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岩手県宮古市「いつまで仮設暮らし続くか…」 辛抱にも限界

 東北の被災地ではがれき撤去がいまだ十分に進んでいないところも少なくない。きれいな更地状態になったところでも、再び家を建てたりすることがはばかられ、宮城県のように建築規制を加えて手が付けられない地域もある。住民たちのなかでは、「復旧、復興」がお題目のように叫ばれるだけで何ら事態が動かないことへのもどかしさや、いつまで仮設住宅の暮らしが続くのか、不安でいっぱいな心境が語られている。

 被災者置き去りの箱物プラン

 防災都市のモデル地域とされてきた岩手県宮古市の田老地区は、「万里の長城」といわれる国内最強堤防によって町が囲まれていた。ところが今回の津波は10㍍もある巨大な防潮堤をもなぎ倒し、乗り越えて町を壊滅に追いやった。山側にある総合運動公園・グリーンピア三陸にプレハブの仮設住宅が大量につくられ、集団避難の状態が続いている。
 昭和8年の津波も経験したという老人は「土地はきれいに片付けられたのに、“家を建ててはいけない”とだけいわれ、どうなっていくのかメドがない。このままだと何年かかったら町が復旧できるのかもわからない」と疲れをにじませた表情で語った。昭和の津波でも911人が死亡し、バラック暮らしを経験した。しかしその当時は海水がひいた直後からがれき撤去や住宅再建にとりかかり、一年のうちに元の場所で暮らし始めたのだといった。「当時は動力が満足ではなかった。トロッコとモッコ、つるはしを使ってみんなが自力で立て直した。はるかに機材がそろっている現代で、なぜこれほど放置されるのか。なにもしてはいけないのでは復興にならない」と疑問をぶつけた。
 「町づくりの計画が決まらないから」といって7カ月もそのままになっていることについて、だれもが辛抱の限界にきていることを口にしていた。そうしたなかで、岩手県内では各自治体がようやく「復興計画」をまとめ、住民説明会を開催し始めた。ただ、国がどこまで復興予算を出すのかすら不確定で、自治体にとっては身動きとれない状態になっていることも浮き彫りになっている。借金はあっても自由に動かせる資金がないのだ。
 大船渡市の男性住民は10月に入って開かれた市の説明会に参加して愕然としていた。「国の3次補正がどうなるかもわからず、市レベルでは防潮堤や道路をどうするのか予算措置の形が定まらないので、どうなるかわからないという説明だった。“わからない”づくしなら説明会を開く意味などないのに」といった。
 そして、総延長500㌔㍍にも及ぶ海岸線に防潮堤をつくるかつくらないかといった議論以前に、港のかさ上げや生活をいかにして立て直すかが急がれることを語り、目の前の住民をどうするかが抜け落ちて、箱物プランすなわち街作りのグランドデザインばかりに嬉嬉としている連中がいることに憤っていた。
 大船渡では10月に入って市長がメガソーラー誘致やリチウムイオン電池・蓄電池工場の立地、バイオマスの先駆けとなる植物工場立地など、「環境未来都市」を目指すと宣言。がれき撤去も終わっていない者が唐突になにをいい始めるのかと思ったら、低炭素社会やエネルギー、情報通信技術の心配事でみなを驚かせた。7月末から陸前高田市を含めた気仙広域連合(大船渡市長が会長)で「再生可能エネルギーを活用した地域振興を図るため」に協議を始めていたことも明らかになった。一方では老朽化が著しい太平洋セメント(旧小野田セメント)の撤退が噂になるなかで、今をときめく最先端産業への乗り換えに身を乗り出す格好となっている。
 こうした「復興特区」構想に沿った青写真が被災自治体みずからの発想や願望から出てきたのかというと、実は震災後に各自治体に入り込んでいる東京大手のコンサルタント会社の存在が大きいと見られている。各自治体が「復興計画」を策定するにあたって、基礎自治体は資金が乏しいため、国がコンサルタント料にたいする補助率を高く設定することを理由に、業者選定から発注業務にいたるまでとり仕切った経緯があった。大船渡市や釜石市などの「復興計画」策定には世界最大手のパシフィックコンサルタンツ社が関与。釜石ではがれき撤去もパシフィック社が連れてきた鹿島建設や系列企業が牛耳っているとして、地元業者との軋轢が生じていることが語られていた。
 震災で混乱したところに国が誘導する形で外来資本が乗り込み、街作りのプランから何から関与して怪しげな動きを見せ始めている。被災者を置き去りにしながら、そして人口流出がやまないなかで、一方ではがれきが撤去された広大な土地をパラダイスと見なして「再建」「復興」に色めき立っている人種がいること、住む場所もなく、収入の手段もなく、明日をどう生きるか途方に暮れている人人がいるのに、国や資本を持った者が勝手な計画を進める光景が浮かび上がっている。
 経団連のシンクタンクは水産業復興特区の提言のなかで、「過剰な施設が多い」として大船渡の水産機能について「適正規模に改めること」と名指ししていた。

 サンマの水揚げ作業も 復旧続く水産市場

 津波にやられた大船渡の水産市場では、1日でも早い復旧を目指して懸命な作業がおこなわれてきた。市民の3割近くが関係する基幹産業だけに立ち上がりは早かった。サンマの水揚げが九月から本格化することから、再三行政とかけあい、地震によって凸凹になった周囲の土地を整地したことが語られていた。
 といっても隆起したり凹んだ土地だらけで、冠水している箇所も多い。また周囲の水産加工場も多くががれきと化していた。隣で建設中だった新市場は震災後に工事がストップしたまま。老朽化した旧市場は破壊された窓にはプラスチック製波トタン、床にはコンパネをはり付けるなど応急処置を各所に施して使っていた。沈下した市場周辺は満潮になると潮に浸かる箇所があり岸壁の高さまで20㌢もないくらい海面が迫っていた。「大型船が接岸するのに危険で、みなが注意しながら水揚げ作業している」と語られていた。
 市場の一角はサンマの水揚げの真っ最中で、そこだけはひときわ活気に満ちていた。市場関係者は、女川や気仙沼といった他のサンマの水揚げ漁港は受け入れ体制が間に合わなかったことから、例年の1~2割にとどまっていること、大船渡でも例年の半分以下の取扱量なのだといった。
 10日のサンマの水揚げ量だけみても、船が集中している北海道の港で2760㌧が水揚げされ、大型船4隻、小型船79隻が寄港していったのに対して、東北沿岸の水産市場のなかでは大船渡が4隻・421㌧、気仙沼が2隻・121㌧、女川が2隻・201㌧、宮古が3隻・282㌧とその差は歴然としている。水揚げした後の製氷、出荷などの体制が被災地では十分ではないため、漁船の多くが北海道に向かう事態が起きている。
 さんま棒受網の関係者に聞くと、全国さんま棒受網漁業協同組合が7日の会議で、10月9日以降の水揚げについて、大型船(100㌧以上の船)は2週間で5回、小型船(10~100㌧未満の船)は2週間で7回の水揚げにすること、1週間の上限回数は大型船3回、小型船4回までとするなど、陸側の体制が混乱しているのをうけて水揚げ制限を加えていることも語られていた。さらに、8月には福島第1原発から半径100㌔圏内は「操業自粛」区域としていたが、10月に入ってから操業禁止になったことも通知された。
 大船渡や宮古では水揚げされた回遊魚のサバから微量のセシウムが検出されるなど、福島第一原発が垂れ流している放射性物質の影響が及んでいることも深刻な問題になっていた。
 「市場だけがやる気になってもダメで、みんなで立ち上がらないといけない。製氷、加工、運搬などすべての業種が立ち上がらなければ水産業界の復興にはならない。支援だけ待っていても事は動かない。働きながら自分たちの手と足で立ち上がっていくことが大切なんだ。少ない給料であっても働いて目標を見据えていけば精神的にも救われる。ジッとしていてもダメで、体を動かして形にすること、考えるより動くことだ。重茂や田老で漁師たちが自力で立ち上がり始めたのも励まされたし、こういうときこそ共同の力が強いことを感じた」と市場関係者の一人は語っていた。
 別の水産関係者は、加工会社が壊れた建物を使いながらパートを雇って稼働し始めたことを語り、「就労対策こそが津波対策だ。働いて大船渡に住む人間がいなければ、いくら港をかさ上げしても道路を綺麗にしても意味がない。重茂や田老で漁協が漁師を雇って人口流出を食い止めたが、あのやり方が先進的だと思う。とくに、重茂の結束力は岩手県内でも突出している。共同体パワーをいかに発揮するかが大切で、そのような復興に国が有効な援助をするのが本来の姿だと思う」と語っていた。

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