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中南米での左派政権復活の底流にある思想とは 民衆を導くリーダーの指針と教育観 ブラジルの哲学者パウロ・フレイレの著作にみる

ブラジル大統領選に勝利して再起を成し遂げたルラ(2022年10月30日、サンパウロ)

 中南米各国で近年、ドミノ倒しのように左派政権が誕生している。一昨年10月末には新興国を代表するブラジルの大統領選でルラ元大統領(労働者党)が勝利し、7年ぶりに左派政権が復活した。中南米でたがいに連携しあい、新自由主義の暴圧を覆して真の民主主義をめざす民衆の魂を組織する政治勢力の台頭に注目が集まっている。

 

 ルラは勝利宣言のなかで、「これは私や労働者党の勝利ではなく、政党や個人の利益、イデオロギーをこえて形成された民主主義運動だ。教育を愛する人々、文化を愛しより多くの文化を求める人々、まともに働いて給料を得たい人々、同じ仕事をして男性と同等の給料を求める女性たちの運動であった」とのべた。さらに自省の意味を込めて「本当に欠けているのは、この国を統治する者の恥である」と強調している。

 

 ちなみに「新自由主義の起点・実験場」となったチリで2021年末におこなわれた大統領選では、「チリを新自由主義の墓場に」と訴えて勝利した左派のボリッチ氏(当時35歳)が「希望が恐怖にうち勝った」「謙虚さと大きな責任感を持って職責を引き受ける」と宣言していた。中南米の左派政治家の発言には、既存の「左翼」のイメージとは異なるある種の大らかさ、大衆との心の通い合いを感じさせるものがある。

 

 このことを、民衆のだれもが持つ希望の灯を大きな松明にするために、「多くのマルクス主義者たちがその過剰な自己確信を克服して、民衆のまえでより謙虚な姿勢をとる」よう求めてきたブラジルの哲学者、教育学者パウロ・フレイレ(1921~1997年)の活動と切り離して考えることはできないだろう。彼の著作『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)と『希望の教育学』(太郎次郎社)をもとに、そのことを考えたい。

 

成人識字教育に尽力 教える側が人々に学ぶ

 

パウロ・フレイレ(1921~1997)

 フレイレは1960年代初頭にブラジル北東部の貧困地帯で「民衆文化運動」に参加し成人識字教育に力を注いだ。その体験にもとづいて著した『被抑圧者の教育学』が農村開発や医療、演劇などの広い領域・分野で、中南米はもとより世界的に影響を与えたことで知られる。

 

 アメリカの言語学者ノーム・チョムスキー教授(認知科学、哲学)は、フレイレの『被抑圧者の教育学』を学ぶ学生たちに、「花瓶に水を注ぐような教育観」を克服し「教育というものが自己発見であり、能力を発展させ、開かれ自立した精神をもって関心と興味を探求すること、これらすべてが他者との協力によって成されるものである、ということについて理解してほしい」と語っている。

 

 フレイレが識字教育に携わった当時の成人識字率は50%であった。政府の識字キャンペーンがほとんど進まないなかで、フレイレの識字サークルに参加した人々は急速に文字の読み書きをマスターしていくという成果をあげた。それは、フレイレたちのプロジェクトがこれまでやられてきた施しのような「無知な農民に文字を教え込む」というやり方をとらなかったことによる。

 

 フレイレたちはまず教える側が農漁民の生活のなかに入り、かれらの知識(民衆知・階級知)を学びどのような場面でどのような言葉を使っているのかをよく調べ、対話を通じて社会全体のなかで自分たちがどのような位置にいるのかを意識化できるようにしていくという方法をとっていた。

 

 当然ながら、フレイレのこのような観点と教育方法に基づく識字キャンペーンが政府に取り入れられていった。

 

 しかし、1964年の軍部のクーデターでフレイレも逮捕された。人々は貧しい農民、漁民が文字が読めるようになり社会の真実を理解することを恐れたのだと語り合った。

 

左翼陣営の傲慢さや権威主義も指摘 

 

フレイレ著『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳、亜紀書房)

 フレイレはその後ボリビア、チリ、スイスなどで長い亡命生活をよぎなくされた。『被抑圧者の教育学』は1968年、亡命先のチリで発表したものだ。その後、多くの言語に翻訳されフレイレとの国境をこえた交流が広がるなかで、学校教育や成人教育はもとより農村開発や医療、演劇などの広い領域で世界的に影響を与えた。さらに、アフリカや中南米諸国の反植民地主義、人種差別反対、民族解放運動のなかでリーダーが民衆を導く指針とされるようになった。

 

 フレイレはその後1982年にブラジルに帰国し、サンパウロ市教育長として公教育改革にとりくんだ。

 

 92年に発表した著書『希望の教育学』は『被抑圧者の教育学』をめぐるさまざまな国や分野での論議、交流を振り返り、その理念を新たにとらえ直すものとなっている。

 

 フレイレはここでも、教育における教師と生徒との関係が政治的リーダーが持つべき民衆への態度にそのまま通じていることを明らかにしている。

 

 そこで注目されるのは、世界に蔓延した新自由主義の影響とかかわって、それを克服する思想を対置させて考察していることだ。

 

 フレイレは、彼の教育思想と方法は当然ながら右翼からの攻撃を受けたが、「マルクス主義」を掲げる左翼側からも攻撃を受けてきたことを明らかにしている。それはとくに70年代に覆った「被抑圧者という概念はあいまいで階級的でない。“階級闘争こそが歴史の原動力である”ということを明確にすべきだ」とか、「民衆知を重視するというのはポピュリズム(大衆迎合主義)だ」というものであった。

 

 フレイレはそれとかかわって当時、「左翼陣営」には自分の主張はすべて正しく、意見の異なる者を排除するというセクト主義がはびこり、民衆の多様な意見や言葉を蔑視する風潮がはびこっていたとして次のようにのべている。

 

 「左右両翼の知識人たちの傲慢さと権威主義を批判すること、――どちらも本質的には反動家であって、ただ前者は自分自身を革命的知識の所有者、後者は自分を保守的な知の所持者と思い込んでいるだけだ――、労働者を意識化するんだと僭称する大学知識人たちを批判すること、――この人たちは、労働者によって自分のほうも意識化されるとは思っていない――、労働者階級の解放の名においてじつは“無教養な大衆”に自分の“優越”した学問知を押しつけようとする知識人たちのあからさまな、じつは脳天気なメシアニズム(救世主信仰)を批判すること、――そうした批判に、ぼくは特段の力を投入してきたつもりだ」

 

 フレイレはさらに、みずからの体験から「自身のエリート主義的な権威主義的なイデオロギーを克服すること、進歩的な知識人が謙虚と一貫性、寛容の美徳を獲得することであって、そうした一貫性を強化することによって、われわれは言葉と行為の距離を縮めていくことができる」と自省的にのべている。

 

 フレイレがこのことを強調するのは、70年代に教条的で画一的な用語を使ってフレイレを批判してきた多くの論客たちがいとも簡単に新自由主義にとりこまれ、「マルクス主義」を標榜して「社会主義は必然的に到来するから、たたかう必要がない」「階級闘争は消滅した」などと、まったく逆のことをいうようになったからだ。そして今度は「多様性の重視」を掲げるが、それは人々を分散した状況に押しとどめ統一と連帯を押しとどめるものとなっている。階級格差がかつてなく広がり、支配階級の抑圧に呻吟する民衆が共同のたたかいを求めて立ち上がっているなかで、「人間の矜持をこめて現状以外の現実を求めてたたかうなどというのは愚の骨頂」だというのだ。

 

民衆の力に不動の確信

 

フレイレ著『希望の教育学』( 里見実訳、太郎次郎社)

 フレイレは、未来の歴史を開く民衆の魂の奥底に渦巻くたたかいのエネルギーに不動の確信を持って次のように表現していた。

 

 「この国で政治の舵を取ろうとしているのは、なんでもありの利権屋たちであり、かれらのお手盛りの“民主化”である。公共性はコケにされ、不法が大手を振って罷り通っている。この状況は今後もますます深まり、一般化していくだろう。とはいえブラジルの国民も立ち上がって、抗議の声をあげはじめている。大人も子どもも街に出て、政治批判をするようになった。……汚職者たちの偽証に対して、民衆は怒りの声をあげている。広場は再々、たくさんの人波で溢れている。ここに希望があるのだ。行動の形は重要ではない。希望は街頭デモのなかにだけあるのではない。われわれ一人ひとりの身体のなかに、それはあるのだ。なりふり構わぬ巨悪をまえにした国民の大部分は、もう押さえきれなくなって、おなかのなかの憤懣を吐き出しているのだ」(『希望の教育学』)

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この記事へのコメント

  1. 石賀 忠勝 ことのばら(ペンネーム) says:

    フレイレたちの指導のもと、ブラジルの農民や労働者の識字率が上がって彼らは社会の不正を見てとり、大統領選挙で左派の勝利を実現する。こうしたことが中南米のあちこちで起きている。
    我が日本では識字率はもともと高い(漢字をまともに読めない政治的リーダーがたくさんいるにしても)のだが、政治に関心がない、社会的公正を目指す運動が起こらない、投票権を行使しない、という人たちがあまりに多い。字が読めることと、自分や地域の人びと、社会や国のありようについて、考えることとはまったく別のようだ。日本式の字を教えるだけの教育では不足、「見る」「考える」「意見を持つ」ことを教えないと、衰退没落途上国の前途はいよいよ危うい。

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