長生炭鉱(山口県宇部市)水没事故から2月3日で82年を迎えた。「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」は3日、同市床波の長生炭鉱追悼ひろばで犠牲者追悼集会をおこなった。韓国から訪れた犠牲者の遺族や韓国政府関係者、地元の住民、韓国、日本の中学生など約130人が参列した。今なお海底に眠る183人を追悼するとともに、遺骨を故郷に送還するために、刻む会は「何があっても今年中に坑口を開ける」決意を表明した。
海底炭鉱だった長生炭鉱は1942年2月3日朝、坑口からおよそ1㌔㍍付近の天盤崩壊で海水が侵入する事故が発生し坑道は水没、坑内にいた労働者183人が犠牲になった。そのうち4分の3にあたる136人は朝鮮半島から強制連行された、あるいは生活苦から渡日を余儀なくされた朝鮮人だった。炭鉱があった宇部市床波海岸には、1990年代までは坑口や巻櫓(まきやぐら)の台座などの遺構が残っていたものの撤去され、現在は海面から突き出た2本のピーヤ(排気筒・排水筒)が残るのみとなっている。長い間この事実は闇に葬られていたが、市民の手で事故の史実を掘り起こし、1992年からは市民団体が遺族を招いて追悼集会を開いてきた。2013年にはピーヤをかたどった朝鮮人犠牲者追悼碑・日本人犠牲者追悼碑の二つの追悼碑を建立、「長生炭鉱追悼ひろば」と名づけ、ここで毎年追悼集会をおこなっている。
集会で「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」共同代表の井上洋子氏は、昨年12月8日に政府交渉を4年ぶりに再開し、韓国遺族会が初めて直接国に声を届けた歴史的な日となったとのべた。一方、遺骨発掘にかかわる厚生労働省の「人道調査室」は、年間1000万をこえる予算を持ちながら、それは「見える遺骨」に限るという対応に終始していること、3月末に韓国行政安全部遺骸奉還課を「刻む会」が訪問し、韓国政府が遺族のDNA取得に動き出したことなどを紹介して「今が最大のチャンスだ」とのべ、今後は政府との交渉をさらに強化していくと展望を語った。
また韓国では「長生炭鉱の遺骨発掘を日韓政府の共同事業に!」をテーマとして、国会の議員会館内で写真展やフォーラムが開かれ、日韓市民の連帯の力で確実に韓国と日本の世論が動き始めていることを報告した。「事故の日、冷たい海水にのまれながら、坑口めざして必死に走ってこられた犠牲者の皆様に対し、まずは坑口を開けることが道義的責任であり、政府交渉の第一課題だ。遺族に残された時間がないなか、『刻む会』は何があっても今年中に坑口を開ける決意です」とのべ、そのために力を結集することを切迫感をもって呼びかけた。
遺族会会長の楊玄(ヤンヒョン)氏は、昨年12月8日に初めて日本政府へ遺族の思いを直接のべることができたが、日本政府は対応は消極的で失望感を抱いたとのべた。「日本政府は、加害者の炭鉱会社にかわって、犠牲者の遺骸を遺族たちのもとに還すことだ。それが人道主義の側面から、今後の日韓関係の未来志向的な側面から進められなければならない道理だ」とのべ、日本政府に遺骨発掘と返還を求めた。
その後、日韓の交流事業に参加した両国の中学生がメッセージを発した。そして犠牲者の息子や孫、甥などにあたる遺族らが二つの慰霊碑を前にチェサ(韓国式法事)と献花をおこない、日韓の中学生が犠牲者183人の名前を読み上げた。
参列した宇部市内の女子中学生は、「今年の夏に韓国の中学生との交流事業に参加したときに、長生炭鉱の歴史を知った。亡くなった方がいるのに、海のなかに放っておくのはおかしい。早く家族のもとに還して欲しい。自分たちが歴史を知って友だちに知らせたい」とのべた。韓国の男子中学生は「政府が動かないために、この海に遺骨が埋められたままであることはとてもつらい。人的交流や文化交流が強まることによって遺骨返還の力になれるように頑張りたい」と話していた。
午後からは宇部市総合福祉会館で第二部が開かれ、遺族らの発言、昨年12月の政府との意見交換会の報告のあと、ノンフィクションジャーナリストの安田浩一氏が「歴史否定の波に抗う――差別と偏見の現場を取材して」をテーマに講演した【詳報次号】。