下関原爆被害者の会の平成24年度総会が3日、下関市の勤労福祉会館でおこなわれ、被爆者をはじめ2世や賛助会員など約40人が参加した。昨年度1年間、原爆と戦争展や学校に体験を語り継ぐなかで子どもたちの成長とかかわってきたこと、運動を通して結束を強めてきたことが確信を持って確認され、私心なく体験を語り継ぐ被爆者の役割が大きくなっており、今年度1年間、さらに積極的に運動していくことが確認された。
総会のはじめにすべての原爆死没者へ黙祷を捧げた。
昨年度は伊東会長が体調の関係で、大松会長代行の下で活動してきたが、最初に伊東会長から、会長職務を続けることが難しくなったため会長を辞任し、会長を大松妙子氏に、会計担当を古川理郁氏に移行することが提案され、満場一致で承認された。
挨拶に立った大松新会長は、理事から「協力、助け合いでいきましょう」と後押しを受けて会長になることを決意したことを語り、「理事のみなさんの私利私欲一切なく、真の平和のため、二度と私たちのような苦しみ、悲惨な思いをさせてはいけないとの強い願いで、戦争の愚かさ、原爆の悲惨、恐怖を、戦争を知らない世代に今伝えなければと老いに鞭打って頑張っている」とのべ、「平和の大切さ、戦争ゆえの悲惨を伝えることが私たちの使命。一人でも多く参加してほしいと願っている」と、体験を語り継ぐ活動への参加を呼びかけ、参加者から大きな拍手が送られた。
来賓挨拶の最初に、保健予防課の河本敏子課長が中尾市長の挨拶を代読。会の活動への敬意を表し、「核兵器廃絶の実現と、世界に戦争のない真の恒久平和が訪れることを願う」とのべた。
県被団協の竹田国康会長は、県内でも被爆者が高齢化し、会員が減少するなかで、下関原爆被害者の会がもっとも積極的に体験を語り継ぐ活動を展開していることに喜びを語った。
原水爆禁止下関地区実行委員会の平賀彰信氏は、彦島での原爆と戦争展に、子どもたちが多く参観に訪れていること、4月の市立大学でも学生から強い反応があったことを語り、「パネルに“みんなが貧乏になって戦争になっていった”とあるが、今の日本は同じ状態」と指摘。沖縄や岩国基地の増強、下関の人工島の軍港化などにふれ、「今後とも手をとりあって平和のために頑張りたい」と挨拶した。
ここで広島、長崎、沖縄から、総会に寄せられたメッセージが紹介された。
続いて23年度の活動報告がおこなわれた。市内での原爆と戦争展会場や、小学校、大学などで体験を語る活動を積極的におこなうなかで、子どもたちや父母、教師が以前にも増して真剣に体験を聞く姿が特徴だったこと、市立大学では、「できることを協力したい」という学生もあり、下関での活動が広島や長崎とともに発展してきたことが喜びをもって報告された。被爆者の側も子どもの頃に被爆した若い被爆者が初めて体験を語ったり、二世が一緒に参加するなど広がってきたことが報告された。
またこうした活動が、教育集会や礒永秀雄没35周年詩祭、下関市民の会の新春市民のつどい、福田正義没10周年記念集会などへの参加を通して、全国各地のさまざまな分野で運動している人人とつながり、展望を得てきたことが報告された。
二度と原爆や戦争をくり返させないために、被爆者の使命として体験を語り継ぐことを固く決意して会を再建して以後、「原爆と峠三吉の詩」原爆展を各所でおこないながら、機会あるごとに体験を語り継いできたこと、そのなかで会の方向をめぐって「体験を語るのは必要ない。自分たちの楽しみや権利のことだけをやればいい」という主張が被爆者の願いとは違うことをはっきりさせ、私心なく後世に語り継いでいく活動を続けることが、二度と原爆の使用、製造、貯蔵を許さない力をつくり、平和で豊かな日本を実現することにつながっていくと確信してきた18年間の活動をふり返り、被爆者の会の活動が、この1年間多くの人人を励まし、運動を進める原動力となってきたことが確認された。
今年度の活動方針として、学校やさまざまな団体、職場で体験を語る活動を積極的に進めていくこと、そのうえで多くの会員に参加を呼びかけていくこと、広島、長崎をはじめ全国と協力しあいながら運動を進めることなどが提案され、賛成多数で採択された。
総会は、「上関原子力発電所建設計画の白紙撤回並びにすべての原発の停止を求める決議」「総会宣言」を採択し、全員で「原爆許すまじ」を合唱して閉会した。
総会後は小中高生平和の会の高校生や教師も加わって懇親会がおこなわれた。乾杯の後、再建総会から毎年恒例となっている下関青年合唱団から「花を贈ろう」「ふるさと」の2曲が披露された。その後は参加者からこの1年間の経験や思いが交流された。
6歳のとき長崎で被爆した男性は、昨年から体験を語り始めたことを語り、「小さい頃なのでどういう状況か覚えていないところもあるが、王江小学校で5回目になった」と喜びを語った。王江小学校で、子どもたちが真剣に体験を聞き、活発に質問が出された様子や、市立大学では1時間以上熱心に体験を聞いていった教授がいたことなどを話し、「大松会長から行ってほしいといわれたら、どこにでも行こうと思っている。これからもよろしくお願いしたい」と勢いよく話した。
80代の婦人被爆者も、大村海軍病院で被爆者の看病にあたったことを語り、「先日、王江小学校に行って感動した。最初から終わりまで私語がまったくなく、ケロイドの状態などを質問された。つたない話でも一生懸命聞いてくれた」と喜びを語った。
別の80代の婦人は、赤十字病院に勤務して、8月6日に偶然外地からのけが人をひきとりに島根の方に出向いたため直爆を免れ、被爆者を看護した経験を語り、「今でも“水ちょうだい”と白衣を引っ張る患者さんの声が夢に出てくることがある。体調が悪くなかなか出ることができないが、できることを協力していきたい」と語った。
70代の婦人も、「八歳で被爆して地獄のなかをさまよい歩いた。被爆のことをこれまでいわないように、忘れようと生きてきたので、詳しいところを思い出せないところもある。だがこのまま黙っていてもだめだ、体験したことを話すべきだと、やっとそこに立ち返ることができた」と決意を語った。
小中高生平和の会の教師から、「学校や平和教室で被爆者に学んだ子どもたちが、鉄棒の逆上がりや持久縄跳びなどをやり遂げている。被爆者の方方に学んだことが生きている」「平和の会の卒業生が教師になり、子どもたちに被爆体験を聞かせたいと訴えて、10人の広島の方に体験を聞くことが実現した。真剣に聞いていたことが子どもたちのなかに残り、力を発揮している」と語られ、参加者を励ました。
会再建当初からかかわってきた婦人は「吉本さんたちと一緒にやってきたが、来年は90歳になる。背骨を二カ所折って昨年はあまり参加できなかったが、礒永詩祭で朗読に加わった。これが最後と思いながら頑張っている」と、当初をふり返りながら語った。
80代の男性も、ガンとの斗病生活のなかで落ち込んでいたが、「自分は生かされている。命ある限り大切に使わないといけない」と気づいて元気になったことを語り、「みんなから支えられ、協力しあって生きるのが人間。できるだけみなさんと協力しながらやっていきたい」と話した。
賛助会員からも今後、会員とのつながりを深め体験を語る活動への参加を呼びかける決意も語られ、ここまで来た会の発展を喜びあい、意気込みあふれる会となった。