下関原爆被害者の会(伊東秀夫会長)と原爆と戦争展を成功させる会によって、「福田正義記念館」で19日から開催された「原爆と戦争展」は26日に閉幕した。8日間で約700人が参観したが、従来の「原爆と峠三吉の詩」「沖縄戦の真実」「下関・全国空襲の記録」のパネルとあわせて、新しく作製された「第2次世界大戦の真実」のパネルが加わり、ひじょうに衝撃的な反響を呼び起こした。原爆や空襲、沖縄戦もそうであったが、戦地の体験も真実がまったく隠ぺいされてきたこと、戦争体験者もそれぞれ話し合うこともなく初めて知ることばかりであること、戦後初めてそれらの体験者が共通の思いを共有できたこと、そして若い世代が戦争の真実と戦後社会の真実に深い衝撃を受けるものとなった。それは日本の平和のために大きな力を発揮していくことを確信させるものとなった。
戦後社会の真実も浮き彫りに
丸山町から訪れ、5時間近くにわたってパネルを見た婦人は涙を流しながら「毎年、こういう展示をされていることに心から感謝しています」と、深深と頭を下げた。「私達は、天皇は現人神であるということをはじめ、徹底的な軍国主義教育を受けてきたし、戦場に送られて死んでいった人も多数いる。それが、敗戦と同時にコロッと人間天皇にかわり、教育もおかしくなってきた」と語る。父は「戦争には絶対反対だ」といっていたが、自分1人ではどうにもできず、兵隊を送り出すときには、「生きて帰ってこいよ」と声をかけていた。その父は、亡くなるときには「何の為の戦争であったのか」と書き残していた。「これを見ると、そのこと 子供達に戦地での体験を語る安岡謙治氏(26日)
が思い出され、本当に何の戦争だったのかと思う。私達の世代でも知らされなかったことを、多くの人に伝えてほしい」とカンパを寄せた。
最終日の2時からは、「原爆と戦争展を成功させる会」代表世話人の安岡謙治氏が、訪れた北九州の教師と子ども達に自らの体験を語った。
「私は、戦争中飛行機乗りで零戦に乗っていました」と南方での体験を語り始めた。「こちらが10数機で飛ぶところを、相手は200機、300機の編隊で飛んでくるような圧倒的な差があり戦争にならなかった。サイパン島では、日本軍がまだ敵と戦っているのが見えているのに、大本営から“全員玉砕”という報せが届いた。なぜ救援にいかないのかという国民の目をそらしていた」と話した。また、カタツムリや草など本当に食糧はなかったが、自分がアメーバ赤痢にかかり食べてもすぐに下してしまうようなときには、「少しでもたくさん食べた方がいい」と皆が、わずかな食糧を削って食べさせてくれたことを話した。
さらに、現在サイパンやグアムは観光地とされているのに、自分が送られていたテニアン島はそのままにされていることについて、「現在行われている米軍再編と無関係とは考えられない」と語る。「アメリカはこれから戦争になれば(現在基地がある)日本はすぐに狙われると考えて逃げる準備をしている。またテニアン島は、一夜にして広大な飛行場に変えることもできる。アメリカが日本を守ってくれるなど絶対にあり得ない」と強く語った。
そして子ども達に「昔の軍隊ほど厳しくする必要はないが、体は鍛えないといけない。私達は死ぬような思いをしながらも生きてきた。今いじめが問題になっているが、いじめる方も弱いと思うが、いじめられたからといってすぐに自殺してはいけない。戦争をすれば人間性が失われてしまう。戦争は絶対にいけない」と呼びかけた。
体験を聞いた子ども達は「ジャングルの中で植物を食べて、病気になった人に食べ物をあげたのがすごい。戦争中でも絆が強いのがすごい」「仲間のことを考えれば戦争はなくなると思います」と感想を話した。パネルを見、体験を聞いた教師は「毎年新しいパネルが出てくるのに驚かされる。体験を聞き、ついてこれない者は捨てろという教育と、戦場での極限状況におかれながら迷わず仲間を助けらたことに、自分ならどうかと考えさせられた。今、私達が望んではいないのに戦争が迫ってきている。このような戦争体験をどう子ども達に伝えていくかが重要だと思う」と語った。
確信を語る被爆者や体験者 閉 会 式
26日午後5時から閉会式が行われた。事務局を代表して、杉山真一氏が概況を報告。まず、天候に恵まれない中、8日間の参観者は約700人にのぼり、開催前、会期中含め、200人が賛同者に名前を連ねたことが報告された。参観者の内訳では、被爆者、下関空襲体験者、中国や南方など外地に送られた体験者など、戦争体験世代が多数参観したこと、また子ども連れの夫婦や、教師と教え子、青年学生まで幅広い世代が参観した。市民団体、婦人団体、文化団体、「小中高生平和の会」などグループ参加も多数あった。また体験者の中には2回、3回と会場を訪れ5時間、6時間に渡って熱心にパネルを見る姿もあったことが報告された。
続いて下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長があいさつ。「原爆と戦争展」が大きな成果を上げたことへの感謝を表し、自らもパネルを見て衝撃を受けたと発言。「若い青年が、負けるとわかっていた戦争に、赤紙1枚でかり出されて無惨に殺されたことや、アメリカが日本から攻撃させるように仕向け、原爆などで残酷に殺していったことがわかった」とのべた。そして今後ももっと多くの人人に知ってもらうために、引き続き全国で行っていきたいと抱負を語った。
「原爆と戦争展を成功させる会」の代表世話人の藤井日正氏が「長周新聞の方の体験を聞く活動のおかげで、隠された真実が明らかにされた。まことに喜ばしく、戦争で亡くなった方も喜ばれているだろう」と語った。また「700人という参観者は日本の1億人、世界中の何10億人という人人から見れば少ないが、これから毎年、開かれていけば、真実を求める方、戦争反対の方がますます増えていくと思う」とこれからの展望を語った。
最後に、下関原爆被害者の会の前会長吉本幸子氏が「開会式に陸、海、空の体験者が参加されたことが1番うれしかった。こうして原爆展、下関空襲展、戦争展が開かれるたびに、知らなかった戦争の様子、戦争の大きさがわかってきました。硫黄島などは特に悲惨だったと聞きますが、皆さんが国を守るためにどれだけ頑張って下さったか、若い人にも知ってほしい。今回作製されたパネルをここだけのものにせず、大きく発展させてほしい」と期待を込め発言した。
全期間を通じて、戦争体験者の中でも今まで知らなかったほかの人たちの体験が交流され、第2次世界大戦が全体としてどういうものであったか、どのようにだまされてきたのか、何のための誰のための戦争であったかの真実が本音の心情として語られるところとなった。
小中高生平和教室 原爆と戦争展で学ぶ
小中高生平和の会は23日に第46回平和教室を開いた。午前中は下関市の福田正義記念館3階でおこなわれている「原爆と戦争展」を参観し、午後からは戦地での戦争経験を持つ2人の体験者に話を聞いた。今回は、平和の会が学んできた被爆体験、沖縄戦の真実や 高校生がパネルの説明をした(23日)
下関空襲の経験など多くの戦争体験を重ね、「多くの人人が殺された第2次世界大戦とはなんだったのか」という真実に、小・中・高校生をはじめ教師も大きな衝撃を受ける内容となった。
小・中・高校生51人と教師13人は福田正義記念館に集合し、「原爆と戦争展」を参観。戦争体験者の体験を元に編集された第2次世界大戦の真実を明らかにしたパネルを、リーダーの高校生が1枚1枚説明しながら全員で見て回った。『日本の支配層は、負けると思いながら日米戦争に突き進んだ』『大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった』などのパネルを事前勉強してパネルを説明した高校生は、「これまで、真珠湾攻撃を仕かけたのは日本と思っていた。でも、アメリカは日本が攻撃するのを知っていて全部仕組んでいたことが1番びっくりした」「天皇がわざと兵隊を多く死なせる作戦をしていたことを知った」と学校で習うことと全然違うと話した。
午後から、からと会館に場所を移し2班に分かれて体験を学んだ。
間もなく87歳を迎えるという前田勲氏は、16歳で海軍に志願し8年余りのあいだルソン島、ラバウル、トラック島など激戦地での壮絶な経験を涙ながらに語った。昭和16年12月7日の「明日の午前零時に戦争がはじまる」と通告され、みな兵舎に戻って肉親や家族を思い遺書をしたためたこと、「いよいよ死ぬのだと思い、言いようのないさみしさを感じた」と語った。戦地では戦死した部下の骨を持ち帰ることも、通夜さえしてやることもできなかったことが悔やまれ、今でも顔が目の前に浮かんでくるという。指揮官から「部下をかわいがるな」と言われたとき、「自分が死んでも部下は殺させん」と強く思ったこと、制空権、制海権もアメリカにとられているなかで、トラック島に運ばれ武器も食糧もなく「多くの兵隊が殺されるために行ったのだ」と語った。
16歳で予科練に志願した安岡謙治氏(82歳)は、海軍航空隊員としてテニアン島やサイパン島で見た戦争がいかに残酷なものであるかを語った。
サイパン島で日本軍が戦斗しているのに、大本営では「サイパン島突入玉砕せり」と発表し、多くの日本兵を見捨てたこと、弾もガソリンも飛行機もなく、特攻隊は最後は練習機に爆弾を乗せて突っこんでいったことなどを話し、「もう少し早く終わっていれば死者は少なかったはず。優秀な人間をただ死に追いやった。なぜ死ななければいけなかったか…」と戦争責任者への怒りをにじませた。
戦後は「特攻崩れ」と言われたが、「絶対に負けるものか」と多くの戦友の死を胸に日本人としての誇りを持って生きてきたこと、戦争にかり立てた天皇が戦後はアメリカの戦争に協力していったことへの思いも語られた。
現在つなげて強く共鳴 子供も教師も
体験を聞いたあと全員で感想を出しあった。小学4年生の女子は、「1番話のなかで戦争でこんなに人が変わるのだと思ったのは、“骸骨を見ても何も思わない”ということです。今は人が1人死んだら事件になるのに、それがまるであたりまえのように感じるほど、変になってしまっていたことです。何千人の国民が死んでいったのに、戦争をやめなかったのはなぜでしょう? なぜ広島に原爆が落ちてもやめなかったのでしょう? なぜ、長崎に落ちてもやめなかったのでしょう? 早くやめれば何万人と助かったはずなのに。それがとても疑問でした。話を聞いてわかりました」と発表した。
小学6年生の女子は「前田さんはとても責任感が強い人なんだと思った。指揮官の人から“部下をかわいがるな”と言われたとき、“自分が死んでも部下は殺させん”と強く思ったそうだ。“自分だけ生きてはいけない、みんなが元気に帰らないと”と前田さんは言っておられた。前田さんは自分よりみんなのことを考えていて“前田さんはすごいなぁ”と思った」とのべた。
また参加した教師は戦争体験者の戦友に寄せる思いと、戦争を長引かせた天皇をはじめ戦争責任者に対する証言に衝撃を受け、教育者としての思いが語られた。
北九州から参加した教師は、「祖父が太平洋戦争中、南方戦線に出兵していたのですが、肉親ゆえに、詳しいことはなにも聞くことができませんでした。その祖父に尋ねてみたかったことが、安岡さんに聞けたような気がしてなりませんでした。相手にならないアメリカの大きな軍隊に向かう方法は、玉砕(全員で死ぬ)することしかなかった現実、死にものぐるいで食べ物をさがし、見つけた髪のついた骸骨を見ても何も感じることができないほど、マヒした極限の感情。負傷した戦友をおいていくしかない、それが軍隊。仲間も救えない、それほど弱った軍隊の中で、弾があたったらいつ死ぬかわからない状況に、祖父もおかれたのでは、と思いを寄せました。2度と身内(家族)や子どもたちに戦時のようなことをさせたくありません。なぜ戦争が起こったのか、起こったことでどのようなことが起こったのかしっかりと学んでいきます」とのべた。
小学校教師の1人は、「17歳で希望を持って予科練に入られ、その後テニアンでジャングルでのすさまじい体験をされました。そこでは、さとうきびやイモなどがあったときはよかったが、その後でんでん虫やあらゆる物を食べたこと、想像を絶する体験ですが、そのなかで30、40歳の身体の弱い兵隊たちが、“もうダメだ”といって力尽きていくその顔が忘れられないし、またついて来れない者は自決が命ぜられたことを本当に仲間のことを1日も忘れずにおられることがわかった。もっと早く戦争が終わらせられていれば、多くの仲間が死ぬことはなかったと言われた。パネルの中に“兵士が殺されるために連れて行かれた”とあったように、殺されていった仲間を思い、戦争を引きのばしていった者への怒りが、伝わってきた。そういう兵隊としてやってきた人が、バカにされたことにも強く怒りを持たれている。そして子どもたちに、“どんなことも負けるな”“強くなれ”と子どもたちに語られた」と語った。
代表の今田氏は、「これまで学んできた被爆体験、沖縄戦、下関空襲などを重ねて、“あの戦争はなんだったのか”“なぜ負ける戦争をやったのか”という戦争の本質に迫る内容だった。外地での戦争体験者の本当の思いが語られ、教師も学ぶことが多く、子どもたちも表面的でなく深くとらえていた」と語っていた。