【山口】 劇団はぐるま座『峠三吉・原爆展物語』山口公演が10日、山口市民会館で開催(昼と夜の2回上演)され、被爆者、戦争体験者、遺族会、老人会、婦人会、PTAなどの各組織、教師、公務員、労働者、小中高生と学生など各層市民550人が観劇し、大きな成功を収めた。
山口公演のとりくみでは、遺族会をはじめ、老人会、婦人会、PTA、教師、公務員など各層市民のなかに、台本普及が進められ、台本を読んで感動した人たちが実行委員に積極的に名を連ね、戦後六五年たった日本の現状と現状打開をめぐって活発な論議が起こっていった。
また、あらゆる場を活用して、作品の内容を紹介した紙芝居がとりくまれたほか、市内各所に1000枚のポスター、チラシ1万5000枚が配布されるなど精力的な宣伝が展開され公演にむけて盛り上がっていった。
とくに遺族会、戦争体験者のなかでは、第二次大戦で犠牲になった320万の戦没者とその遺族の戦後の苦しみが、深刻な教訓として今日まで、本当に生かされてこなかったことに対して、「このままでいいのだろうか」「このまま黙って死んでいくわけにはいかない」という思いが募っており、「この作品はそうした気持ちにピッタリで、元気づけてくれるものになる」との期待を高めた。
また、退職教師などが、かつての教え子の家庭を訪ね、台本を普及し、その内容をめぐって3世代を交えた活発な論議が、あちこち起こっていったことは、『峠三吉・原爆展物語』が、戦後65年たった日本の現状とこれを打開していく展望を、世代をこえて与えてくれるものになる、との確信を強めるものとなった。
実行委員会のなかでは、以上のような内容が活発に交流・論議されたほか、配券、売券を旺盛にとりくんだ実行委員からは、「劇中の原爆展スタッフの役を現実社会のなかで演じているような気持ちだ」などの意見も出され、圧倒的多数の大衆のなかに作品を持ち込めば持ち込むほど、勇気と確信になってくるとの論議にもなった。
山口公演の上演に先だって、実行委員会を代表して、山口市連合遺族会山口支部長の新宅儀次郎氏が、「第二次大戦では、多くの国民が犠牲になり、残された遺族も戦後は大変苦労させられた。また、敗戦がはっきりしている段階で、老人、婦人、子どもなど何の罪もない者を一瞬のうちに大量に焼き殺した広島・長崎への原爆投下をおこなったアメリカに対して怒りを新たにしている。こうした体験は、必ず語り継がれ、独立した平和な日本を実現していかなければならない。現在の日本は本当の平和とはいえない。劇をとおして真実を知り、平和な日本を実現していく力にしてほしい」と、遺族としての気持ちを込めたあいさつをおこなった。
幕が開くと、会場は静まり返り、舞台の進行に釘付けになった。一幕が終わったところで、大きな拍手が起こり、二幕にむけての興奮が高まっていく様子であった。
最終場面が終わると、劇をとおしてはじめて知った原爆と第二次大戦の真実、現状の日本社会を打開していく展望を与えられた新鮮な感動の大きな拍手が起こった。
また、カーテンコールで劇団代表が、「劇団の本部がある山口市での公演を成功させることができて大きな力となった。これをバネに、さらに全国各地での公演を展開し、独立・民主・平和・繁栄の日本社会実現の運動に貢献していきたい」と決意をのべると、会場から激励の大きな拍手が送られた。
行動へ意欲溢れる 感想交流の座談会
終演後、会場ロビーで座談会がおこなわれた。戦争体験者や母親、大学生や若い労働者などが参加し、感動冷めやらぬ思いとともに、今後地元の劇団であるはぐるま座が日本を変える劇団として活躍することへの期待や、ともに行動していく意欲が語りあわれた。
前作『動けば雷電の如く』小郡公演をとりくんだ男性は、「父が沖縄戦で戦死し、沖縄戦遺児として遺族会に所属しているが、普段気にかけていることを劇でいってもらった」と感無量の思いを語った。「峠三吉だけでなく、戦争自身の劇で当時のことがよく表現されていたので、もっと同世代の知人に声をかけたらよかったと思っている。これからの日本をどうしたらいいのか、答えを出す時代にさしかかっている。私たちも勉強し、間違いのない方向に進んでいく必要があると思う」とのべた。
80代の元国鉄労働者は「今日の舞台は役者の演技もはっきりして迫力があり、胸に染み込む内容だった。当時私も広島におり、7月30日に神奈川に移ったから原爆にはあわなかったが、今の子どもたちに戦争がどれほど残酷なものか、教えていかないといけない。今日は会場にたくさんの子どもたちがいたからよかった」と喜びを語った。そして「沖縄の基地問題もあるが、そのもとは安保条約だ。私たちも60年安保斗争に参加した。樺美智子さんが亡くなったが、国民が国を動かす大斗争に参加したんだ。当時の総理自身も“これは危ない条約だ”と思ったというが、われわれ国民を犠牲にしてアメリカに従ったのだ」と語り、当時のような国民的な運動を広げることへの期待をのべた。
老人会の80代の男性は、「私は終戦のとき大刀洗で特攻機に乗っていた。3回出撃命令を受けて知覧に行ったが、3回とも中止になり、いつ出るか、いつ出るかと待っているところで終戦になった。戦友たちをだいぶ送ったが、はぐるま座の方が大衆的な活動をぐっとやってくれれば、戦争は本当に阻止できるのではないかと思う」と深い確信を語った。
鍛冶屋を営む80代の男性は、劇の終盤の広島場面で流れる宣伝カーの「アメリカは核を持って帰れ……」という声を聞いて当時の事を思い出したことをのべ、「山口市内の各学校に機械を集めて動員学徒が部品をつくる指導者をしていたが、あるとき機械が動かなかったので、“これはモーターがおかしい。60サイクルだ”というと、陸軍の憲兵隊が来て、“貴様、敵国語を使ったな!”と引っ張って行かれた。それが8月5日頃だったが、8月15日を境にてのひらを返したようにアメリカ様様になった。そのことが今日の劇で演じられ、非常にうれしかった。一番教育が大事だ。日本には日本の良さがある。それを、子どもたちに教えていかないといけない」と語った。
公演のとりくみで劇団員が山口市内を一軒一軒歩くなかで出会ったという湯田に住む婦人は、叔父が光海軍工廠から命令を受けて移動する最中に米軍の機銃掃射を受けて頭の中に破片が残り、戦後仕事もできない体となったこと、証人がいないため国が長い間認めようとしなかったことを語り、「叔父がいつも“アメリカが憎い”という。低空飛行で笑いながら撃ったアメリカ兵の顔を今でも覚えているという。笑って人の人生をめちゃくちゃにした」と、憤りを込めて語った。「叔父は82歳だからあと何年生きられるかわからないが、私は叔父にかわって発言しようと思う。今日、若い方が一生懸命演じておられ、まだまだ日本も捨てたもんじゃないと思った。教育が一番大事。物があふれ、豊かに見える日本だが、物さえあればいい、勉強さえできればいいというものではない。こういう原爆展を若い人が見ることですごくいい勉強になるのではないか」とのべた。
市内の女子学生は、県立大学での原爆と戦争展のボランティアにも参加したことをのべ、「なにかしないといけないと思っていた。若い人はエネルギーを持っているが、どこにぶつけたらいいのかわからないだけだ。今、若者が住みにくい世の中になっている。劇を見てこういう活動を私もしたいと思った」と語った。また「劇を見ると長崎の人も沖縄の人もアメリカに対する怒りはすごい。アメリカはひどい国だ。国家予算のすごい額を軍事費が占め、それで米軍を養っている。沖縄の人たちは“基地をのけろ”と頑張ってきたのに、民主党がパーにした。日本の総理大臣が日本のことを考えていないのが本当に腹が立つことだ」とのべ、今後劇団と連絡をとりながらともに行動していく意欲を語った。
30代の女性労働者も、「父方の親戚に当たる人の兄弟が戦艦大和に乗り組んでいた。大和は無敵といわれており、戦争が終わってからも大和の乗組員が死んだことはずっと隠されて、10年くらい放置されていた。今弟が自衛官だ。もし今アメリカのいいなりになって戦争を始めれば、弟も連れて行かれる。戦争を絶対にさせてはいけないと思う」と語った。