広島・長崎で人類最初の原子爆弾がアメリカによって投下され、1瞬のうちに幾十万もの市民が焼き殺されて59年目の8月を迎える。アメリカはこの史上最悪の犯罪を謝罪するどころか「戦争を終結させ、幾百万人の命を救った英雄的行為」などと一貫して正当化しつづけてきた。そのアメリカが、いまでは日本社会をデタラメな植民地的破壊をやり、あろうことかアメリカの戦争のために日本の若者を肉弾にし、日本全土を朝鮮、中国、ロシアなどを対象にした原水爆戦争の最前線基地に総動員し、アジアと日本をふたたび原水爆の火の海に投げ込もうとしている。戦後占領下の広島からはじまった原水爆に反対する運動は、折からの朝鮮戦争における原爆使用を押しとどめ、たちまちにして世界的な運動となり、「原爆投下は正しかった」などといわせぬ力を持ってきた。原水禁運動は分裂・抗争の末にいまやまったく力を失っている。「原爆投下は死んだ人には気の毒だが、民主主義と繁栄をもたらしてくれて歓迎する」という流れが、原水爆禁止運動のなかに浸透し、ふたたびアジアと日本を原水爆戦争に巻きこむことを押しとどめる運動の阻害者となってきた。原水禁運動を力のないものにしたのは、被爆した市民と対立し、原爆投下者アメリカを平和の敵とみなさない潮流であった。これらの支配を突き破り、真に力のある国民的規模の原水爆禁止の運動を起こすことが民族の死活の利害とかかわって重要となっている。
共感呼ぶ峠の原爆展 イラク戦争も重ね
広島、長崎の原爆被害者が「いまこそ語らなければならない」という動きは、現在の原水爆戦争の脅威が近づくのにつれて、さまざまな政党政派、思想信条、職業、経歴をこえてかつてない広がりを持って強まっている。
4年まえに下関原爆被害者の会の被爆体験を語る運動のなかで作成された、原爆展パネル「原爆と峠三吉の詩――原子雲の下よりすべての声は訴える」による原爆展は、下関からはじまって、広島で全市民的な支持を受け、いまや全国の各都市、街頭、職場、学校など数千カ所で開催され、押しとどめることのできないうねりとなっている。
今年2月からはじまった、原爆展全国キャラバン隊は、九州から北海道を縦断し、衝撃的な反響を呼び起こしてきた。どこでもアメリカのイラクでの蛮行や、それぞれの地におけるかつての米軍空襲の残虐さと重ね、また日本がすっかりアメリカの従属国となり、アメリカの戦争の下請で戦争へすすんでいることへの激しい怒りが噴出した。どこでも、自民党小泉政府への売国政治への怒りとともに、原水禁運動の専門家をぶってきた「日共」集団のインチキぶりへの嫌悪感とあわせて、痛烈な批判が語られた。
とりわけ「原爆を投下する必要はなかった」「アメリカに謝罪を要求する」署名の訴えが、ひじょうに注目を浴び、新鮮な共感を得た。戦争を終結させるのには原爆は必要はなく、ソ連の参戦に焦って日本を単独で占領する目的のためのみにあの残虐な人殺しをしたという問題が、現在イラク戦争において、口実とした大量破壊兵器はなく、ただ石油略奪のため、イラク・中東を支配下におくという目的のために、罪のない人人を大量に殺りくしており、それに小泉政府は無条件に従っているていたらくの現実と重ね、目からウロコがはげるような印象で受けとめられ、激しい怒りが語られた。
峠の主張を貫いた50年86斗争路線
この原爆展パネルは、原子雲の下で人人はどのような目にあい、戦後もどんな苦しみと悲しみ、怒りを抱いてきたかを、実際の体験に即して、代表的な写真、絵などであるがままに描いたものである。それはまた被爆者が人人に語る内容にそって描いたものである。そのベースは広島の原爆詩人・峠三吉の詩と、峠が編さんした「原子雲の下より」(1952年)に掲載された広島の小・中・高校生の原爆詩である。
峠の主張を貫く観点は、戦後はじめて原爆反対の口火を切った1950年8・6平和斗争を指導した路線である。原爆展パネルもまた、1950年8・6斗争路線を継承して力のある原水爆禁止運動を起こそうという努力のなかで作成されたものである。その後のいわゆる原水禁運動のさまざまな指導勢力は、峠三吉を黙殺し、隠ぺいすること、また原水禁運動が広島からはじまったことを否定し、それよりあとのビキニ問題での杉並の主婦の署名運動からはじまったといって、1950年の斗争をかくすことが特徴であった。今日、原水爆戦争を阻止する力のある運動を起こすには、この峠三吉などの活動を生み出した1950年8・6斗争を導いた路線を継承するほかはない。
50年斗争路線継承を 国民的規模の運動へ
この1950年の8・6斗争の教訓を現在に生かさなければならない。
第1に、原爆の惨状への新鮮な怒りを広く呼び起こすことである。敗戦後日本を占領した米軍は、原爆写真を公表したり語ることを禁止した。原爆写真を日本ではじめて新聞特集で発表したのは、1950年6月、共産党中国地方委員会が発行した新聞「平和戦線」であった。当時、この新聞の大量発行のほか、街頭での原爆写真、絵や詩の展示などが精力的にとりくまれた。
「原爆と峠三吉の詩」の原爆展パネルは全国に広がり、この夏の八月六日をはさむ期間、広島の原爆ドーム近くのメルパルクを会場にして広島市民原爆展が開催される。パネル発祥の地の下関では現在、福田正義記念館で第5回原爆展が開催中である。被爆者が子どもたちの体験を語る運動は広島をはじめ全国に広がっている。
第2に、広島、長崎への原爆投下はなんのためであったかという問題を徹底的に明確にすることである。1949年当時広島では、風呂屋ではケロイドを見て、原爆の体験を止めどもなく語りあう状況があったが、一歩外に出たら表面には出なかった。それはアメリカ占領軍が、「原爆投下は無謀な日本軍部をして戦争を終結させるためにやむをえぬ手段」であり、「戦争を終結させ、幾百万の命を救った」と宣伝し、「戦争に加担した日本国民は一億総ザンゲをせよ」と宣伝し、なんの罪もない親兄弟を焼き殺され、苦しい生活を強いられている広島市民を頭の上から抑えつけていたからである。
50年の斗争では、アメリカの原爆投下の目的、その犯罪的な意図が徹底的に暴露された。第2次大戦は、すでに5月にはナチスドイツが降伏していた。日本軍は真珠湾攻撃から1年もたたないあいだに海軍力は破壊され、制海権も制空権も奪われ、日本全土は空襲で爆弾を浴び放題、南の島に送られた兵隊は飢えと病気でつぎつぎと死に、軍としての戦争能力は早くから喪失していた。天皇は、「恐るべきは共産革命」といって国体護持、つまりは人民の反抗から天皇の地位をいかに守るのに有利な敗戦をするかをさぐりアメリカ、ソ連との接触をはじめていた。
日本の敗戦は、基本的には陸軍の最大勢力を投入していた中国で人民の抗日戦争によってうち負かされ、行きづまって米英仏蘭との東南アジア市場争奪の戦争に突きすすんだが、最後的にはドイツの降伏後3カ月後に参戦と戦後処理のためのヤルタ会談で決められていたソ連の参戦によって決定的となっていた。広島への原爆投下はソ連参戦の直前、長崎への投下はソ連軍が旧満州になだれこんでいるそのときであった。
ソ連参戦のまえに日本を降伏させる実績をつくること、そして日本を単独で占領することが目的であった。その意図は、あの東京大空襲で皇居は1発の爆弾も受けず保存され、敗戦後は「天皇は100万の軍隊の存在に匹敵する」などといって、戦争犯罪を免れさせ、利用したこと、天皇の側はマッカーサーに命乞いをしたことにあらわれている。
アメリカは、日本を単独占領するという自分勝手な目的のために、広島、長崎のなんの罪もない老人、子ども、女、勤め人、学生などを眉根一つ動かさずに焼き殺したのである。アメリカは第2次大戦において、戦争の終結を願う平和主義者ではけっしてなく、天皇やソ連を脅しつけて、戦後の世界を支配するため、さらには日本を足場にして休むことなくつぎの戦争をつづけるためであった。それは戦後5年目にして、日本を足場にしてはじめた朝鮮戦争、つづくベトナム戦争、湾岸戦争、現在のイラク戦争と休むことはなかった。
アメリカは第2次大戦のまえもあとも、紛れもなく史上最悪の凶悪な戦争狂にほかならない。アメリカは第2次大戦において、日独伊ファシズムとたたかった平和と民主主義勢力というのはソ連指導部を中心にした誤った評価であった。イラク占領にかんしてブッシュが日本占領をうまくいった例としてあげたが、民族排外主義で戦争にかり立てた天皇がアメリカの目下の同盟者になったことのほか、共産党内のアメリカを平和勢力とみなす潮流に支えられた。
近年、原水禁運動が力のないものになり、広島などでは「軍都だから原爆を落とされた」「原爆の被害をいうまえにアジアへの侵略戦争に加担したことの反省をせよ」という、戦後の「1億総ザンゲ」論の焼きなおしである加害責任論がふきまくられ、被爆者はまるで悪者のように扱われてきた。アメリカがなんのために原爆を投下したかの真実をはっきりさせることなしに力のある原爆反対の国民的運動を起こすことはできない。
原爆使用阻止の力に 全国の運動結集し
第3に、かつての原爆の犯罪を暴露すると同時に、現在の原水爆の製造、貯蔵、使用を押しとどめる力を結集することである。
被爆県である広島県の沖美町に、米空母艦載機の離発着訓練基地をつくろうという意図が暴露され、全県民と連動した全町民的な運動で撤回させた。今度は、広島圏内に入る山口県の岩国で、横須賀を母港にする核搭載空母の艦載機が常駐する厚木基地の機能を移転する計画が公表された。ほかにも朝鮮・台湾にむけた無人偵察機や地中貫通弾搭載爆撃機を常駐する第13空軍司令部(グアム基地)の横田基地の第五空軍司令部への統合、自衛隊の米軍指揮下への統合など、日本を中枢拠点にした米軍基地の統合・再編は、日本全土の核基地化をいちだんとすすめるものである。
小泉政府はイラクへの自衛隊の派遣をはじめ、有事法をすすめ戦時国家態勢をつくってきた。それは1996年の日米安保再定義、日米防衛ガイドラインの方向を実現してきたもので、アメリカの戦争のために日本を総動員するためのものであった。米軍はヨーロッパからは撤退するなかで、日本は増強の一途となっている。在日米軍基地の増強とともに、有事法により、アメリカが日本を戦場にして戦争をすることを想定して、陣地構築といえば民有地の強制接収を認めたり、下関でも岩国でも港には「テロ対策」といって金網をはり、自治体も企業も動員する体勢をつくっている。
ブッシュ政府はニューヨークでのテロ事件を機に、「真珠湾を攻撃したものがあったような目にあわせる」といって、アフガン・イラクを無差別爆撃して占領し、「核の先制使用」を叫び、「使える核兵器」といって新型原水爆の開発に拍車をかけてきた。さらに、「ミサイル防衛」(MD)の名のもとで朝鮮、中国、ロシアを対象にした、原水爆戦争計画に日本を組みこむ策動を強め、イージス艦搭載の海上配備型迎撃システムを朝鮮近海に配備し、迎撃ミサイルの共同飛行実験を日程にのぼらせるまでになっている。
アメリカが日本を動員してやろうという戦争は、まさにミサイル戦争であり原水爆戦争である。世界の人人は、広島、長崎に原爆を受けた日本がどうしてアメリカのいいなりで下請戦争に参加するのかと、七不思議のように語っている。日本は、唯一原爆を受けた国民として、原水爆の使用を阻止することが国際的な役割である。
労働者が軸の運動へ 原爆美化の共犯者を一掃し
第4に、原水爆の製造も貯蔵もとりわけ使用を禁止する力ある運動を起こすには、運動内部から原爆投下者アメリカを美化し、容認する共犯者、インチキ潮流を一掃することなしには不可能である。広島では、原水禁、原水協の指導勢力にたいしてはダカツのごとく嫌悪する世論が圧倒的である。原爆と被爆者を自分たちの飯のタネに利用してきたこと、党利党略の勢力争いばかりで、被爆した市民を代表し、原爆投下者とたたかう姿勢がないこと、アメリカ美化が性根であり、とどのつまり原爆投下によるアメリカ占領に感謝する潮流であることが、その要因である。
第5に、原水爆に反対する運動は、被爆者がおおいに語る行動に立ち上がることが重要である。小・中学生などがそれを真剣に受けとめる様相が広がっている。だが原水爆に反対する運動が真に力のある運動になるためには、この社会の生産を担う労働者が中心に立つ運動にすることである。
1950年8・6平和斗争は、中国地方の労働者が占領軍の弾圧を恐れず、折からのレッドパージという野蛮な首切り攻撃をも恐れず、被爆した市民の思いを代表し、朝鮮戦争における原爆の使用に反対して、運動を突破させた。
ここで討議された問題の解決は今日きわめて重要である。「その年の7月25日に広島造船労働クラブで開かれた中国地方青年代表者会議は、白熱的な討論ののち、今までの活動のなかにある誤りをあらため、①反帝反戦斗争を基本とし、日常的斗争はその一環であること、②経済主義的斗争をあらため階級的宣伝と国際的連帯性を強化すること、③朝鮮民族解放斗争を支持する態度を明確にし、これを行動に移して共通の敵とたたかうことを決議した」(「広島と長崎」)。
この労働者の、アジアの平和と日本人民の根本的な利益のために犠牲を恐れぬ勇敢な行動は、広島の被爆市民に深い印象を残し、翌年には合法的な全国集会を開催し、55年には世界大会が開催されるなどたちまちにして国際的な規模の運動となった。その結果、今日まで原爆を使わせぬ力となってきた。
50年8・6斗争で突破した労働者の運動が、サンフランシスコ片面講和に反対し、50年代の基地撤去斗争、警職法反対の斗争などをへて、偉大な日本人民の大政治斗争60年「安保」斗争にまで発展した。だがその後、「高度経済成長」とともに、アメリカと日本の支配層による弾圧と計画的な買収策によって、労働者のこの歴史的使命が骨ぬきにされ、政治斗争を放棄して資本の増大に依存して経済要求を実現する経済主義、改良主義がはびこり、それが今日では、「個人の権利」「個人の自由」を叫ぶ最急進勢力ともなり、原水禁運動はもちろん、あらゆる政治斗争も経済斗争も破壊するに至っている。
原水爆の使用を絶対に阻止するために、日本民族が世界にはたす役割はきわめて大きい。世界の平和愛好勢力と団結し、真に力のある原水禁運動を再建することが求められている。
原水禁全国実行委員会は、「原爆と峠三吉の詩」の原爆展を展開するとともに、8月6日広島集会を開催し、広島市民の大きな支持と共感を得てきた。今年の、原爆ドーム前のメルパルクを会場にした原爆展の成功とともに、アステールプラザで開催される8・6広島集会への全国的な結集をはかることがきわめて重要である。