原爆と戦争展全国キャラバン隊(劇団はぐるま座団員で構成・長周新聞社後援)は東京都内での街頭展示を展開している。8日は亀戸駅前公園、9日に新小岩駅前にあるルミエール商店街、10日には船堀駅前など、東京空襲でも最も被害が大きかった下町を中心に展示をおこなった。とくに10万人の一般市民が焼き殺された東京大空襲での凄惨な体験が堰を切ったように語られ、皇居だけは狙われなかったこと、軍や三菱が無傷だったことが多くの人の実体験と重ねて強い共感を呼んだ。
また、「日本中がやられてどこも同じだったんだ」という衝撃とともに、東京空襲の体験が資料として残っているものも少なく、このままでは若い世代に伝えられていないという危機感も多く語られた。現代の日本の状況と重ね、「なんとかして日本を立て直さないといけない」という思いとともに若い世代への継承が切望されている。
また来年3月9日に江東区文化センターで上演される『峠三吉・原爆展物語』の公演に続き、前日の8日に墨田区の曳舟文化センターでの公演も決まり、期待が寄せられている。
「このパネルは全国の人に見せないといけない」と話し始めた70代の東京空襲体験者は「4月13日に王子で空襲にあったが、同じ人間がすることとは思えないひどいものだった。焼夷弾のなかはゼリー状の油が詰めてあり、破裂すると油が飛び散りあっという間に燃えていった。人にも油が飛び散り、火を振り払おうと火だるまになって走っている人もいた。一般市民を狙って焼き殺したアメリカは絶対に許すことはできない」と怒りを語った。また「今まで、戦争の悲惨さを伝える展示はたくさんあったが、なぜ戦争が起きたのかというところがなかった。戦争は65年前のことだが、若い人に伝えていかないとまた戦争になる。今、尖閣諸島の問題で日本の領土だといって騒いでいるが、日本全国にある米軍基地こそ、日本の領土だ。アメリカは戦争をやるために日本に基地をおいているのだ。現在都内に住んでいる人も、ほとんどが東京空襲のことを知らない。二度とこのようなことが起こらないように若い人に伝えていってくれ」と期待を込めて語り、カンパを寄せた。
70代の女性は東京空襲のパネルを見ると、キャラバン隊スタッフを呼び止め、東京空襲の体験を語り出した。実家は新潟で商店をしていたが、生活が苦しくなってきたため東京に奉公に出されたこと、3月9日の空襲のときは墨田区の向島にいて、隅田公園に逃げて助かったことを話した。「隅田川にかかる言問橋は、浅草方面から逃げる人と隅田方面から逃げる人がぶつかってごった返していたが、どちらに逃げても火の海だった。家財道具を持った人の荷物に火が燃え移り、言問橋にも焼夷弾が落ち、言問橋が燃えているようだった。橋から飛び降りる人たちがいて、翌朝には死体で隅田川に蓋がしてあるようだった」「空襲の後は空き地という空き地に死体が積み重なっていて、初めのころは人を焼いていたが、途中から間に合わなくなって焼かずに埋めていた。名札が付いている人は一人ずつ分かるように埋めていたが、名札をつけていない人がほとんどだったので、ほとんどの死体をまとめて埋めていた」と涙ながらに語った。
計画的な一般市民焼き殺し 皇居は無傷
80代の女性は「14歳のとき墨田区にある十間橋の川淵の自宅で大空襲にあって焼け出された。十間川に木の筏があり、町が燃えるなか、男性が川に下りてバケツに水を汲んで上に上げて、自分もバサッとかぶらせてもらったが、火の海だからすぐ乾く状況だった。亡くなった人たちは、オレンジ色で丸裸で重なって倒れていた。私たちはそれをまたいで歩いた。皇居や三菱は無傷だったとあったが、アメリカは全部計画的にやったんですよ」と怒りを込めて話した。
80代の女性は「東京生まれで岐阜に疎開した日に空襲にあい、東京に帰り、小岩の自宅で3月9日の大空襲にあった。初め錦糸町駅がやられ、駅前の四つ角はすべて亡くなった人たちで埋まっていた。勤めが錦糸町だったが、駅近くの時計会社は空襲でも焼けないといわれていてたくさんの人がそこへ逃げたと聞いている。東条英機が戦争をやめるといわなかったが、一般の関係ない人たちばかりが殺された。それでも“戦争がうまくいかないのも国民のせいだ”“お前たちが悪い”といわれ、みんな金もダイヤも供出した。だが、上に立つ人たちは生き残り、体験した人たちは“冗談じゃない”と思っているはずだ」と憤りを語った。
「錦糸町と亀戸の間にある大島というところで腰ぐらいの深さの池の中に飛び込んで一晩中水をかけながらしのいだ。逃げているときにキャンプファイヤーのように反り返りながら焼け死んでいたことが、今でも鮮明に思い出される」(70代、女性)、「平井橋を通って翌朝おばを捜しに行ったが、煙がひどくて息ができなかった。帰ったときに亀戸の方はとくにひどくて駅にも亡くなった人たちがたくさんいて、小さい子どもを抱えた母親が子どもと一緒にそのまま亡くなっていた」(70代、女性)、「荒川の土手に射撃訓練の演習のために掘られていた塹壕のなかに母と子ども四人で隠れて強風を避けて難を逃れた。周りを見るとバケツを持って全身火がついている人に川の水をかけているような人たちもいた。家財道具を持ちだそうとした大人だけの世帯の人たちが一家全滅になることが多かった」(70代、女性)、「亀戸から錦糸町に行く間の錦糸橋でも大勢亡くなっている。被服廠はほぼ全滅だった」(80代、女性)など、今まで語ってこれなかった体験が次次と語られた。
また70代の男性は「友人が木場にビルを建てるため300坪の土地を買って、ボーリングしたら、白骨が何層にもなってびっしり詰まっていたと語っていた。だからこの辺りは今でもビルの下に遺骨がたくさんあるに違いない」と話した。
80代の体験者の女性は「あちこちで人が亡くなったが、どこでどのように焼かれて、あるいは埋められているのか未だにわからない」と語った。
70代の女性は「なぜこれだけ日本中がやられなくちゃいけなかったのか。しかも皇居は狙われず、選んでやられ、一般の人たちばかりが殺された。語れる場がないのでこういうのをどんどんしてほしい」と話した。また、「東京で語る場をつくらないといけない」「都庁の近くでもどんどんこういう展示をしてほしい」という期待が口口に語られた。
米国の意図がよくわかった 現代重ねる若い世代
また、現代と重ね合わせて若い世代や現役世代からも鋭い反応が示されている。
栃木県出身の50代の派遣社員は「このパネルを見てアメリカの意図がよくわかった。ルメイが民家を“すべてがわれわれを攻撃する武器の工場になっているから攻撃した”といっているが、それならなぜ皇居を初めに狙わなかったのか。戦後うまく日本を統治していくためで、それが今につながっている。日本の政治家はすべてアメリカの意図で動いていて、アメリカのためにはいくらでも金を出して、基地を置けといわれたら国民を騙してでも基地を置く。本当の意味ではまだ独立していないのではないか。だから日本は貧乏になっている」と激しく語った。「東京には仕事があると思って働きにくる人が多いが、東京にも仕事がないので、ホームレスは地方出身の人がほとんどだ。戦後六五年にもわたってアメリカが支配しているからこのようなことになる。根本的に変えていかないといけない」と語り、アメリカに謝罪を求める署名に名前を連ね、パネル冊子を買い求めた。
子ども連れの30代の母親はパネルを見て「学校で教わった戦争のこととは全然違い、これが本当のことなんだと思った。生まれも育ちも江東区だが東京大空襲のことはほとんど知らない。とくに沖縄戦のパネルが印象に残った。パネルを見たからにはもっと戦争のことを知らなければならないと思った」と語った。
専門学校生は「曾祖父がニューギニアで戦死していて、祖父は特攻隊だった。祖父が出撃する日に終戦になって生き残った。曾祖父が亡くなったニューギニアのことなど自分で調べたりした。『峠三吉・原爆展物語』もぜひ見たい」と話した。
20代の女性はパネルを見て「学校の教育は戦争について文字面だけで本当のことは教えていないと思った。私も平和ボケの戦後世代なのでパネルを見て現実的で身近な問題として感じた。沖縄の基地問題で中国が攻めてくるから基地が必要なのだといわれているが、近隣諸国とは平和的な関係を持っていかないと日本はまた戦争に巻きこまれると思う。領有権の問題をお互い主張しているが、海は一つの国だけのものでなく共有しているのだから、解決の方向があると思う」と問題意識を語った。