長崎市民会館で21日、第13回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会など)が開幕した。会場には、被爆者、空襲や引揚体験者、被爆二世、戦争遺児をはじめ、主婦や親子連れなど幅広い年齢層の市民が訪れ、戦争と原爆投下の実相と向きあいながら、今後の日本社会の進路をめぐる真剣な論議をおこなっている。72年前の深刻な体験を鮮明に蘇らせ、戦争体験世代が高齢化するなかで政府が進める武力行使の容認や、憲法改定の動きへの強い危惧が共通して語られ、再び悲劇をくり返させぬことを誓う被爆市民が切実な思いを寄せている。
「政治家はこの惨状を見よ」
開幕式では冒頭、原爆展を成功させる長崎の会の河邊聖子会長代行が挨拶した。
河邊氏は、「今年で13回目を迎える。ここまで積み重ねてきた皆さんの努力に感謝したい。あれから72年になるが、私たちの脳裏に刻まれた経験は何一つ色あせることなく、これらの写真を見ただけで当時の臭いまで蘇ってくる。政治家は口では“二度と戦争をしてはならない”といいながら、実際の言動は戦争をしたいという願望しか感じないほどおかしくなっている。発言するのなら、まずこの惨状を見たうえで、責任のある言葉を発してほしい。実際に体験した者がくり返させないようにするのが役目だ。しっかり見てもらい、二度と戦争をしないように頑張りましょう」とのべた。
続いて、共催する原爆展を成功させる広島の会の高橋匡会長、下関原爆被害者の会の大松妙子会長のメッセージを紹介した。
高橋氏は、「被爆から70年の節目の年に、あれだけ反対のあった安全保障関連法を数の論理で強行採決した安倍政権が、またしても国会軽視の中間報告という異例の手続きで、組織犯罪処罰法を採決するという国会を私物化した暴挙。また、世界各国が団結しておしすすめようとしている核兵器禁止条約に、世界で唯一の被爆国である日本政府が不参加を表明するなど、国民感情を無視した行為に腹立たしい思いでいっぱいだ」とのべ、生き残ったものの使命として「一瞬にして散っていった被爆者の無念、もがき苦しんで逝った被爆者の実態は絶対に忘れてはならない。生きている限り、次世代への伝承を続けていかねばならない」と強調。「あの日の出来事を忘れたとき、再びあの日がくり返される」と結んだ。
大松氏は、「お国のためと欺されて尊い命を失った幾百万の若い人人の思いに報いるためにも、二度と戦争をくり返させてはならない。そのために、私たち被爆者・戦争体験者が真実を伝えなければならない。高齢化し、年年語ることが困難になっているが、子どもたちの平和な未来のために、ともに頑張りたい。体験者の責任において、平和を覆す者とたたかおう」と力強く呼びかけた。
開幕にあたって市民や賛同者が意見や決意をのべた。
長崎の会の中里喜美子氏は、「5歳のときに島原から巨大な煙が上がるのを見て、市内に帰ると浦上川は死体がたくさん浮いていた。戦争の怖さや苦労を知らない政治家が平気で戦争を進める準備をしていることに腹の煮える思いがする。この原爆展があることで昔のことを思い出し、大切なことを子や孫に伝えることができる。感謝したい」とのべた。
2歳のときに長与駅前で被爆した柳原光代氏は、「放射能の影響で髪の毛が抜けたり、生死の境をさまよったため、鍼灸治療をさせたことで九死に一生を得たと母から聞いている。四〇代のときに癌ともたたかった。関西から4年前に長崎へ帰ってしばらく距離を置いていたが、この原爆展に来て、私たちが伝えなければいけないことだと肝に銘じるようになった。後世に伝えるために手助けをしていきたい」と決意をのべた。
劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』公演(6月25日・川棚町公会堂)をとりくんでいる東彼杵町在住の婦人は、女学校2年生で三菱兵器大橋工場に動員されており、「12時に整列して交代する予定だったが、爆心地から3㌔の自宅にいて昼ご飯を食べているときに飛行機の爆音がした。表に出て空を見上げると同時に原爆の光が炸裂した。その後、三菱にいた兄を探しに父と大橋工場に向かったが、現在の長崎大学教育学部と純心高校のあいだの道には、多くのけが人や死人が寝かされて、ムシロがかけてあった。それを一つずつめくって顔を確かめながら兄を探した。涙も出ないし、怖くもなかった。それでも兄は見つからず、父と自宅へ帰った。これまで体験を話したことはなかったが、この縁をきっかけに今からお手伝いできればと思っている」と抱負を語った。
会場には、「第二次大戦の真実」「原爆と峠三吉の詩」など150枚のパネルとともに、広島や長崎市民から寄せられた被爆資料や体験記、さらに、長崎在住の井上幸雄氏が、被爆当時に自身が見た光景を描いた10点の絵を展示。教職にあった同氏が子どもたちに伝えるために描いたもので、被爆直前の自宅(東上町)の様子、弟妹を連れて避難する過程で見た炎が迫る街、炎上する長崎市街地、負傷した子どもを抱えた母親や全身が焼けただれた市民の姿などが大判模造紙いっぱいに描かれ、当時14歳の脳裏に焼き付いた強烈な印象そのままに見るものに訴えかけてくる。
また、被爆翌年、東本願寺長崎教務所に収められた2万体の遺骨の収集記録をまとめた「非核非戦記録集」(6月発行)も、同長崎教務所からの提供で展示に加えられた。
また、「被爆市民と戦争体験者の心を若い世代に伝えよう!」「原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!」「日本を原水爆戦争の盾にするな! アメリカは核と基地を持って帰れ!」と大書したスローガンも掲げられ例年以上に切迫感をもった被爆地の思いと重なって共感を集めている。
犠牲者の怒りとともに 行動求める参観者
宣伝に携わった賛同者をはじめ、開幕を待ち望んでいた市民や旅行者、外国人などさまざまな人人が会場を訪れ、展示内容に強い衝撃や共感を示すとともに、昨年からさらに加速する国の戦時体制づくりへの切迫した危機感や戦争を食い止める行動意欲を語った。今月、本紙が発行した古川豊子氏の手記『あざみの花』や鎌倉孝夫氏(埼玉大学名誉教授)の『トランプ政権で進む戦争の危機』などの書籍も並べられ、「被爆二世として、被爆体験を語らなかった親たちの思いを知りたい」「なぜ戦争の危機が接近しているのか勉強したい」と注目を集めた。
10歳で城山で被爆した82歳の婦人は、「爆心地から700㍍の地点で厚い壁の農家の納屋にいたときにオレンジ色の光を感じ、そのまま崩れた家屋の下敷きになった。だが、直角に折れ曲がった梁の間に入っていたので押しつぶされずに済んだ。1時間くらい意識を失っており、友人の兄に引きずり出された。同じ家にいた友だちは全身を焼かれてその日中に亡くなった。父は中島川沿いの築町通りで玩具問屋をしていたが、強制疎開のため城山に家を新築しようとしていた。油屋町から城山に向かう途中だった父の体には124ものガラス片が突き刺さり、24時間意識不明だった。“もう無理よね”というまわりの人の声が聞こえていたが、心配してくださった方も次次に原爆症で亡くなった。父は喉の静脈が切れており、シーツをそこにつめてもらって生きながらえた」と話した。
母と妹が疎開していた油屋町の玩具倉庫に向かったが、「馬がひっくり返って目玉が飛び出していたり、電車の中の人が鈴なりになって化石のように焼け焦げていた。死体がゴロゴロとしていたのが忘れられない。戦後は、被爆したことで縁談はすべて断られ、結婚はしないと思っていた。被爆者の夫と結婚した後も子どもが差別を受けないように手帳も取得しなかった。3人の子どもが生まれたときは本当に心配した。子どもたちには原爆のことは話さずにきたが、これからは伝えていきたい」とのべた。
同伴した妹にあたる婦人は、「国会で277項目もの共謀罪法案が可決されたが、その内容についてマスコミは詳しい報道をしなかった。だから身近に感じることができなかった。国会の論戦ではよくわからなかった。これほどの戦争の犠牲を生んだ教訓から、議員は何も学んでいない。安倍首相は戦争を何も知らず、国民の将来のことも関係ない。この決定が10年後にどういう結果をもたらすか心配でならない。自民党は数の力でゴリ押ししているが野党も頼りなく、みんなが行動しないといけない」と語った。
被爆二世の男性は「毎年観に来ているが、これほどの経験をしながらまだ原爆を造ろうとか、原発を推進している政府が理解できない。まして世界で唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約の会議にも出席しないというのは恥でしかない。安倍首相は平和を厳守するといって平和憲法を変えるとか、高齢者の負担を減らすといって年金を削るとか、口先と行動が真反対。こんな首相はこれまで見たことがない」とのべ、「毎年続けて欲しい」と期待をのべていった。
60代の婦人は、「これまで関心を持たないことはなかったが、強烈に考えさせられることばかりだった。私の祖母は原爆で亡くなった。川平に遺体が運ばれて荼毘に付されたが、他の遺体と一緒に焚き火のように焼かれたのだと思う。一昨年、被爆70年ということで墓を開けてみたが、祖母の遺骨は骨壷に到底入らないほどの大きさだった。何万人という人たちが殺されたため、十分に火葬することすらできなかったのだ。この経験を安倍政府はどのように捉えているのだろうか。明らかに戦争をしようとしている。私には孫がいるが、再び同じ道を歩ませるわけにはいかない。親からもよく聞いてこなかったが、しっかり学んで、そんな道を許さないために何とかしていきたい」と強い口調でのべた。
涙を拭いながら見ていた50代の婦人は、「見るのがつらくて、何度途中でやめようと思ったか知れない。でも、広島・長崎で犠牲になった人たち、福島で原発事故の犠牲になった人たちのことを本当に私たち自身のものにして、怒りをしっかり胸に刻んでいかないといけないと思う。今の政府に任せていたら、絶対に戦争に行き着くと思う。それを許さない力にしていきたいと思いながら、涙をこらえながら読ませてもらった」とのべた。
3・6㌔地点で被爆した八八歳の婦人は、「その当時は軍国少女だった。多くの人が死んでいくことは知っていたが、疑うというよりも、それが国のためだと思っていたし、そのように教育された。多くの知人や友人を原爆で失い、生き残った自分がやるべきことは、二度と欺されないために真実を伝えることだし、被爆者としての思いを伝えることだと思う。最近も、国民を欺く同じ空気を政府や報道から感じる。平和のためにできることをやりたい」と真剣に語り、賛同者に加わった。
平和を願い厳粛な誓い 米国人の学生たち
東京から演劇公演にきた男性俳優は、「長崎、広島の人たちが発信することが今の時代にいかに重要であるかを思わずにおれない。国民の目と耳をふさぐための秘密保護法が制定され、安保法制が決められた。そして、今度は人の心を監視、支配する共謀罪が制定された。これに抗うための力が必要だ。私は昭和39年生まれで、親の戦争体験をかろうじて知りうる世代の最後だ。母は満州からの引揚者で、父は満州で学校の校長をしていた。母はたった11歳で大きな荷物を背負って帰ってきた福井で空襲にあった。83歳のその母が、最近の動きを危惧して、これまで語ってこなかった体験を語り出している。この展示は、非常に重厚で、峠三吉の詩や体験者の言葉一つ一つの言葉の力を感じる。私たち文化人もできることをしていきたい」と共感を示していった。
別の演劇人たちも「安倍も稲田も極端な右傾化だが、私も国会前の行動に何回も参加した。今日のニュースで憲法九条を変えようとしていることをはじめて知った。だが、この原爆で亡くなられた人の犠牲によって得た平和を失うことは、二度殺すことになる」「原爆資料館の内容は一般的なものだが、このパネルは個個の実体験に基づいているため、より深層の真実が説得力をもって感じられる。これほどの内容は資料館ではわからない。ぜひ続けて欲しい」と共感をあらわした。
大学のサマーセミナーで長崎を訪れた米国人の学生グループも、涙を流しながら展示パネルを参観し、次の様な感想を記していった。
「戦争で倒れた方方へ―私はアメリカが起こしたすべての苦しみについて謝りたい。あなた方の死は決して忘れ去られることはない。あなた方が出会った恐怖と悲劇は本当に悲しいことだ。しかし、これからのものにとって、そこから本来はどうあるべきなのか教えるきっかけになることを願っている。
被爆者の方方へ―私はあなた方が受けなければならなかった恐怖や痛みを想像することはできません。その苦しみから立ち直ることは、私ならとても耐えられないものです。しかしそれは、私が今日、学ぶべき教訓となってここにあります。私は謝罪とともに、心のもっとも深いところから、これからの世界により大きな平和と愛とを広げていくことを誓います」(米国・男子学生)
「私は平和を願います。戦争で失われたすべての命のために、泣き、祈りたい。生活をともにしてきた家族が受けた苦しみを想像することはできない。唯一できることは、かつての失敗から学び、今日をお互いが平和に生きていくように学ぶことだ。戦争と強欲とは苦しみをもたらすだけだ。私は我が国のリーダーと政権にある人たちの行動を恥かしく思う。彼らの行動は否定的な影響しかもたらさない。必要のない苦しみを負った人人を思うと悲しくなる。しかし私たちは、ひたすら平和のスタートをめざして学び、願い続けるだろう」(米国・女学生)
「この展示を見ることができたことを感謝したい。たくさんのことを学んだ。戦争でなんと多くの命が失われ、家庭が壊され、涙が流されたことか。これらの文章、写真、詩の数数は、世界に戦争の恐ろしさを教えてくれるだろう。世界から戦争がなくなり、人人の命が奪われないことを願っている。戦争は心の痛みと不幸以外に何も生み出さない。地上には平和が必要だ。失われたすべての命が尊厳をとり戻し、記憶に残されることを願う」(米国・女子学生)
原爆と戦争展は26日までおこなわれる。25日の午後1時30分からは、広島・下関の被爆者を招いて交流会が開かれる。