広島市西区の己斐公民館で12日、原爆展を成功させる広島の会(重力敬三会長)による「被爆体験を聞く会」が開催された。この会は、広島市内の大学に通う大学生たちからの「被爆体験を学びたい」という要望を受けて持たれたもの。1昨年から平和公園での定期的な街頭パネル展示や広島「原爆と戦争展」にスタッフとして参加している学生や、他県から大学進学を機に広島へ移ってきて「初めて被爆体験を聞く」という学生をはじめ、同会の被爆者や被爆2世、現役の社会人や小学生など約20人が参加した。
はじめに全員が自己紹介をおこなった後、同会の被爆者・真木淳治氏がみずからの被爆体験を語った。
83歳の真木氏は、10年前から広島の会の一員として多くの人に体験を語ってきた経験をふまえ、中学3年生(14歳)のときに学徒動員先の舟入川口町の工場(爆心地から約2㌔)で被爆し、まのあたりにしてきた当時の無残な光景について、「体験してきたことは辛いことが多いが、実際にあったこととして皆さんに話すことで被爆者の思いを伝えていきたい」と語り始めた。
「中学2年生のときに、国からの命令で学業を辞めて、工場へ出て働かせる学徒動員令が発令され、私は舟入の軍需工場へ行き機関砲の弾をつくる仕事をしていた」「原爆投下の前夜に空襲警報があったが翌朝には解除になっており、皆仕事にかかっている時間帯だった。原爆が落ちたときはなにが起きたかわからなくなり、近くに爆弾が落ちたと思って“これで死んでしまうのか”と思ったきり、記憶がなくなった。気がつくと数㍍は飛ばされているようだった。建物はすべてぺちゃんこで、工場内から逃げてきた人は皆ケガを負っており、ガラスがささった人、なかには工具がささっている人もいた」と原爆投下直後の様子を語った。
当時、真木氏は友人と向かいあって仕事をしていたが、光線をさえぎる壁がなく直に当たったため、左顔と左腕、お腹を火傷し、友人は反対の右側に火傷を負ったという。また、3年生の他のクラスでは、クラスの半数の80人が東洋工業に派遣されていたが、鶴見橋西側に集まっているときに全員が被爆し火傷を負った。また別のクラスと2年生約160人が、己斐の高須駅の広島航空に派遣されており、当日は爆心地から800㍍付近での作業命令が出ていた。2年生は休みをとって全員が無事だったものの、作業にあたっていた3年生は全滅したと後で知ったという。
「大火傷を負ったが、当時は薬がなくて、江波の陸軍病院に行ったときには食用油をぬってもらった。7日と8日は牛田小学校へ行って手当をしてもらったが、そのときは腕にウジがわいている状態だった」「広島の町は一面が焼け野が原になり、いろいろな物が混ざって焼け焦げる異臭が漂っていた」「朝鮮の病院で働いていた姉が戻ってきており、薬を持っていたのでそれを塗ってもらったため効き目がよく、当時は“まともに見れないほどの顔をしていた”といわれたが今では目立たなくなった」と話した。
戦後は、家も食べ物もないなかで皆が助けあいながら、小さな家を建て、それを少しずつ増やしながら町を形成していき、市内電車も部分的には原爆投下の3日後から走り始めていたことなど、広島市民が焦土からの復興に尽力してきた様子を語った。そして、「生き残った者の役目としてなにかしなければ」「孫たちの世代にこのような体験を絶対にさせてはいけない」との思いから、原爆展を成功させる会に出会ってからは、市内の小学校や中学校での平和学習、大学や各地の「原爆と戦争展」で語り続けているとのべた。
最後に「アメリカは戦争で日本を負かし、占領して基地とすることが目的だった。安倍首相も“積極的平和主義”といいようにいっているが、中国との対立をわざわざ煽って戦車を増やし、戦斗機を増やし、だんだんと世の中が恐ろしい方向へ向かっていると強く感じる。昨年は特定秘密保護法案も決まったが、今のままではこの国がどういう方向へ向かっていくのか心配でならない。そのために広島の会のこのような活動があり、体験者の声を聞いていただいて、多くの人が考えるきっかけを広げていきたい」としめくくった。
被爆体験を今受継ぐ時 世代こえ活発に交流
その後、参加者からの質疑応答を含め、活発な交流会がおこなわれた。原爆展を成功させる広島の会の婦人被爆者も参加しており、自身の経験も語りながら、昨年来の憲法改悪の動きや秘密保護法の制定など、安倍内閣の戦争政治に対して口口に危機感を語り、参加した小学生や大学生など若い世代と一緒に「戦争を阻止させる運動を皆で一緒にやっていこう」と真剣に話し合われた。
大学2年生の女子学生は、「大学進学のために広島に来たが、まだ広島のことはなにも知らず、将来は広島で小学校の先生になろうと考えているので、そのためにはきちんと学んでおきたいとの思いからこの会に参加させてもらった」と打ち明けた。そして、「初めて被爆体験を学んで、話から想像はするが、やはり体験しないとわからない悲惨さがあるのだと感じている。私たちが次の世代に伝えていかなくてはならないし、多くの人に実体験を聞いて欲しいと思った。私自身ももっとたくさんの人の体験を学んでいきたい」と今後の活動への意気込みを語った。
小学生の2人の子どもを連れて参加した被爆2世の男性は、「私の父も被爆しており、小さい頃には話を聞いた覚えがあるが、全部は聞けていないと思う。本人から当時の心境なども聞きたかったが、すでに亡くなって聞けなくなってしまったのが残念だ。子どもたちに少しでも被爆者の実際の証言に触れさせたいと思って来た」とのべた。
13歳のときに被爆した婦人は、この会にかかわっている孫からの誘いも受けて入会したことを打ち明けたあと、平和公園の原爆資料館に展示されている蝋人形を撤去する計画が出ていることに対して「私たち被爆者からすれば、資料館は実際の状況をまったく伝えきれていないのはわかりきっているが、それでも蝋人形までなくして、後世に伝えるものが今以上になくなってしまうことに危機感を持っている」と話した。
呉市から来た婦人は、1歳のとき、救護活動をしていた母親に背負われていて被爆したことなどを話し、「今のきな臭い世の中で少しでも後世に戦争の悲惨さ、くり返してはならないとの思いを伝えていきたいと強く考えるようになって、会へ参加した」と、そのきっかけを話した。「私の父も母も体験をほとんど話さなかった。孫が以前資料館に遠足で行って怖かったといっていたが、小さい頃からそのような感情を持たせるのは大事だと思う。原爆の体験はすべて実際に経験した現実だから」と語った。
別の被爆婦人は、「今の首相は完全に天狗になっている。国民の年金は減らし、消費税は増税して血税を搾るだけ搾って、外国には何億円も渡しており、本当に考えるべき日本国民のことはなにも考えていない。アベノミクスで景気が良くなったとしきりにいわれるが、それは本当に一部の大企業だけの話だ」と発言した。さらに別の被爆者からも「安倍首相は口だけうまくなって、国民をだましながらやっている。今の世の中は本当にいつ戦争が起きてもおかしくない方向へ向かっていることが心配だ」とのべた。
他にも「福島原発はいまだに収束さえしていないのに、原発の再稼働をやろうとしている。なにを考えているのか」「政府は大企業には減税措置だけ、マスコミも本当の悪に対してなんの批判もしない。政治家もマスコミも国民にとってまったく頼りにならない存在だ。平和な日本を守るためには、原爆と戦争展のような地道な運動から始めていかなければならないし、そうしないと日本はかわらない」「秘密保護法でなにが秘密かもわからないようにされているが、戦前のようにいいたいことがいえない世の中になっても、私は二度と戦争をさせないために、被爆体験は絶対に語り継いでいく決意をしている」など、力のこもった意見がひきもきらず語られた。
公務員の男性は、「今日のように、われわれ戦争を体験していない世代が直接被爆体験を聞けるのは本当に貴重な機会で、今後もぜひ参加して学びたい」と話した。別の男性も、「原爆と戦争展を見てから、今の日本が進んでいる方向を非常に心配するようになって、今の危険な状況をどう考え、どう行動していくべきか一緒に考えていければと思って参加した」といい「戦争を体験された方は今の世の中に非常に強い危機感を持っている。私たちの運動によって、戦争をしたがっている勢力の動きをどう止めていくかが課題だと思う」とのべた。
31日も被爆体験聞く会 三篠公民館で
最後に、2年前から平和公園で広島市内の大学生を中心に定期的に開催している街頭「原爆と戦争展」を継続しながら、今年はさらに多くの人に参観してもらうよう活動を広げ、ともに行動を起こしていくために、九州地方や中国地方など広い地域で「原爆と戦争展」を展開していくことが提起された。
原爆展を成功させる広島の会は、31日の午前中には別の大学生たちの依頼を受けて三篠公民館で「被爆体験を聞く会」の開催を予定している。また、3月14日から3日間、初めての会場となる安佐北区のフジグラン高陽2階文化ホールで「原爆と戦争展」の開催を予定している。