2010年原水爆禁止広島集会(原水爆禁止全国実行委員会主催)が6日午後1時から広島県民文化センター(広島市中区)で開催された。「アメリカは核を持って帰れ!」「原爆投下を謝罪せよ!」を中心とするスローガンのもとで、この間、広島市内では第9回広島「原爆と戦争展」(まちづくり市民交流プラザ)が開催され、4日には劇団はぐるま座が『峠三吉・原爆展物語』公演をとりくんだ。2カ月近くにわたって週末ごとの街頭原爆展、原水禁全国実行委員会による全市的な宣伝活動がくり広げられてきたほか、8月に入ってからは平和公園で原爆展全国キャラバン隊による街頭展示が連日とりくまれ、1週間前からは市内中を宣伝カーが走り、広島市民や全国、世界から訪れた人人に行動を喚起し、原爆投下からつながるデタラメな現代社会を打開する力、平和の力を結集しようと訴えて関心を集めた。その到達点となった集会には、小・中・高校生や大学生などの若い世代をはじめ、広島、長崎、沖縄、下関などの被爆者・戦争体験者、全国で原水禁運動を担ってきた人人、広島市民など約400人が参加。原水爆戦争を阻止し、平和勢力を大結集する意気込みに溢れる集会となった。
原水爆戦争絶対許さぬ 被爆者が力こめ訴え
集会では冒頭、原爆で亡くなった人人に参加者全員で黙祷を捧げたのち、原水禁全国実行委員会の川村なおみ事務局長が基調報告を提案した。その後、劇団はぐるま座が原爆詩人・峠三吉の「その日はいつか」や「原子雲の下より」から子どもたちの詩をいくつか抜粋して朗読したのち、広島、長崎、下関の順で被爆者たちが発言に立った。
原爆展を成功させる広島の会の上田満子氏は、13歳の時に自宅でともに被爆した最愛の母や弟を相次いで亡くした経験を語った。弟は「きれいなきれいなマンマンさんがお迎えに来てくれたから僕はゆくね…」といって息を引き取り、「桃が食べたい」といっていた母に桃一つ食べさせてあげることができなかったこと、死んでまで人間扱いをされず段段に重ねられて焼かれていった無念さを語った。そして、戦後は貧乏のどん底に落とされ、「友もなく、青春もなく、歯をくいしばってがむしゃらに生きてきた」こと、転機になったのが3年前で、何度も体験を語るのを拒んできたものの、「人様の役に立つならば」と己斐公民館で体が震えながら語ったことを明かした。
「学生さんたちと話しエネルギーをいただいて、いまが青春なんです。子どもたちから感想文が届くと、涙が出るほど嬉しく思うことがたびたびです。無惨で悲惨な戦争は二度としてはいけません。命を大切にして、核なき世界を目指してみなさんと一致団結してたたかいたい」と訴えた。
原爆展を成功させる長崎の会副会長の吉山昭子氏は、6月末に第6回長崎「原爆と戦争展」を取り組み、市内の中学校から生徒140人が参観して被爆者や戦争体験者10人が体験を語る場を設け、子どもたちが真剣に聞いてくれたこと、原爆展を参観した若い教師からの申し出で8月9日には長崎市内の高校でパネル展示とともに全学年に体験を語りに行くことを報告した。
「16歳で被爆してからというもの青春はなかった。ほんとうに苦しみ、人間の生活ではないような生活をくぐり、人生は苦労の連続だった。悲しくて悲しくてどうしようもなかったけれど、原爆展と出会い、いまの若い人たちにいかに平和が大事であるか伝えなければと強く思っている」と気持ちをのべた。
下関原爆被害者の会の河野睦氏は14歳の時に下関空襲で焼け出され、母と2人で親類を頼って来た広島で1週間目に原爆にあったこと、同級生の半分が亡くなったことを明かした。戦後はとりわけ食べ物もないなかで、助け合って、広島の街を復興していったこと、日本人の底力だったと振り返った。そして「お金を出せば何でもそろっているようだが、貧富の差は激しく、若い人から年寄りまでコンビニ強盗をしたり、自分の思いが叶わなければ刃物を使ったり、いったいどうなったのでしょう。戦後はもっと優しさと助け合い、励まし合っていた。その心が欲しい」と憂えた。
また、戦後65年がたつなかで広島、長崎、沖縄、下関など全国で原爆展運動が発展していることへの喜びとあわせて、「だんだんと戦争に入り込むようなきな臭さを感じているいまだからこそ、老骨にムチ打ってしっかりと話していこうと思う。戦争だけは絶対にしてはならない。戦争がはじまれば日本は確実にアメリカの盾になる。焼け野原から立ち上がった大事な平和な国・日本を戦争にまきこまないでもらいたい」とのべ、慰霊祭にやって来た原爆投下の張本人である米英仏のパフォーマンスについても痛烈に批判した。
全国連帯で基地撤去へ 岩国や沖縄も報告
続いて米空母艦載機移転反対をたたかっている岩国、沖縄からの報告がおこなわれた。岩国基地沖合拡張反対連絡会議の森脇政保氏は、民主党政府が「米軍再編見直し」などの公約を裏切り、売国的な米軍再編計画を丸ごと引き継ぐ事態のなかで、政治家や政党に依存するのではなく、市民自身の力を信頼し、市民主導で沖縄や全国の人人と団結した粘り強い運動を作ろうとの機運が高まっていることを紹介した。また、10年にわたって原爆展運動を取り組むなかで春には『峠三吉・原爆展物語』公演をおこない市民の大きな反響があったことを報告した。
「朝鮮、中国に対する排外主義を煽って抑止力などといっているが、原爆を投げつけ謝罪すらせず、戦後は岩国でも婦女子を犯して殺し、虫けらの如く扱ったアメリカが日本を守るわけがない。日本列島を盾にして、人、モノ、金すべてを動員して原水爆戦争に巻き込もうとしているのが米軍再編だ。岩国のたたかいはこれからが本番。愛宕山に星条旗を立てさせるなと、“愛宕山を守る会”が盆明けに座り込みを開始しようとしている。沖縄や全国と連帯して奮斗したい」と力強く決意をのべた。
沖縄から参加した源河朝陽氏は、米軍再編、普天間基地の辺野古移転をめぐるたたかいを報告。鳩山政府の迷走と退陣、オバマ・菅両政府を慌てさせるほど、県民の怒りとたたかいが高揚している様子を語った。また、沖縄においても県民大会や各所で「原爆と戦争展」パネルを持ち込み、県民のなかで沖縄戦の体験や基地問題と重ねて論議が発展していることをのべた。「原爆と戦争展は被爆者と沖縄戦体験者が団結して、若い世代に体験を継承する交流の場となっている。再び戦争を起こさせぬ確かな力になっている。50年8・6平和斗争の路線を堅持して、運動をさらに大きく全国、全世界に広げていきたい」と決意をのべた。
その後、5日から平和公園や原爆展会場を訪れ、被爆者から体験を学んできた「広島に学ぶ小中高生平和の旅」の子どもたちや引率教師ら75人が登壇。旅に向けて山口県下や福岡県など各地で街頭カンパや原水爆禁止の署名を取り組んできたこと、被爆者の話を聞いて学んだこと、思ったことを参加した子どもたちの感想を織り交ぜながら構成詩にして発表した。「生涯をかけて平和のために尽くすことを誓います」と大きな声で発表し、『青い空は』を元気よく発表する姿に、前列に座っていた被爆者たちは温かい眼差しを注いでいた。
行動へ踏出す若い世代 学生や教師も発表
意見発表に移り、原爆展キャラバン隊の担当者や『峠三吉・原爆展物語』公演をとりくんでいる劇団はぐるま座から状況がいきいきと報告された。平和公園での街頭原爆展に関わってきた鈴木聡氏は、7月から毎週土日、8月から毎日街頭展示をおこなってきたこと、そのなかで例年にもまして世界各国から訪れる外国人が多いことや、日本全国から若い世代が広島に訪れ、積極的に行動に参加している様子をのべた。
劇団はぐるま座の団員は10年来の原爆展運動を描いた『峠三吉・原爆展物語』公演を下関初演にはじまり広島・長崎県内や岩国市、劇団本部がある山口市で公演してきた経験を語った。どこでも第二次大戦とそれに続く戦後社会のデタラメな姿について論議が発展し、終演後の座談会が白熱していること、日本の進路をめぐって真剣な意見交流になっているとした。「原爆展運動が10年かけて日本全国を団結させてきたように、劇団はぐるま座が『原爆展物語』を全国に広げていくことで、戦争阻止の力が強まると確信している。劇団員一堂、厳粛に決意を新たにしている」とのべた。
広島大学の男子学生は、被爆者が体験を語る姿に感銘を受け、活動に参加するようになったこと、学内での原爆と戦争展を参観して衝撃を受けたことを明かした。「パネルのなかには、実際に戦争を体験された方による戦争の真実が数え切れないほど描かれていた。そして聞いた被爆体験は、とても悲しく辛いものだった」と、原爆による後遺症の苦しみや、戦後の結婚・就職差別の現実を耳にして、「胸が裂けるような思いがした」と素直な気持ちを語り、同時に自分たち自身が平和への願いを受け継ぎ、伝えていくことの意味を知ったとした。
「私たち若者に語り継ぐことができる人たちは少なくなっている。もっともっと多くの人人の平和への願いを受け継がなければならない。これからさらなる平和を築かなければならないのは間違いなく私たちなのだ。多くの仲間に平和の大切さを伝え、一緒になって平和のために行動を起こすことだ。体験者の体験のなかにしか戦争の真実はない、ということを私は一番学んだ。若者が先頭に立って平和を目指す輪を広げていきたい」と力強い決意をのべた。
山口県で小学校教師をしている佐藤公治氏は、現在の教育情勢の特徴や課題、展望について述べた。現場では低学力が深刻な問題になり、自己中心・反社会的なアメリカ的イデオロギーとのせめぎ合いがあること、20年来の「教育改革」路線の破綻が露わになっていることをのべた。「私たち教師は勤労人民の労働や生活、思想、資質に学び、勤労父母と団結して子どもを日本民族の後継ぎとして育成する教育を進めたい。それが今日の教育崩壊を打開する道だ」と語った。
高校生や青年労働者も 会場で挙手発言
会場から発言した広島市立商業高校の女子高校生は、「4月に『原爆展物語』を観て、ショックを受けた。なぜまったく原爆や戦争のことを知らないのかと自分に腹が立った。4日の公演をまえに袋町の原爆展も観た。平和学習で分かったつもりになっていたが、原爆が落ちて悲しくて、じゃあ平和が大事だねみたいな思いになっていたことにゾッとした。劇を観たからにはこれから確実に貢献できるようになにか行動したい」と時折涙で詰まりながら、思いを語った。
滋賀県から来た20代の男性会社員は、自殺や青年の殺傷事件、みんなが貧乏になっていく様子をニュースやインターネットで知るなかで「いま平和の日本といわれているが、こんな状態が本当にみんなが幸福なのか?と強い疑問を持っていて、新しいなにかが分かるのではないかと思って広島に来た」といった。街頭原爆展でスタッフとして関わり、連日全国から来る人人や広島市民と触れあうなかで、戦争に対する怒りや悲しみ、悔しさが平和をつくる原動力になっていること、平和を希求する強い思いでみなががんばって今日に至っていることが分かったといった。「過去に平和を作ってきた人の熱い思いを、ずっと抱き続けなければいけない。すべての人の気持ちに芽生えれば必ず日本は強くなれるし、再び良くなれると願っている」といった。
意見発表ののち広島大学の学生が集会アピールを堂々と読み上げ、基調報告、スローガン、集会アピールを採択して、デモ行進へと移った。市内一の繁華街である本通りから中心市街地の大通りを一時間かけて原爆ドームへと向かった。子どもたちは毎年お馴染みで、峠三吉の詩をみんなで群読して歩いた。沿道の反響が大きかったのが特徴で「毎年ご苦労様」「峠さんの原爆展は派手にやられている。広島の思いを代弁してもらって感謝している」とデモ隊を見送りながら語る市民もいた。
全市的な支持と共感を集めながら65年目の8・6集会は幕を閉じ、さらに1年間の全国での活動に散らばった。