長崎市浜口町の西洋館で29日、第4回長崎「原爆と戦争展」が開幕した。「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、若い世代、全国・世界に語り継ごう」をスローガンにおこなわれる原爆と戦争展は、主催者である原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会をはじめ、これまでに130人に及ぶ賛同者の手によって市内で取り組まれてきた。「日本をふたたび原水爆戦争の戦場にさせるな」という被爆市民の切実な思いが行動となり第2次大戦、原爆投下の真実を若い世代に語り継ぐ機運が盛り上がり、若い世代の深い共鳴を呼び起こしている。
午前10時。開幕と同時に、賛同者、スタッフら約20人が集まって開会式がおこなわれた。
はじめに主催者を代表して永田良幸会長があいさつ。永田氏は、爆心地から500㍍の城山町の自宅で両親を含めて6名の家族を失ったと話し、「長崎では本当のことを語りたい人はたくさんいるが、原爆だけでなく、戦争被害者である軍人や空襲体験者もこれまで沈黙させられてきた。3年前から地道に長崎で活動されてきた下関の方方や広島の協力で今日の日を迎えることができた」と謝辞をのべた。
さらに、「アメリカは広島型と長崎型は違う原爆を投下し、完全なモルモットにした。日本には竹ヤリしかなく、戦争が終結することがわかっていてなぜ2発も落としたのか。今年は声を大にして、戦争体験、戦災孤児、遺族の方方もともにアメリカに謝罪を求めたい。アメリカは日本を植民地にした。政治家はアメリカに頼っているが、一般国民は泥沼に突き落とされ、毎年3万人が自殺している。なぜ、戦争を起こしたのか。どうして現在の日本があるのかを私たち体験者が伝えなければいけない。これまで以上の原爆と戦争展にしていきましょう」と訴えた。
共催者として、原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長、下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長からの連帯のメッセージ、続けて金子原二郎知事、田上富久市長のメッセージが代読された。
続けて、準備に関わってきた長崎市内の被爆者を代表して、菅源寿、山下諫男の2氏、また戦地体験者として島川秀男氏が開催にあたっての意気ごみを語った。
菅氏は、「15歳で被爆し、これまで生きてきた。昨年、広島や下関の人たちの熱心な援助をいただき、今までは私がしなくてもいいと思ってきたが、原爆を知っている最後の世代として生きている限りがんばり続けたいと決意している」とのべた。
山下氏は、何の罪もない子どもや老人、女まで何十万人もの市民が焼き殺された原爆投下から63年たったが、「これは一握りの為政者、要人の発案によってひき起こされた戦争が原因だ。大切なことは次の世代の教育にある。戦争はかっこいい、おもしろいという話を耳にするようになったが、政治家にもこんな感覚の持ち主がゴロゴロしている。戦争の悲惨さ、残酷さをしっかり理解してもらうためにがんばりたい」とのべた。
島川氏は、昭和18年に相浦海兵団に入団し、3年6カ月におよんだ南方での軍隊生活の実情を語り、「ミッドウェー、ガダルカナルの玉砕以後は、南方では全滅が続き何百万という尊い命が犠牲になった。そのうえに現代の私たちは生きているが、この犠牲を無駄にさせないためには二度と戦争を起こしてはいけない。戦争体験者として、地球がある限り平和を訴えたい」と力強くのべた。
大学生も集団で見入る
初日は、中高生、大学生、子どもを連れた親たちなど若い世代の姿が多くみられ、孫の手を引いてくる年配者、被爆者、戦地体験者など250人の市民が集団で参観に訪れた。
若い世代からは、祖父母から聞いてこなかった体験を学ぼうとする真剣さと、第2次大戦の真実とアメリカによる占領、そしてまともに働いても生きていくこともままならない荒廃した現代社会とを結びつけ、強い変革要求が語りあわれた。学生を中心に17人が新たに賛同者となった。
熱心に参観していた40代のサラリーマンは、「最近のアメリカ迎合を見直すべきだ。日本人にあった道徳心や卑怯なことを嫌い、人のことを思いやる心は、アメリカ的な実利主義で荒らされた。最近の殺人事件の多さをみても、日本はアメリカに原爆で単独占領され、物質的には立ち直ったようにみえるが表面だけだ。1番大切な教育や文化、政治そのものをアメリカに握られている。これをとりもどさないと日本はますます荒廃していく」と思いを語った。
幼児を抱いた20代の父親は、「長崎に住んで6年になるが、原爆の実相を学ぶ機会がほとんどなかった。アメリカが戦争をするたびに日本はぼう大な金を出している。もっと原爆や戦争の経験を前面に出して外交をするべきではないかと思う。長崎では広島に比べて被爆遺構が少ないが、この子が大きくなったとき本当に体験を伝えるすべがなくなる。日常生活の中で戦争のことを学ばないといけない」と語り、家族と一緒にふたたび参観することを告げた。
また、学生たちが集団で訪れてメモを取りながら真剣に参観し、会場にいた男性被爆者の体験を熱心に聞き入った。
孫や家族を連れてくる年配者たち、「戦争を生き残った世代として、いまこそ体験を語り継がなければいけない」と体験を語りはじめる被爆市民の行動も熱気を帯びて広がっている。
3世代の交流も広がる
小学生の孫に熱心に語りかけながらパネルを見せていた年配婦人は、父親が昭和19年7月に召集され、昭和20年1月にビルマで戦死し、家族は西琴平の自宅で被爆したことを語り、「私たち4人兄弟は母親1人に育てられた。父からの最後の手紙には私を学校の先生にしろと書いてあったがそれどころではなく、家は原爆でめちゃめちゃにされ、戦後は私が幼い弟たちを学校に連れて行って机の横に座らせて授業を受け、食糧難になれば学校を休んで田舎まで物物交換に出かけるほど貧乏だった。お腹がすいて眠れない日もあった。そういうことをこの子たちに伝えたいと思って連れてきた」と話した。
「父親をわずか半年の間に殺されたが、その苦労があるから何でも乗り切ってこれた。戦争で苦労した人がいなくなったら、日本はつぶれると思う。最近は、凶悪犯罪が身近で起こる物騒な時代になったが、学校でもこういう教育をしてほしい」と涙ながらに思いを語り、賛同者となった。
一家を引き連れてやってきた80代の男性商店主は、「なにがなんでも見にこようと娘、孫、曾孫など6人でやってきた。私は中学3年で特別幹部候補生になって奈良の予科練にいって生き残ったが、たくさんの戦友が死んでいる。きょうは家族にそれを伝えたかった」と語った。一緒に来た娘は、「母も原爆にあっていたが、今日は実際にパネルを見て、両親の体験をはじめて知ることができ感銘を受けた」とのべた。
77歳の婦人は、「この通りだ。姉は電話局から朝帰りで顔にひどい火傷を負った。顔が引きつったままの姉は、家の中で洋裁をして生きてきた。私も、顔と腕を焼かれ、首と腕と指は引きつって、何度も手術して、50歳過ぎて良くなった。2㌢くらい盛り上がった腕の傷を見て、ナマコのようだといじめられた。“腕を切ってほしい”と泣いたが、母から手はある方がいいから我慢しなさいといわれた」と語りながら、腕に残るケロイドを見せた。
「日本が戦争をしかけた結果だと思ってきたが、このパネルを見て、原爆投下やその後のABCCのことなどアメリカは占領するためにやったのだとはっきりわかった。長崎では8月9日は登校日だったが、被爆体験を子ども達に伝えなくても良いといわれ腹が立ってしょうがなかった。孫や、子どもたちに言い聞かせていきたい」と語り、賛同協力を申し出た。
先日、キャラバン隊の街頭展示をみて賛同者となった被爆2世の男性は、「叔父が終戦直前に兵隊にとられて硫黄島にいき、何1つ帰ってこなかった。アメリカのオレンジプランを日本の上層部が受け入れて、日本は根こそぎやられた。日本を戦争に駆り立てたのはアメリカだし、経済制裁はアメリカのもっとも姑息な手段だ。日本でも下山事件、松川事件、全部、裏ではアメリカが動いている。労働組合も弱者から離れて、まったく力をなくしている」と語り、「この展示をみて体が震えてくる。ぜひ8月6日には広島にいきたい」と申し出た。