広島県呉市の百貨店そごう5階・イベントプラザで1日、第4回原爆と戦争展が開幕した。主催は、原爆展を成功させる広島の会(重力敬三会長)と、呉市傷痍軍人会(佐々木忠孝会長)で6日までおこなわれている。
戦時中には呉鎮守府が置かれ、歴史的に軍港として多くの犠牲者を出している呉市では、4年前からはじまった原爆展のなかで、戦没者の供養とともに、これまで語られなかった戦地体験や空襲体験が溢れるように語られはじめ、被爆者と戦地体験者の共同の取り組みとして原爆と戦争展が定着してきた。
最近では、日米共同訓練、イラク・アフガン戦争のためにインド洋に展開する米軍艦船への無償給油活動、ソマリア沖の海賊対策に海上自衛隊呉基地から自衛隊艦船が出航するなど米軍の下請港としての色合いが強まっている。それは、極東最大に拡張されようとしている岩国基地と連動して、広島湾一帯を米軍の核攻撃基地にする動きとして市民は警戒心を強めている。
今回の原爆と戦争展には、広島市や呉市、江田島市などから、原爆展を成功させる広島の会の被爆者や傷痍軍人会、傷痍軍人妻の会の会員をはじめ自治会長、老人クラブ連合会、女性会連合会、医師会、商店街振興組合、保護司会、郷友会、殉国の塔保存会、元呉海軍工廠動員学徒など114人が賛同者として名を連ね、幅広い市民の手によって準備が進められてきた。
主催者や市民など約30人が参加した開幕式では、重力敬三・原爆展を成功させる広島の会会長があいさつし、「原爆被害者の生き残りの責任として、原爆の怖ろしさと残酷さを後世に伝えるため、2001年から広島市内で原爆展をおこない広島の面目を一新してきた。アメリカの大統領が替わっても、日本への占領、圧力は変わらない。岩国での米空母艦載機の発着訓練の動きは、私たちの力で排除しなければいけません」とのべ、そのためにも原爆と戦争展を大成功させることを呼びかけた。
つづいて、被爆者を代表して安藤久雄氏、呉空襲体験者として高橋節子氏、戦地体験者として海軍航空隊に所属していた森田賤雄氏があいさつした。
安藤氏は、被爆から11日後に広島市に入り、駅から似島が見えるほどの焼け野原に驚き、女子挺身隊の一団は体中がボロボロで男女の区別さえつかないほどのありさまだったことをのべ、「峠三吉のパネルは真実だ」と共感をのべた。
高橋氏は、昭和20年6月22日に米軍機による呉空襲を受け、どの防空壕も満員で入れず、やっと4カ所目の防空壕に入ったが、満員だった防空壕は焼夷弾の直撃を受けて全滅した事実を語り、「沖縄などには立派な慰霊碑があるが、呉空襲にまつわる慰霊碑は呉では知られていない。アメリカは戦後を見越して、呉海軍工廠の中でも造船部門は無傷で残し、造兵部門は徹底的に壊滅させた。それは、戦後自分たちが利用するために計算していたのだ。こういう事実をもっと知らせなければいけない」と語った。
会場には、年配者や親子連れなど3日間で500人を超える市民が訪れ、広島市内からも「広島の会」の被爆者や会員たちが運営にたずさわり、呉市内から参加している空襲体験者や戦地体験者とともに市民に体験を語りかけている。市内の学校から訪れた教師たちも、体験を学び、「ぜひ学校でも開催したい」と申し出る姿もみられた。
気象観測兵として海軍航空隊に所属していた男性は、昭和20年1月に激戦地のフィリピンに送られる途中、待ち受けていた米軍の魚雷とグラマン機による襲撃を受けて、台湾に避難した経験を語り、「こんなむごい戦争はなかった」と語り出した。
「先に行った数百名の航空隊はフィリピンで行方不明になり後から玉砕したとわかった。私たちの輸送船には、ベニヤ板でつくった人間魚雷を積み込んでいったが、船倉には約2000人の兵隊がすし詰め状態で押し込まれていた。現地にたどり着くまで何日かかるかわからないため水も飲めない、風呂にも入れないという過酷な生活をしていたときに、米軍からの魚雷に襲われ、500人を乗せた陸軍の輸送船は撃沈された。グラマンは逃げる相手には撃ち殺すまで何度でも狙ってくる。生きた心地がしなかった」と話した。
また、台湾ではマラリアで40度を超える高熱が出て、野戦病院に送られたが、「薬も食料もないので“死を待つ場所”でしかなかった。マラリア、赤痢、栄養失調などで毎日のように兵隊たちが1人、1人と死んでいく。死ぬ間際に“絶対に本土の家族に伝えてやるからな”と手を握ってやっても、全国から集められた兵隊がどこの人間かもわからず伝えられなかった。それが今でも悔やまれる」と涙をにじませた。
また、「岩国の米軍機は呉の上空もわがもの顔に飛んでいく。政府は、年寄りを後期高齢者といって高額の税金をふんだくり、市民税も4000円から7000円に膨れあがった。これだけ国民を食べていけなくさせて、どうして米軍に基地を提供したり、無償給油する必要があるのか。呉は、気候条件がよくて米軍が軍港として狙っているのは間違いない。これは岩国だけの問題ではない」と力を込めて語った。
呉空襲の体験者も語る
呉空襲を体験した70代の男性は、「アメリカという国は、国民世論を操作するために真珠湾攻撃をわざとやらせて、リメンバーパールハーバーといったが、9・11同時テロでも、同じ事をやった。そして標的にするのはいつも非戦斗員の女や子どもだ。東京裁判で、自国の捕虜に対する待遇が悪かったという理由で絞首刑にしたが、アメリカは原爆や無差別爆撃でどれだけの罪のない人間を殺したのか。これがなぜ問題にされないのか不思議でしょうがなかった」と語る。
「この平和ボケといわれる時代になったこういう時にこそ大切な内容だと思う。国民のことを少しも考えていない政治家ばかりだが、日本は金を出す前にアメリカに戦争の償いを求めるべきだ」と語り家に保管している軍服や硫黄島から持ち帰った遺品などを提供することを申し出た。
また、会場には、昭和20年6月22日に米軍爆撃機B29約290機の猛爆撃によって殺された呉海軍工廠の女子挺身隊動員学徒476人を祀る「殉国の塔」の資料も展示され、関係者たちも多く訪れた。
「殉国の塔」は、各地から集められた10代半ばの女子挺身隊学徒たちの無惨な亡骸が海軍工廠用地に埋葬され遺族や生存者の手によって木標が建てられていたが、遺族の提案によって石塔となり昨年、幅広い市民から寄付を募って市民が安心して参拝できる場所に移された。呉空襲では、数千人という犠牲者を出しながら公の資料が少ないなかで、「なんとしても末永く霊を弔い、後世に伝えていきたい」と願う市民有志の手によって管理されてきた。
発起人の婦人は、「476人の犠牲者のうち、名前が判明した245人の名前だけを碑に刻んでいる。主人も海軍工廠で爆撃にあって病院に入れられたが、家族でさえ面会が遮断された。当時から、徹底した秘密主義で空襲のことを語らせないようにしてきた」と話す。
また別の婦人は、「市や県にきいても個人情報だからという理由で死没者の名前は教えてもらえない。沖縄や全国の慰霊碑は死没者の名前が刻まれるのが普通だが、呉ではそうはいかないようだ。だから、お寺の帳簿を調べて、人づてにたどっていって名前が判明した。戦後60年以上もたってこんなことも許されないのかと思うと腹立たしい」と語り、この展示会を契機により多くの市民に空襲の真実を伝えていく意欲を示している。