広島県呉市のそごうデパート7階イベントプラザで開かれた「原爆詩人・峠三吉没50周年記念 呉原爆展」(主催、「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会・呉原爆被爆者友の会)は、5日間で2400人が参観し目ざましい成功をおさめた。原爆展を担ってきた被爆者やスタッフをはじめ、参観した呉市民の多くがその盛況ぶりを喜び、平和を求める息吹が渦巻いていることに確信を持つものとなった。このとりくみをつうじて被爆者のなかでも既存の枠を下からうち破りながら、被爆者の使命としてつぎの世代に語りつぐ力が大きく胎動をはじめた。
この原爆展のとりくみは、市民各界各層の177人が賛同協力者となった。なかでも呉原爆被爆者友の会(原友会)に組織された婦人たちの力は、スタッフとして参加した広島の会の人人をも感動させた。
原友会の被爆者たちは、原爆を受けその苦しみのなかから立ち上がり同じ境遇を生きぬいてきたが、日ごろは被団協からおりてくるものを回すだけが仕事で、おたがいの被爆体験を語る場すらなかった。
昨年の福屋デパートでの原爆展を契機に呉原爆展の開催が決まりとりくみがはじまると、これまで黙っていた被爆者たちが「原爆展だから来た」と理事会や主催者会議に参加し、展示されたパネルの前で堰(せき)を切ったように語りはじめた。広島の会の被爆者が「パネルを見て被爆者としてなにかせねばならないと思い、語りはじめた」「唯一残された命をこの原爆展に役立てたい」と素朴に語り、呉の被爆者らも共感していた。
はじめは会のなかでも「みんなは動かない」「高齢だからやめたいという人も多い」と、原友会の理事にもほとんどチラシが回されていなかった。しかし理事の多くは、「59年間でこんな原爆展ははじめて、会員にもチラシを渡したいがチラシがないから手書きで書いた」「チラシが回ってこないから地域の人が知らないのかと不安に思っていたら病院や喫茶店にチラシがはってあって安心した。20枚くらい会の人と友だちに手渡したい」と積極的な思いが渦巻いていた。そして「いつも自分たちは話を聞くだけで、おたがいが体験を語りあうのははじめて」と思いを語りはじめ、「子や孫たちのために」と地域や寺、婦人会、サークルなどで電話や手紙、口伝えで宣伝が広げられた。
原爆展がはじまると、会場では婦人被爆者たちを中心に役員らが運営し、当番以外の日でも連日のように婦人たちがかけつけ献身的に担った。被爆者に呼びかけられたそごう百貨店の店員も十数人が制服姿で見に来たり、参観者の半分以上が家族や知人、友人で、被爆者たちが働きかけたものであり、その力の大きさを示すものとなった。
また原爆展がはじまると被爆者のところへ連日電話がかかり、「原爆展を見に行ったよ」「写真集を購入したよ」と反応が返ってきたことが被爆者のなかでうれしそうに話された。
はじめて体験を語った88歳の男性被爆者も「生きがいを見つけた」と感動をこめて語った。
この原爆展の中心を担ってきた佐々木忠孝氏は「奇蹟の生存者」として被爆当時、映画会社にとられた写真とみずからのケロイドの跡を写したカラー写真を展示した。佐々木氏は、「自分が骨になってしまってはケロイドの跡はわからない。生きているあいだにすべてさらけ出し伝えようと思う」と写真の前でケロイドの跡を見せながら体験を語りつづけた。
原爆展3日目の20日、市内の西方寺幼稚園の園児21人と二河小学校6年生31人が参観した。被爆者らは幼稚園児に語りかけながらパネルを説明。被爆惨状の写真に園児たちも「かわいそう」と驚いていた。
また最終の土、日曜は、家族連れが多く、親子連れは「体験が聞きたい」と申し出たり、被爆者も子どもたちが来ると横についてみずからが見た惨状と重ねながら体験を語った。日を重ねるごとに被爆者は積極的に語りかけ会場は3世代が一堂に会して語りつぐ場となった。
被爆者同士もはじめて交流
また呉の被爆者同士もおたがいが心を開いて語りあいあちこちで交流の輪ができた。
パネルを見終わりじっと会場を見ていた被爆婦人は、「お父さんもお母さんも家もすべて失った。家に帰ると真黒くなった遺体があり、わたしは骨を少しだけ拾って川に流すしかなかった」と悔しさをにじませ、「母を返せ、父を返せといいたい。でもいくらお母さん、お父さんと呼んでも返ってきません……」と涙をこらえた。さらに戦後は苦労の連続で、親せきの家を転転とさせられ、「親がいなくなってすねてしまい、どの家に行ってもうまくいくことはなかった。なにを見ても腹立たしく思えて、原爆は人まで変えてしまったんです。でもどんな苦労でも耐えることを知った」と話した。さらに戦後結婚しても子どもが産めず人生を狂わされ、もう原爆なんかこりごりですと訴えた。
80代の母親を連れて来ていた60代の婦人は、「もう残酷なものはいやです」といい、「自分が学童疎開中、一家が被爆、姉は勤め先で、弟は東観音小学校でそれぞれ爆死し、お母さんは東観音町の外に出ていて被爆し、全身大やけどになった」と話し、疎開中、自分は一家がそんな目にあっているとは知らず、疎開先で10月まで親が迎えに来るのを待ちわびていたことを話した。疎開先に見知らぬおじさんが迎えにきて帰ると、母親は全身大やけど、小学校4年生の自分がずっと看病したこと、ウジがわいて、それをとり、薬はないから、人が教えてくれるものは、子どもながらに一生懸命ためし、母親の傷をなおした経験を話した。
そして「ブッシュは許せない。アメリカは無実の女、子どもを平気で殺して、イラクにたいする戦争でも同じ。なぜこんな目にあわせたアメリカのために自衛隊が出て行かなくてはいけないのか」と怒りをぶつけ、母も娘も別別に多額のカンパを寄せた。
小学校の娘が原爆展を見に来たという30代の母親は、「うちの夫はいまイラクへ行っています。娘は“お父さん、戦争しに行くの?”というんですよ。“(自衛隊)やめたらいいのに…”といっていましたが、夫は“命令だからしかたない”といっていました。わたしも行かせたくなかったんです。こんなことになるとは思ってもみませんでした」と語り、足早に会場をあとにした。
呉市在住の中学校の教師は、「広島では平和教育すらやりにくくなり、県教委の是正指導が強まっている。組合かかわりは後援もしないようになっている」と切り出した。そのようななかで下関でなぜ活発にやられているのかとたずね、「外から持ちこんだから広がっているのか、自分には理解がいかない」と真剣に考えていた。そして呉市、自治会や被爆者など全市民的な規模で広がっている原爆展を理解できないと衝撃を受けていた。
翌日、ふたたび会場を訪れ、被爆者の話を聞いた。そして「人の話をもっと聞かないといけないと思った。みんなそれぞれ体験し考えているから……。自分たちはすぐにいった言葉をとりあげて“差別だ”とかいってきた。それでは体験した人たちの話を聞くこともできない。体験者の人たちが少しなにかをいえばイデオロギーで見ていたが、そういうものではない。学校で子どもたちに語りつぐ機会があればやりたい」と被爆者と握手をかわし帰っていった。
別の母親も、子どもに詩を読み聞かせながら回っていた。そして「子どもはショックだったようだが、学校でこういうところに連れて行ってほしい。学校で被爆体験を語ってもらえるなら学校に話してみたい」といった。さらに「息子がきょうのことを宿題に書くといっているので、わたしも先生に一筆書こうと思う」と語っていた。
またある母親は、毎日のように会場を訪れパネル冊子を5冊、8冊と購入していき、PTAや地域の母親に話しながら配っていた。
“呉の面目を一新” 開幕式でも確信あふれる
最終日の22日には閉幕式がおこなわれ、呉原友会の被爆者や広島の会のスタッフら約30人が参加し、原爆展成功を喜びあった。
はじめに呉原友会の植田雅軌会長が「この会がこれほどの成功をおさめたことは、そうとうな力があったと思う。いまからも残された命を、伝えていくために尽力したい」とのべ、スタッフの労をねぎらった。
原爆展を成功させる広島の会の重力敬三代表世話人があいさつし、「軍事基地・呉の面目を一新して平和運動がはじまったと思う」と切り出し、原爆展全国キャラバンの京都での反響も伝え、「原爆から59年がたちこの原爆展を契機に平和運動に邁進しましょう」と訴えた。
広島の会の犬塚善五事務局長が概況を報告し、呉での継続的な運動を期待し、「原爆と峠三吉の詩」A2判パネルを呉原友会に寄贈することを明らかにした。最後に参観した本通小学校5年生の感想文の一部を紹介すると、子どもの気持ちのこもった感想に会場の被爆者らは涙をぬぐいながら聞き入っていた。
5日間、連日体験を語りつづけた佐々木忠孝氏は、体験を聞いた生徒たちがひじょうに熱心だったこと、「原友会の人たちの尽力と広島の会の援助で盛大に成功した。お手伝いをした人たちがわがことのようにがんばられ、みんな若返ったと思う」と喜びをにじませた。
スタッフとして語った呉の被爆者からは、「いまの平和が人人の犠牲と苦労の土台のうえにあることを子どもたちに伝えた」(男性被爆者)、「子どもたちの幸福を願う被爆者の一人として、多くの子どもたちに語るチャンスをいただきありがとうございました」(婦人被爆者)、「園児たちが一番反応が強かった。“どうして戦争したの”と原点となる疑問を投げかけられ、それに答えられなかったのが残念でした。いったいあの戦争はなんだったのか考えていきたい」(婦人被爆者)と、今後も使命をはたしていく決意をのべた。
最後に広島の会のスタッフを代表して神原島子氏は、「多くの人たちが原爆展へ足を運んでいただきわたしも喜んでいる、また機会があれば手伝いたい」とうれしそうに語った。