故・中村哲医師の遺志を引き継ぐペシャワール会は6月4日、タリバン政権の下での用水路建設事業や診療所活動などを報告するための現地報告会を福岡市立城南市民センターでおこない、最近その動画をアップした。現地で活動を続けるPMS(平和医療団日本)支援室室長の藤田千代子氏が報告した。藤田氏は中村医師がパキスタン・アフガニスタンで始めた活動を振り返るとともに、タリバン政権になってから治安がよくなったこと、タリバン政権が中村医師が始めた事業を尊重し、支援を申し出ていることを報告した。また、アフガニスタンが深刻な干ばつのもとにあり、アメリカの経済制裁が飢餓状態を深刻化させていることも報告した。藤田氏は現地の人々の苦しみや悲しみ、また日本全国からの熱のこもった支援を思い起こしてときには言葉を詰まらせながら、現地の様子をいきいきと語った。本紙はペシャワール会の承諾を得て、その要旨を紹介することにした。
はじめに、ペシャワール会会長でPMS総院長の村上優氏が基調報告をおこなった。
村上氏は「アフガニスタンの干ばつは去年から今年にかけて非常に深刻な状態で続いている。昨年8月15日にタリバン政権が復活し、治安はずいぶんよくなったのだが、経済制裁で経済は混乱し、銀行送金ができない状態が1年近く続いて大変苦労した。4月からはやっと銀行経由で正式に送金することができるようになり、タリバン政権の指示で下ろすお金の額が、月2万5000㌦から、5月は10万㌦まで増え、徐々に事業を進めるための条件が整ってきた」とのべた。
続けて「灌漑用水路事業は、中村哲氏が亡くなってから初めて手掛けたバルカシコート堰が2月28日に完成した。また、食料危機、飢餓、餓死の危機が叫ばれるなか、今年1、2月に緊急の食料支援をやった。こうして事業が展開できたのは多くの支援者、会員のみなさんのご協力のおかげであり、感謝している。今後も医療、農業、灌漑用水路の事業を進めていく」とのべた。
続いてPMS支援室室長の藤田千代子氏が、以下のように報告した。
藤田千代子氏(PMS支援室室長)の講演
昨年大きな政変があり、ガニ政権からタリバン政権に移行した。資金を現地に届けることがたいへん困難になったが、なんとか現地に届けられるようになった。きょうは最近の様子とともに、中村哲先生が35年間、現地でやってきたことも含めて報告したい。
中村先生は1984年、38歳のとき、ハンセン病の治療をするためにペシャワールに赴任した。私が最初に現地に行ったのは1990年のことで、看護師として派遣された。
そこでびっくりしたことは、アフガニスタンもパキスタンもたいへん貧富の差が激しいところで、日本のように国が保障する医療保険制度がないので、患者さんたちはどんな病気であっても現金がないと診てもらえない。薬もそうだし、麻酔薬や注射器まで自分で買って持っていかないといけない。だから貧しい人はなかなか医療の恩恵を受けることができない。それで中村先生がハンセン病の治療をするという噂が広まると、親切な日本人の医師がいるということで、ハンセン病以外の患者さんたちもどんどん押し寄せてきた。
それと、日本と文化が違う。イスラム教ということもあるが、長い間現地で培われてきた習慣で、女性たちが自分の肌を身内以外の男性に見せることがない。中村先生も服の上から聴診器を当てていたが、ハンセン病は皮膚から発症する場合があるので、このままでは女性の早期発見・早期治療が困難だということで私が現地に行くことになった。
女性たちが被っているのはブルカという外出用のコートだが、診察するときにはそれをはぐって診ないといけない。はぐるとその下にはショールを着けている。だから私はよく「今の時代にこんなものを被っているなんて、女性たちが差別されているのではないか。強制されているのではないか」といっていた。
そのとき中村先生は、「見慣れないものを見たときに、自分の物差しで計ってこの国は劣っているとか優れているとか判断してはいけない。君は味噌汁が大好きだけど、外国人は“日本人は臭くてきたない色のスープを飲んでいる”といっているんだよ。そういわれていい気はしないだろう」といわれ、それでストンと落ちた。
ペシャワールはアフガニスタンとの国境にある【地図参照】。中村先生が現地で活動を始めた1984年は、ソ連が侵攻している時期だったので、戦争による難民がパキスタンに600万人も来ていて、その半数がペシャワールに住んでいた。病院の周囲のあちこちに難民キャンプがあった。普通でも医療の恩恵を受けることのない人たちが、難民キャンプにいるということはもっと困難だということだ。それで日本人の医者がいるという噂があっという間にペシャワール中に広まり、難民キャンプからマラリアや結核、腸チフスの患者さんたちが押し寄せた。
そのとき中村先生は、「あなたはハンセン病じゃないから診られない」とはいわなかった。ハンセン病は慢性疾患だが、マラリアや腸チフスは子どもがかかるとあっという間に亡くなる場合もあるからだ。その後二年経って、中村先生はアフガン難民の中から医師や看護師、検査技師を見つけて、病院をつくって診療していた。
私は中村先生からオペの介助、オペ室の整備を頼まれた。なぜかというとハンセン病患者は神経が冒され、目が潰れたり足の切断に至る場合もあるので、その患者さんたちに機能再建手術をするためだ。そのころ両国には、ハンセン病を診る医者は中村先生を含めて3人しかいなかった。
故・中村哲医師の診療活動
ソ連軍がアフガニスタンから撤退して2年経ったころ、ペシャワールからアフガン難民たちが故郷に帰り始めた。中村先生はわざわざペシャワールに来なくてもいいようにと、次にはアフガニスタンの国内に診療所を作る準備をした。
アフガニスタンは国土の3分の2がヒンドゥークシュ山脈に覆われた国だ。私たちは医療を受けられない人たちのために、91年からハンセン病の多発地帯といわれるアフガニスタン東部に診療所を建て、一般診療もやった。パキスタンの側も同様にやっていった。
私たちは切り立った山々をこえて診療所に行くのに、馬に乗って延々15時間かけて行っていた。私は馬に乗るのも初めてで、落ちると激流の川に落ちてしまうのではと恐ろしかった。あまりのきつさに中村先生にグチをいったこともある。しかし診療所に着くと初めて医者を見たというハンセン病の患者さんたちがいっぱい集まってきて、自分のいったことを恥じた。
診療所には電気やガスがない。だから懐中電灯やヘッドライトをつけて診療する。患者たちが持ってきたレントゲン写真は、庭に出て太陽の光で見ていた。医療器具の消毒は「アルコールをかけて焼け」といわれていた。
中村先生はどんな高いところ、どんな遠いところに診療所を開いても、そこに重い酸素ボンベを担いで行った。それは「呼吸困難に陥っている患者の不安感をまずとり除いてやらないといけない」という思いからだ。こうして15年活動をした1998年、ペシャワールに病床70床、オペ室も備えたPMS病院をつくり、活動拠点をここに置いた。
患者さんたちにとって、病院にやってくるのはたいへんなことだ。待合室を見ると、ライ菌が膿(う)んでこぶのように出て来てボロボロになった患者さんたちが、遠いところからやっとたどりついて倒れ込んでいることもよくあった。中村先生は、ここにたどりついた人は三度三度のごはんが食べられて、治療費の心配をすることなく、気持ちをやすらかにして治療に専念してもらおうといい、私たちも24時間いつでも彼らがドアをたたけるよう体制をとっていた。
中村先生は医療従事者には厳しかった。私たちは医療過疎地をターゲットにしていたが、中村先生は毎日医者たちとカンファレンス(会議)を開き、回診も毎朝やって、それを学習の場にしていた。ハンセン病の看護師を自分たちで育てようと、現地の若者を訓練した。こうしてアフガニスタンやパキスタンに派遣する医療チームの力量を充実させていった。
すると2000年になって、病院周辺の畑が干上がってきた。そのときWHOが、アフガニスタンでは餓死線上100万人、飢餓線上400万人と発表した。栄養失調の子どもたちはちょっと雨が降ると、喉の渇きに耐えられなくなって川の水を飲む。そして下痢をして死んでいくようになった。
中村先生は診療所があっても村の人たちが病気になってしまうなら何にもならないと、すぐに井戸掘りを始めた。1年で600カ所の井戸から水が出てきた。もっと大きな井戸を掘れば畑を復活できるんじゃないか、と試みたりした。
そのとき中村先生は、率先して井戸の底に降りて仕事をした。それが現地の人をたいへん励ました。アフガニスタンでは女子の就学率が低いといってタリバン政権がたたかれているが、実は男性もあまり学校に行っていない。PMSのアフガン人職員は105人いるが、その半数が読み書きができない。そして、現地では医者は非常に高い社会的地位にあるのに、日本の医者は率先して我が身を省みず奮闘している。それを見て現地の人たちはたいへん喜び、大きな石を持ち上げるのにも力が入った。
空爆迫る中の食料配給
2001年1月、タリバン政権に対して経済制裁が始まった。日本からの送金ができなくなり、すでに現地に送ってある資金も引き出せない。今起こっているこうした状況が、すでに2001年に起こっていた。国連を資金源にしている世界のNGOがまったく機能しなくなり、アフガニスタンの首都から引き揚げていった。
そしてペシャワールへ毎日、何千何万というアフガニスタンの難民が入ってきた。私たちは首都カーブルに行って5カ所の診療所を開いた。干ばつで食べられない人で、国境をこえられる人はペシャワールに来ていたが、こえられない圧倒的多数の農村部の人たちはカーブルに逃れていたからだ。ご飯を食べられず下痢を起こしていた子どもたちを抱いて、たくさんの母親がやってきていた。中村先生は「診療所は5カ所では足りない。あと5カ所開くから準備せよ」と指示を出した。
ちょうどそのとき、9月11日、ニューヨークで同時多発テロ事件が起こった。翌日には、アメリカがアフガニスタンに報復爆撃をするといわれ始めた。そのとき中村先生はなにを考えていたかというと、カーブルは標高1800㍍で、11月には雪が降る。食べられない人たちが冬をどうやって乗り切るのかを心配していた。明日空爆があるかと噂されているとき、中村先生は「食料を3カ月分配り、冬をなんとか乗り切ってもらおう。命を落とさないようにさせよう」といった。
「でも、お金はどうするの?」と私は心配したが、中村先生は日本に緊急帰国してアフガニスタンの実態を訴えた。私たちには食料配給のためのトラックの手配を進めておけといわれたが、なかなか力が入らなかった。なぜかというと、当時もタリバンは悪の権化のように全世界のマスコミでたたかれ、それは現地の私たちの実感とはずいぶん違っていたのだが、日本でも支援金は集まらないのでは? と思っていたからだ。しかし、わずか数週間で私たちがこれまで受けとったことのないような額がどんどん届いた。なんて日本は素晴らしい国なんだろうと、このときほど強く思ったことはない。
食料はアフガン人やパキスタン人のチームが27万人に対して配給することができた。中村先生は、「日本では中村哲一人が頑張ったかのようにいわれるが、実際には自分たちの国の困っている人たちに食料を届けたいというアフガン人の気持ちが強かったので、実現できたんだ」といつもいっていた。
用水路を作り畑を潤す
空爆が始まって食料配給は中止になり、タリバン政権からカルザイ政権にかわった。干ばつもどんどん進行したので、政府から「畑用の井戸は掘らないように」という命令が下りた。しかし食料の配給はできないし、井戸掘りもできないなら、アフガン人はどうやって食べていくのか?
そのとき中村先生は、アフガン人が自立できるように、クナール河から水を引いて畑を潤すという「緑の大地計画」を考えた。アフガニスタンの90%は農民、遊牧民であり、水さえあれば畑を元に戻せるという確信を持っていたのだ。畑を以前のように戻せばアフガニスタンのほとんどの問題は解決できるのではないか、といっていた。こうして用水路建設に没頭していくわけだ。
アフガニスタンでは40年間戦争が続き、その間に6回の政変が起こっていた。日本のように国交省や農水省が用水路をずっと管理してくれるわけではない。だから用水路を使うアフガニスタンの人たちが自分たちでそれをつくり、修繕できるようにと、用水路の両壁には手で編んだ金網の中に石をいっぱい詰め込んだ蛇籠を積むようにした。PMSの中に蛇籠ワークショップをつくり、今では彼らは会社が立ち上げられるほど上手になった。蛇籠の後には柳の挿し木をした。柳の根がしっかり石を抱え込むので、半永久的に使える用水路になる。この技術は日本では江戸時代に確立しており、中村先生は「先人の知恵はすばらしい」といっていた。
用水路建設が始まると、日本から青年たちがたくさんやってきて、現地の職員たちと一緒に一生懸命働いた。こうして用水路は周囲の畑を灌漑し、農地が復活していった。水が流れると、どこにこんなにいたんだというぐらい子どもたちがたくさん集まってきた。
私たちは水を得た畑で初めて収穫できたときの、村の人たちの喜びを目の当たりにした。アフガン人たちと一緒に仕事をすると、出稼ぎに行っている人が多いのだが、やはり自分の故郷で仕事をし、家族と一緒に生活したいというのが彼らの本音だとわかった。
用水路はどんどん延びていった。用水路が到達するのはまだまだ先なのに、村の人は期待して耕し始める。そこはかつて畑だった場所だ。水が通りさえすれば、彼らは自分の力であっという間に畑を復活させていった。
それから学校を建てて、子どもたちは地雷を見つけたらどうするかも学んだ。子どもたちが思わず手にとってしまうような、きれいなトンボの形にわざとつくってある地雷があるからだ。カシコート用水路のカシコート女学校は、屋外の青空教室で学んでいた。その岩山の後ろが外国軍の演習場になっていて、ある日子どもたちをからかって黒板に機銃掃射して、子どもたちがケガをしたことがあった。そのとき中村先生は、子どもたちにちゃんとした学校をつくることを約束した。いつかは実現したいと思っている。
タリバン政権の復権後
干ばつはその後も進行し、2018年には畑がすっかり干上がってしまった。国連はアフガニスタンでは餓死線上330万人、飢餓線上830万人と発表した。
そうしたときに政変があり、タリバンが復権する。昨年8月30日、米軍を中心にするNATO軍、企業や支援団体はすべて引き揚げた。そしてアフガニスタンに残されたのは、人口4000万人中餓死線上1400万人、飢餓線上2000万人という、あまりにも厳しい現実だった。
これに対して私たちは、用水路の作り方を伝授しようということで、PMSが活動しているクナール河流域に他地域の技術者や関係者を招いて研修の場として活用しようとしている。実際、用水路をつくったところは、昨年10月にトウモロコシも収穫でき、稲刈りも普通におこなわれている。
タリバンについては「女性の人権が守られていない」といわれたが、一般の人が食べられなくて困っているなかで、米国による経済制裁がおこなわれ、アフガニスタンの資産が凍結されたわけだ。
これまで私たちは政変を6回も経験している。あるときは略奪にあったり、トラックのタイヤを全部外して隠したりしたこともあった。今回もなにかが起きるんじゃないかということで、医療、農業、用水路建設の事業を一旦停止した。職員たちの安全を確保するためだ。
しかし、3日目には診療所のアフガン人の医師が直接電話をくれて、「今診療所を開けないとたいへんなことだぞ」という。ちょうど夏場で、マラリアや腸チフスが流行していたからだ。またデルタ株も蔓延した。これは日本では報道されなかった。
政変から1週間目に診療所を開けると、子どもを連れた女性たちがたくさん受診しにきた。これはそのときの【写真】だが、タリバン政権になったから女性たちがブルカを被っているのではなく、1991年に診療所を開設したときからずっとこういう状態だ。
郡の郡長さんたちが「こんなに治安がいいのに、前よりもいいのに、どうしてPMSはいつまでも再開しないのか」とたびたびいってきた。職員たちが「そんなに治安がいいというのなら、バザールの写真でも送ってちょうだい」といったら、ジャララバードやカーブルの賑わっている写真を送ってきた。日本では命の危険があるからとカーブル空港に押し寄せている映像ばかりがテレビで流されたが、両替商も政変があってから1週間後には再開された。
タリバンたちも全国を制圧したわけだから、干ばつのことも熟知していた。PMSのエンジニアたちがタリバン政府に呼ばれて聞きとりがおこなわれ、説明を求められた。タリバンはしばしばPMSの用水路建設現場を訪れ、視察をくり返している。なかなか経済制裁が解けず、政府もなかなかお金が下ろせなくて、政府職員に対しても半年ぐらい給料が払えなかったようだ。私たちのところでも2カ月、3カ月と職員に給料が払えなかった。
ここで活躍したのが私たちの農園、PMSガンベリ農場だ。中村先生がマルワリード用水路の最終地点に230㌶の用地を確保して開墾したところだ。昨年9月2日、収穫物は待てないということで、レモンの収穫を始めた。用水路建設は重機を使っているので燃料がほしいし、診療所には薬が必要だ。そこで何とか資金をということで、飼っていた50頭の牛が毎日提供してくれるミルクをバザールで売った。また、たくさん植えていた木を切り倒して売った。こうして事業をつないできた。
用水路がある地域では今、一斉に田植えが始まっている。日雇い作業員の人たちにもようやく労賃が払える状態になってきた。用水路工事は2カ月後に再開し、今年の2月28日にやっとバルカシコート堰の斜め堰を完成させた。
昨年12月にはアフガニスタンの治安がだいたい落ち着いてきて、PMSの職員も十数年ぶりに郡をまたぐことができるようになった。その彼らから、干ばつの被害が重大で食べられない人たちがいるところに食料を配給したいと要望があって、なんとかお金を工面した。大量には配れなかったが、1月から2月、ナンガラハル州6郡で、栄養失調の子ども、授乳をしている母親、妊婦に小麦粉、コメ、豆、油を配給することができた。
配給日になるとお母さんたちが、自分の子どもたちにご飯を食べさせたいという当たり前の気持ちから殺到してきた。郡政府の職員とPMSの職員が担当したが、母親たちが怖くて6回も門を閉めたというほど、鬼気迫るものがあったようだ。十分ではないが、いくばくかの助けにはなったと思う。
中村先生は、医療過疎地に診療所を開いたり、用水路を建設して農地を復活させるという事業は、やはり地域の人たちの協力なしにはできないということで、村長さん、郡長さん、今はタリバン政権になっているが、どの政権とも仲良くして、一般の人たちが食べられるように、命を守ることができるように活動してきた。私たちは今後も変わりなくそれを続けていきたい。
“治安はよくなった” 質疑応答より
続いて質疑応答に移った。会場からの質問に藤田氏や村上氏が答えた。
Q 現地の政治の介入は?
A 政府は介入をしてこない。ただ用水路をつくると、対岸の村の人たちが夜のうちに重機やトラックを「拿捕(だほ)」することはあった。中村先生が乗っていた専用車が盗まれそうになったこともある。そういうローカルな人たちの介入はたくさんあった。しかし中村先生は「なにか理由があるはずだ」といい、その村出身の職員を送って調査させると、干ばつで食べられないとか井戸が涸れて水が使えないという状況がわかったので、「もうちょっとしたらここの工事が終わり、そっちにも水が引けるから」と説明して解決していた。
タリバン政権になってから、彼らは私たちの農場や用水路建設現場やダラエヌール診療所をしばしば訪れている。一つ要望があったのは、ダラエヌール診療所に来たとき、助産師さんが一人働いていたのだが、「女性は一人ではだめだ。もう一人ぐらい雇いなさい」と指示があった。その頃はまだみんなタリバン政権を怖がっていたので、すぐに一人雇った。今もその女性は元気よく働いている。
タリバン政権のメンバーは「中村先生のような支援がこの20年間、アフガニスタン全土でおこなわれていたら、今アフガニスタンはどこも青々とした畑に戻っているだろう」といい、「何か協力できることがあるかもしれないので、何でもいってくれ」という伝言を毎回伝えてきている。
Q 支援に力を持つ、経済力のありそうな欧米各国の人たちは、中村先生のこのような成功した活動を見て、視察に来たり、自分たちもやってみようということはなかったのか?
A なかった。日本の支援のあり方と欧米の支援のあり方は違っていると思う。中村先生は現地で人をちゃんと教育して工事を進めていく、技術を移転していくというのが前提だ。われわれが去った後でも、自分たちでつくったり修復したりできるようにするという視点がある。
欧米はそういうやり方はしないそうだ。物は与えるけれども、どうやってつくるかは教えない。日本人はバスを修理するやり方や道具を伝えてバスを贈るので何十年も使えるが、修理ができなければすぐに使えなくなる。中村先生はさらに進めて二百数十年前の伝統的な工法を移転していったが、それはアフガン人が人力で現地にある物を使ってできるようにと考えたものだ。用水路でそれが始まったのではなく、医療がそうだった。
Q タリバン政権になってなにが変わったか?
A 一番変わったのは治安だ。治安が大変よくなった。旧政権のときには車が自由に走れないように道々にガードをして検問があったが、すべてとっ払われた。田舎の方にも普通に行き来できるようになった。困っているところにも自由に行けるし、私たちの事業もしやすくなった。
タリバン政権は包摂的な政府になっていないとよく批判されるが、政府の職員の97%は前の政権からの職員だ。行政の連続性は保たれているようだ。ただ、大きく違うのは公務員としての給料が長く支払われず、そういう意味で疲弊感はある。経済制裁でアフガニスタン中央銀行の資産は凍結されたまま、銀行によるドル送金も停止。それが困った事態だったので、国連機関がボストンバックにドルを入れてヘリコプターでそれを運び、アフガニスタン中央銀行の金庫に入れるという信じられない方法でなんとかお金が回り始めた。経済封鎖が解かれていけば事態は変わってくると思う。
女性の人権についてだが、学校への女性の登校が解かれたが翌日ダメになったとか、確かに安定していない。だがそこには長年の文化がある。都会の裕福な人々、教育を受けて西洋風の生活をしている人々にとっては不便だが、そういう人はほんの一握りで、国内全体を見ればあまり大きな反応はない。時間をかけて見るべきだと思っている。
今問題なのは、今年もまた大規模な干ばつで食料危機が懸念されていることであり、命をつなぐということを第一におくべきだ。
Q 中国の進出に注意しなければならないと思うが?
A パキスタンとかいくつかの国はタリバン政権を承認しているが、多くの国は国として承認していない。そんななかで外交関係を持っているのは中国だ。中国がきわめて目的意識的に進出しようとしているのは確かだ。ただ、他の国はお金も出さないし関係も持たないと放置しており、それならサポートしてくれる国に寄り沿うしかない。
日本はアフガニスタンの人たちにとって親しみのある、敬愛を持たれている国なのに、それが発揮できていない。日本が国として相手を認めていないからだ。経済封鎖だけしていれば中国の側に追いやってしまう。アフガニスタンは鉱物資源が豊富で、とくにレアメタルの埋蔵量は世界でもっとも多いといわれている。まずは国として認めて、つきあっていくことが大事だと思う。