衆院東京8区で落選した石原伸晃が岸田内閣の内閣官房参与として日当2万6000円の身分に取り立てられ、さらにコロナ禍で自身の政党支部が雇用調整助成金・緊急雇用安定助成金を請求して60万円を受給していたことが明るみになっている。目くじらをたてて批難する気も起こらないが、「さもしい奴だな…」と思う。恐らくとことん税金にしがみつき、養ってもらうのがあたりまえくらいの感覚の持ち主なのだろう。親父の石原慎太郎はじめ、その弟も含めて石原ブランドのもとで政治家一家としてやってきて、今更潰しも効かない年齢での落選――。さて、第二のキャリアをどうしよう…といっても何もないなかで、とりあえず食いっぱぐれることはないポジションに首相がお目こぼしで引き上げたというのだろうか。この場合、岸田文雄が私費をはたいて相談役になってもらうというのならまだしも、お友だち人事によって税金で養うところがまたせこいと思う。
いまや国会議員に限らず、地方議会を見渡しても議員といわれる者のなかに税金に寄生してあたりまえみたいな感覚の輩がゴロゴロといるではないか。なぜそうなるのかを考えた時、それは石原伸晃に限らず、議員という本来であれば行政のチェック機能を果たさなければならない立場の者を税金で飼い慣らす仕組みがあるからではないかと思う。「政治家殺すにゃ刃物はいらぬ。先生、先生(センセ、センセ)とおだてりゃいい」と誰かが言っていたが、行政からしたらそうやって持ち上げ、いい気にさせて操縦するというのも一つの手で、睨まれたり邪魔されないようにほどよい距離感を築き、追及の手もお手柔らかに――というのがままある。そのために税金で特権的な立場を保証して飼い慣らすというのが定番なのだ。
そうした環境に議員本人がズブズブと浸って慣れきってしまうと、いつしか税金に寄生するのがあたりまえになってしまい、「先生!」と呼ばれる御身分でふんぞり返っていくというのがパターンであろう。「センセ、センセ」とおだてておれば、調子に乗って偉い人になったくらいに勘違いしてしまい、周囲からは「バッチつけたくらいで威張るなよ」と思われているのに、そのギャップに気付かない等々、実はありがちなのである。そして、やれ「あの道路はワシが作った」とか、「あの橋もワシが通した」とか、なぜか税金によって出来上がった公共物まで自分がつくったと言わんばかりの振る舞いを始めるのも“議員あるある”である。私費を投じた訳でもなし「全部税金でつくったものだろうが!」と周囲は思っているのに、本当に厚かましい話のオンパレードなのである。
東京での石原ブランドも一時期の存在感を失い、落ち目なのを象徴しているような助成金受給及び内閣官房参与騒動である。これが晩節ならば汚しているのは本人であり、他人にはどうすることもできない。「内閣官房参与など落選した身でおこがましい」と固辞し、懸命な雑巾がけを選挙区で始めるならまだ身も立っただろうが、参与就任にあたって「体力、能力もある」と本人が自画自賛する始末ではどうしようもない。
なぜ特定の政治家一族を税金で養わなければならないのか? 落選してなお面倒を見なければならないのか? 問題は単純だ。
吉田充春