いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

ヒトラーはどんな政治家だったか 橋下徹や維新の会の手法と似ているか?

 立憲民主党の菅直人元首相が「(橋下徹氏は)弁舌の巧みさでは、第一次大戦後にドイツで政権をとった当時のヒトラーを思い起こす」といったことに日本維新の会がかみつき、謝罪と撤回を求めていることが物議を醸している。だが、こうした発言は今回がはじめてではなく、故・石原慎太郎が「彼(橋下徹)の演説のうまさは若いときのヒトラーですよ」といったこともあった。では、ここで俎上にあがるヒトラーとはいったいどんな政治家だったのか。それについて改めて調べてみた。

 

演説するヒトラー(1934年)

 アドルフ・ヒトラーが、ドイツ労働者党を通称ナチス(正式名称・国家社会主義ドイツ労働者党)に改称したのは1920年のことだ。当初は地方の泡沫政党だったが、彼らが仕掛けたクーデター、ミュンヘン一揆が失敗した後の1925年には武装闘争から合法的政党活動に転換し、全国進出をめざす。1928年の総選挙で18万票を得て12議席を獲得したところから、世界大恐慌を経た1932年7月の総選挙では1375万票、230議席を獲得して第一党(総議席608)になり、翌1933年1月、ヒトラーは首相に任命された。

 

 ヒトラーがナチスを結成した時期は、第一次大戦が終わり、戦勝国がヴェルサイユ講和条約で過酷な条件を敗戦国ドイツに押しつけ、ドイツ国内が騒然となっていた時期だ。旧帝国領土の約13%と約700万人の人口を奪われ、再軍備は禁止。そのうえフランスが42年間にわたり総額2260億マルクという天文学的数字の賠償金支払いをドイツに命じた。

 

 ドイツでは失業者が増え、農民は外国農産物の輸入に苦しんだ。そのうえハイパーインフレに見舞われ、最終的に卵一個が100万マルクにもなった。国民のやり場のない怒りは、この条約を受け入れた社会民主党を中心とするワイマール共和国政府に向かった。当時、各政党は離合集散をくり返し、内閣は半年も持たず、何一つ決められなかった。人々のなかで既成政党への幻滅が広がっていた。

 

 そのとき、まるで貧困層の救世主のような装いで登場したのがヒトラーだった。ヒトラーの最大の武器は言葉巧みな演説で、農民や労働者、商売人の苦境を訴え、敵はユダヤ人、共産主義者、そしてワイマール共和国の政治家だと名指しした。

 

 ドイツ近現代史の研究者によれば、ヒトラーは世相をよく読み、人々が無言のうちに求めていることを正確に見てとって、演説という言葉芸で人々の支持をとりつけ、誘導することに長けていた。ヒトラーは何百何千の聴衆を前に、既成政党がいわないヴェルサイユ条約の無法を訴え、「全ドイツ人に職とパンを」「金権貴族を征伐せよ」といった短いフレーズで人々の情緒的感性をくすぐった。とくに「負け犬の滅亡か、誇りある未来か」と単純化して二者択一を迫るやり方をとり、それをくり返し訴え続けること、断固とした口調で一刀両断に断定すること、が彼の政治的プロパガンダの基本的原理だった。

 

 ヒトラーが主催する集会では、共産党や社会民主党といった左派の政敵を挑発してその場に引き入れ、集会を公開論戦の場とし、衆人環視のもとで相手を徹底的に罵倒し、おとしめることを常套手段にしていたという。今でいう「劇場型政治」である。集会は乱闘騒ぎになって中断したり、警察が介入したりする事件が頻発したが、ヒトラーは騒ぎになって新聞に載り、世間の注目を集める方がよいと考えていた。

 

批判者は徹底的に粛清 新聞は発行禁止に

 

 ヒトラーはまた、民意を尊重していると装うことに努めた。ヒトラーは独裁制を非難されるたびに、それが民主的手続きのもとに合法的に生まれたと力説した。だが、ヒトラーは議論をして多数決で何かを決めるという民主主義を嫌悪し、ワイマール共和国の議会制民主主義に終止符を打つことをめざした。

 

 ナチスは失業青年を集めて演説会の護衛集団・突撃隊(SA)を組織した。SAは次第に議会政治の外側で活動する武装組織となり、労働組合や左翼政党の集会を襲撃して政敵を混乱に陥れた。

 

 ナチスが政権をとった1933年3月の総選挙は、もはや自由な選挙ではなかった。ナチスのゲッベルス率いる情報宣伝省が政権与党の猛烈なプロパガンダをおこなう一方、他の政党の機関紙は様々な理由で発行停止にしたり、SAのデモ隊が彼らの印刷所を破壊したりしたからだ。

 

 そのなかでこの年、南ドイツのメスキルヒ市で起こった事件は、ヒトラーの性根をあらわしている。この町の地方紙『ホイベルク民衆新聞』が、「ナチスは、不平不満をかこち猟官運動をする連中の煽動者」という記事を載せ、ヒトラーを当時ドイツを騒がせていた連続殺人犯になぞらえた。するとヒトラーは、ひそかに警察とはかって報復に出た。編集長を検束し、新聞を発行禁止にしたのだ。そしてその後、ナチスは「大掃除」と称して市の幹部職員を様々な理由で追い出し、古参党員から順にポストをあてがった。多くのドイツの都市で同じことがやられたという。

 

 ヒトラー運動の聖典とされる『我が闘争』も、その重要な柱が「強者は必ず弱者に勝利する」「議会主義は無責任体制を意味し、民族を代表する一人の指導者の人格的責任において万事が決定されるべき」「民族共同体が拒絶すべきすべてのことがら(民主主義、議会主義、平和主義、マルクス主義など)にユダヤ人が関係している」などとなっていると研究者は指摘する。ヒトラーは首相になったら歳費は受けとらないと「身を切る改革」を表明したが、『我が闘争』はそれが不要なほど巨額の印税収入をもたらした。

 

ドイツ国会議事堂炎上事件(1933年2月27日)

 3月総選挙が終盤にさしかかった2月27日夜、ベルリンの国会議事堂が何者かの手で炎上した。ヒトラー内閣はただちにこれを共産党による国家転覆の陰謀だと決めつけ、「国民と国家を防衛する」といって非常事態宣言・大統領緊急令を発した。共産党の活動は禁止され、数千人の左翼の活動家が投獄された。また、言論・集会・結社の自由や住居の不可侵など、ワイマール憲法が定めた基本的人権の保障が停止された。

 

 続いて総選挙後の3月23日、ヒトラーは国会議員の3分の2の賛成で授権法を成立させた。授権法は、首相が国会審議を経ずにあらゆる法律(憲法に反する法律を含む)をつくることができると定めた。これによって三権分立の原則は廃止され、国会の機能は消滅した。その後、次々につくられたナチ法によって地方分権の否定、ナチス以外の政党の禁止、労働組合の解体がおこなわれ、ヒトラーは独裁的な権限を持つ総統となってヨーロッパ各国への侵略戦争、ユダヤ人の大量虐殺へと進むことになる。

 

 2013年に副総理だった麻生太郎は、日本の憲法「改正」論議に関連して「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」といったが、それはこの辺りのことを指す。

 

背後で支えたのは財界 ヒトラーに巨額献金

 

 問題は、誰がヒトラーにカネを出して支えたのか、である。それはドイツの財界で、財界はヒトラーに巨額の政治献金をおこない、「ヒトラー首相」を求める請願書を大統領ヒンデンブルクに届けたりした。

 

 帝政復古を主張する国家人民党の党首・フーゲンベルクはドイツメディアを支配するコンツェルンの総裁で、早くからヒトラーとナチスを支援した。ヒトラーが首相になると財界幹部25人が会談を持ち、国防軍の復活や反共産主義で一致。製鉄最大手のクルップが300万マルクの選挙運動資金を約束したことが記録に残っている。つまりドイツの財界が、危機の時代にヒトラーのような政治家を求めたということであり、ヒトラーはその代理人だった。またアメリカが第二次大戦に参戦するまではフォード、GM、デュポン、IBMなど米国大資本も積極的にナチスに出資、支援した。

 

 さて、このヒトラーを痛烈に皮肉り、笑い飛ばしたのが、チャップリンの『独裁者』だった。『独裁者』は第二次大戦が始まったばかりの1940年10月にアメリカで上映が始まった。撮影と上映はさまざまな妨害を受けたが、観客は「毎回、耳が聞こえなくなるほどの拍手」をし、前年の『風と共に去りぬ』を上回る大ヒットとなった。その後、ヨーロッパや南米など世界各国で上映された。ヒトラーは製作と上映を中止に追い込もうとあらゆる手を尽くしたが、『独裁者』は1941年2月末の時点で世界中の3000万人が観劇し、拍手喝采を送ったという。チャップリンとヒトラーとのたたかいは喜劇王の圧勝に終わった。

 

 橋下徹や維新の会の政治手法がヒトラーに似ているかそうでないかは、読者のみなさんの判断に委ねたい。

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。