の要請ですでに8回も出むいて体験を語っていると紹介し、「アメリカは原爆投下の1カ月まえから広島で連日空中写真をとって、そこにどういう人たちが住んで、どういう生活をしていたかを知っていた」うえで、十余万人を焼き殺したことへの怒りを訴えた。
つづいて、劇団はぐるま座が峠三吉の詩『墓標』を朗読したあと、「広島に学ぶ小中高生平和の旅」に参加した子どもたち(50校147人)が登壇。リーダーの高校生・南香世さんが経過を報告し、運動の広がりと広島の被爆者との絆がさらに深まったことを紹介。全員で峠三吉の『小さい子』を群読し、小学校1年生から大学生までの代表1人1人が、被爆者の体験に学んだことを報告したあと、「平和宣言」を元気いっぱい読みあげ、「青い空は」を合唱した。
力ある平和運動つくる
つづいて、各界各分野からの意見発表に移った。
広島の母親・島岡真知子氏は「3人の子の母親で、広島の平和教育に期待していたが、実情にさみしく思った。地域や旧日銀、福屋の原爆展に参加して、なまの声を聞くことができた。子どもだけでなく父親も母親も学んで、広げていきたい」と語った。
老人福祉の仕事をしている女子青年の岩田規代美さんも会場から発言、高齢者介護で原爆の体験を何回も聞くなかで、なにかしなくてはと思い福屋原爆展のスタッフに参加したこと、「平和について原爆についてもっと勉強していきたい」と決意を語った。
大阪の青年交流会の高校生・島田大介君は、毎月開いている交流会の活動を紹介し、被爆者、戦争体験者の話を聞くなかで、「なにかをしていかなくてはいけない」と思ったこと、「戦争は攻撃する側のものも、少数のものにむりやりひっぱられ苦しめられる。こんな戦争を絶対にやってはならない」と訴えた。
全戦線で運動再建
山口県の教師・竹垣真理子氏は、沖縄や長崎の事件について父母・教師が心を痛め、「勉強できる子とできない子の差が広がり、心が育っていない。どこでも起こりうる問題だ」と語られていることをのべ、政府の「教育改革」を批判した。さらに、米軍基地の街・岩国の教師たちがかつて基地が子どもたちにもたらす弊害への民族的な怒りから平和教育運動を起こしたが、いまもアメリカの植民地的な退廃が、子どもたちに襲いかかっていることを指摘。「日本の文化、民族的な精神が豊かな人間性をはぐくむ。子どもの成長を願う父母や多くの人人の側に立って教育運動を発展させたい」と決意をのべた。
山口県の交通産業労働者・岡本宏明氏は、長周新聞の『広島と長崎』の学習会を持って学んだことを感動的に報告。「原水爆禁止のたたかいが1950年8・6斗争からはじまったことをはじめて知った。わたしは原爆で戦争から解放され、アメリカが平和と民主主義を日本にもたらしたと考えていた。子どもたちに平和な時代を送り届けることがわたしたち労働者の義務であると痛感する。わたしはこれまでの生き方を変えて、平和のために生きることを決意する」と語った。
米軍基地撤去の斗い蘇らす 岩国からも発言
発言の最後に岩国の森脇政保氏が立ち、広島と密接に関連してきた米軍岩国基地とそれをめぐる市民のたたかいについて歴史的にふり返り、50年8・6斗争が切り開いたたたかいの途上で52年、米軍岩国基地撤去斗争の集会がはじめて持たれたことや当時の農民、青年、教師のたたかいを紹介、「いまアメリカは朝鮮などを名指して先制核攻撃の準備をすすめている。岩国基地は沖縄と同じ核攻撃基地で、格段に拡張・強化されている。いまこそ、50年8・6の路線に立って、かつて朝鮮戦争、ベトナム戦争で原水爆を使用させなかったように、当時のたたかいをよみがえらせ力のある平和運動をまき起こしていこう」と訴えた。
最後に、集会宣言を杉山真一氏(下関原爆被害者の会)が読みあげ、集会の基調報告・スローガンを採択し、全員でシュプレヒコール。デモ行進で道行く市民に集会の成果と宣言を訴えた。とくに恒例となった子どもたちによる峠三吉の詩の群読には多くの市民がうれしそうに見守っていた。
沿道で見守る市民
デモ行進を見る沿道の市民が深い共感を寄せた。八丁堀付近でデモ行進の横を歩いていた78歳の婦人は「この暑いなかほんとうに私利私欲なく小さい子が一生懸命、峠三吉さんの詩を読みながら歩いている姿を見ているとうれしい。ありがとう」と何度も頭を下げながら涙をぬぐった。「わたしも20歳のとき市役所で被爆しました。当時の光景は見た人でないとわかりません。昔の『原爆の子』や『原子雲の下より』も純粋な子どもたちが中心だった。でもだんだん被爆してもいないのに被爆手帳をもらったり、謀反心の強い大人が出てきておかしくなり、いいたくてもいえなかった。大人の方がはずかしい。若い方が中心になってがんばってほしい。若い人に体験を伝えたい」と語っていた。
福屋本店そばで、デモで詩を読む子どもたちを食い入るように見ていた商店主の婦人は「毎年山口県の子どもたちが峠さんの詩を朗読する。やっぱりいちばん心をうたれるのは峠さんの詩。あなたたちのおかげで峠さんの詩が広がり、今年は平和公園の慰霊祭でも小学生が峠さんの詩を読んだ。それがよかったとお客とも話しになった」とうれしそうに語った。
また観音新町にすむ70代の男性はデモを見ながら「これはいいことだ。平和公園のパネルを2時間、とことん見させてもらったが峠さんの詩がよかった。あかつき部隊にいて二次被爆したが、8月10日の広島市内はまだくすぶっていた。電車の線路に家屋疎開の柱が立てかけられ、トタンやムシロがはられ、そのなかに被爆者が並べられていた」と語った。
夫の兄が13歳のときに家屋疎開に出て被爆死し、2歳で被爆した弟も翌年突然死んだと語り出した60代の婦人もデモ行進を見ながら「アメリカはいまでもイラクを平気で爆撃している。子どもたちがかわいそうで涙が出る」と怒りをあらわしていた。
座ってデモを見ていた作業着を着た20代の男性は「8月6日でいろいろやるが広島だけ。それも全国にはほとんど知らされない。きょうやられていることも夕方のニュースにちょっと出されて終わり。8月15日の方が盛大だが広島の者にとっては365日、8月6日を思っている。自分も被爆三世ですが、祖母たちはほとんど語らない。全国のいろんなところで運動を広げてほしい」と語っていた。