広島県呉市の百貨店そごう5階・イベントプラザで4月29日、第5回「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、呉市傷痍軍人会)が開幕した。5回目を迎える原爆展には、原爆展を成功させる会の被爆者や、傷痍軍人会、自治会長、医師会など122人が賛同者に名を連ねて準備が進められてきた。3月11日に発生した東日本大震災と、福島原発大事故が起こっている最中におこなわれる今回の「原爆と戦争展」には大きな期待が寄せられている。また、東京では原爆展を自粛する動きなどもあるが、被爆者のなかでは「今こそ原爆、戦争の真実を語り継がないといけない」と、原爆や戦争の体験が意欲的に語られている。
主催者や市民など約30人が参加した開幕式では、重力敬三・原爆展を成功させる広島の会会長が挨拶し、「再び核の戦場にさせぬため、日本の現状をもたらした第2次世界大戦の真実を市民、国民の皆様に大いにアピールしてほしい」と呼びかけた。
副会長の真木淳治氏は「東日本大震災では地震、津波の被害に加えて福島第一原発の事故が大変な状況になっていて、被災者のことを考えると胸が痛む。なぜ日本では、広島、長崎に原爆の被害を受けたのに、原発を推進してきたのか。事故が起きてから、広島に本社がある中国電力は予定した原発をそのまま推進しようとしている。原発と原爆は決して切り離して考えることはできない。チェルノブイリも25年目を迎えた今も苦しんでいる人がおられる。核兵器の廃絶と原発、核の被害をもっと多くの人にわかっていただき、二度とくり返されないように、体験にもとづいた思いを多くの人にしっかりと語っていきたい。原爆や戦争と合わせて原発の問題もしっかりと学び、声を大にして訴えていきたい」とのべた。
会場には、被爆者や戦争体験者をはじめ3日間で300人の市民が訪れ、真剣な表情でパネルを参観している。また、親子連れの参観も目立ち、被爆者や戦争体験者から体験を聞くなど交流がおこなわれ、これまでに26人が賛同者になっている。
呉の海軍工廠で空襲を体験してきた84歳の女性は「呉の海軍工廠では事務関係の仕事をしていて、戦地の艦船からの手紙を受け取り、“大至急砲弾を何発送ってくれ”などの注文を各部署のトップに渡しに行っていた。はじめのころは“よし”の返事だったが、終戦が近づくにつれて“材料不足につき、しばし待て”に変わり、そして最後には“中止”となった。船に兵士を乗せて、武器を積み、こめる弾がなかったら、なにをしに行くのか。日本は戦争に負けると思ったが、見ざる聞かざる言わざるで家族にも話すことはできなかった。海軍工廠を狙った空襲では爆弾が次から次に落ち、弾などの兵器を作る造兵廠は完膚なきまでに燃え上がったが、造船部だけは、アメリカが進駐した後船を修理するために一発も落ちず無傷だった」と語った。
そして「原爆を落とさなくても日本は負けていたのに、原爆で多くの人が死んだ。戦後は被爆者の家にABCCが車で迎えに来て、検査をするだけで治療はしなかった。今回の原発事故でも、アメリカは情報集めをするだけで、今も昔もやることは同じだ。戦時中は負けるとわかっていた戦争を続けて多くの人を殺したが、原発も“安全”と国民をだまして今回の事故に至った。これまで生かされた命を大切に使わないと戦争で亡くなった方に申しわけない。84歳だが、このようなことが二度と起こらないように、今のうちに若い人に本当にあったことを話していきたい」と思いを語った。
母を原爆で亡くし、被爆治療に訪れる多くの人を間近で見てきた72歳の男性は、「原爆が落ちたときにはピカッと光った後ものすごい振動で、窓ガラスがわれたことを覚えている。祖父は外科医なので、原爆の直後から、大やけどを負った人が次次に来た。母は十日市の電停で電車を待っているときに原爆にあい、20㍍くらい吹き飛ばされ気絶した。建物が燃える熱さで意識が戻ったが、もんぺは焼け焦げ、顔は腫れ上がり、母だと判別できなかった。目と鼻以外はガーゼで覆われた状態で8日目に亡くなった。戦争を早く終わらせるために原爆を投下したとか、加害者論もいわれるが、どんな理由があっても原爆投下は許すことができない」と語った。そして「戦後、原爆の体験が正当に語り継がれていたら、原発などできなかった。亡くなった人たちの思いを受け継いで、若い世代に体験を伝えていきたい」と意欲を語った。
中学一年のときに江田島で敗戦を迎えた男性は「呉の海軍工廠が空襲でめちゃくちゃにされ、軍艦や船が江田島に停泊するとこの船を狙う空襲が頻繁になった。毎日夜中でも空襲警報が鳴り、飛び起きては防空壕に逃げる生活で、食べ物はカボチャやイモしかなく、みんなフラフラだった。学校では軍国主義をたたき込まれて戦争に動員されていった。日本が戦争に負けるとアメリカは天皇制を保持して、日本が支配されていった。天皇は戦争の責任を取らず残されたが、天皇の上にはマッカーサーがいた。今はアメリカの手下になって戦争を手伝っている。本当に協力していかないといけないのはアジアの近隣の国国だ。このパネルには戦後私が思っていたことが書いてあった」と共感を示した。
親子連れの姿も目立つ
江田島から小学生の娘を連れて参観した母親は「これまで資料館には何度も行って、悲惨さはわかったが、今回の地震や津波、原発事故などで、自分自身、考え直そうと思っている。今、個人の自由やプライバシーが強調されているけど、近所の付き合いや親同士のつながりがなくなっている。今回の震災ですべてがなくなっている地域もあるが、その地域で協力して立て直していくしかないと思う。そのためには地域のつながりや、学校・教師とのつながりを大切にしないといけないと思う。原発が事故を起こし放射能をまき散らしても、“ただちには影響はない”といわれるが、広島県人として子どもにもしっかりと原爆について考えさせないといけない」と話した。
学校で配られたチラシを見て親子で参観した母親は「祖父から、兵隊でフィリピンに行き、太ももを銃弾が貫通してもがいていたときに戦友に助けられたことや、敵とたたかう以前に食料がなかったことなど、生生しい戦争体験を聞いてきた。しかし、その祖父も亡くなり、学校でもほとんど戦争や原爆について教えてもらう機会のない息子たちは、身近な人から戦争の話を聞くことができなくなっている。今日本は、見た目は平和な生活を送っているが、日本もいつ戦争に巻き込まれるかわからない。原発の事故も起きて日本も平和だなどといってはいられない」と語っていた。
市内に住む20代の女性は「“原爆が投下されたから戦争が終わった”という意見もあるが、このパネルを見ると原爆が正しかったとは絶対にいえないと思う。リアルな写真や詩からは原爆を体験してきた人たちの、家族を失った悲しさや、原爆に対する怒りがすごく伝わってきた。自分たちの世代は、戦争をほとんど知らない世代だが、この展示を見るとわかる。今は自分で足を運ばないとこのような展示を見ることはできないが、本来であれば小・中・高としっかり戦争について教えていかないといけない。原爆や戦争のことをもっと勉強して、まわりの人に伝えていきたい」と語り、パネル冊子を購入した。