いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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欧米植民地支配は中東イスラム世界で必ず失敗する――米軍のアフガン撤退が教えること 現代イスラム研究センター理事長・宮田律

 アフガニスタンでは、米バイデン政府が米軍撤退を表明するなか、8月16日にタリバンが首都カブールを制圧して勝利宣言をおこない、ガニ大統領や側近は海外に逃亡してかいらい政権が崩壊した。現代イスラム研究センター理事長の宮田律氏は自身のフェイスブックで、アフガニスタンで今、なにが起こっているかを連日発信している。本紙は宮田氏の了解を得て、8月14日から31日までのコメントを抜粋して紹介する。宮田氏は「日本のメディアはアフガニスタンの人々がタリバンの人権侵害を恐れて国外に退避しているかのように報道しているが、国外に出ている人はそういう人ばかりではない。タリバンがあっという間に政権をとったのは国内の支持があったからだ。タリバン政権と米バイデン政権との間では今後について一定の合意ができていると思われ、タリバンは旧政権からも参加させて国民和解政府をつくることを打ち出した。アフガニスタンの人々は人道的支援を求めており、日本政府は支援を継続すべきだということを訴えたい」とのべている。

 

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米軍撤退を祝うカンダハル市民

 

■サイゴン陥落を想起させる撤退劇 (8月14日)

 

 米国政府は、大使館員の退避のために3000人程度の米軍部隊を派遣することを明らかにした。思い出すのはベトナム戦争末期、サイゴン陥落の直前、1975年4月29日から30日にかけておこなわれた米大使館員たちの救出ミッションで、この際はアメリカのベトナム政策の挫折を世界に印象づけた。

 

 米軍は、対タリバン戦争でタジク人、ウズベク人、ハザラ人から成る「北部同盟」の陸上での戦闘を主に空爆によって支援した。危険な陸上での戦闘を避けて米軍兵士の犠牲を出さずにたたかうには、北部同盟は都合のよい勢力だった。

 

 アフガニスタンは「民族の博物館」とも形容されるほど、多様な民族によって構成されるが、ペルシア系のタジク人たちは、スーフィズム(イスラム神秘主義)を信仰し、穏健な傾向からタリバンのような厳格なイスラム解釈を受け入れることはない。また、ウズベク人はトルコ系の民族で、その名の通り旧ソ連から独立したウズベキスタンを構成する民族でもあり、世俗的傾向が強く、やはりタリバンのような厳格なイスラム主義を嫌っている。さらに、タリバンは、シーア派を信仰するモンゴル系のハザラ人を極度に嫌い、ハザラ人に対する暴力で評判が悪かった。

 

 タリバンは民族的にはパシュトゥン人によって構成される組織だが、そのこともあって米国は新体制ではタジク人を重用した。タジク人は親インド的傾向を持っていた。これはインドと敵対するパキスタンの介入を招き、パキスタンが現在、タリバンを支援していることは明らかだ。これは、イラク戦争後、シーア派を中心に政府・軍隊を構成し、それに反発するスンニ派から過激派組織ISが誕生したのと同様の構図だ。

 

米軍輸送機に乗って国外に退避する人々(8月15日)

 米国は新政府の腐敗にも目をつぶった。カブール銀行は海外からの支援を原資としながら、カルザイ大統領らの腐敗の温床となっていた。これほど腐敗した政府に忠誠を誓う軍隊や兵士を望むことは不可能で、また政府同様に軍隊も腐敗しきっていて、軍高官たちは兵士の数を実際よりも多く申告し、実際には存在しない兵士たちの給与を着服していた。

 

 政府の腐敗、軍の士気の低さも、崩壊した南ベトナム政府を想起させるが、米国はアフガニスタンでも同様に腐敗した政府と手を組み、ISの活動がアフガニスタン北部で見られるなどテロとの戦争という当初の目的も達成できないまま、アフガニスタンを離れようとしている。あらためて何のための戦争だったのかと思わざるを得ない。

 

■アフガン政府や軍隊の腐敗 (8月17日)

 

 米国のバイデン大統領は、17日朝の演説で「米軍はアフガニスタン軍が戦う意思がない戦争で戦うべきではないし、死ぬべきでない」と語った。ならば、アフガニスタンの人々は対テロ戦争など当初から戦う意思などなく、米軍は端からアフガニスタンにやって来て戦う必要などなかったということになる。

 

 アフガニスタン政府や軍を腐敗させた重大な責任が米国にあることはまぎれもない事実だ。米国は莫大な資金をアフガニスタンに注ぎ込んだが、その資金の流れは厳格に監査される必要があった。

 

 中村哲医師がとりくんだように、アフガニスタンの人々に生活手段を与えることこそ、腐敗を防ぎ、資金を単に与えるよりはるかにアフガニスタンの将来に役立つことは明らかだ。米国はアフガニスタンに2兆2600億㌦を注ぎ込んだが、そのうちの1兆㌦は戦費で、アフガニスタンの人々の生活支援とはならず、アフガニスタンは世界で最も貧しい国の一つのままである。また、ガニ大統領は腐敗の根絶を公約としながらも、彼をはじめとするアフガニスタン政府高官たちにも腐敗にとりくむ姿勢がほとんどまったく見られなかった。腐敗こそアフガニスタンの人々を政府から遠ざける要因となった。

 

 駐英大使を務めたアフマド・ワリー・マスード(1964年生まれ)は、対ソ戦争の英雄とされるアフマド・シャー・マスードの弟だが、タジク人の「マスード財団」の理事長となった。2009年10月に彼の弟のアフマド・ズィヤー・マスードは5200万㌦(約55億円)のキャッシュを持ってUAE(アラブ首長国連邦)に入り、兄のためにドバイの高級コンドミニアムを購入した。


 この種の話はアフガニスタン政府の中では絶えないが、政府高官たちはすでにその当時から米軍撤退後の国外逃亡を考えていたと見られている。腐敗こそアフガニスタンにとってタリバン以上の脅威だと、当時からいわれていた。ガニ大統領をはじめ政府高官たちがタリバンの攻勢を前にして真っ先に逃亡したのも、あらかじめ想定していたシナリオだった。

 

 学校や裁判所が建設されるのに米国が資金援助しても、その資金を政府高官たちが着服することもしばしばだった。米国は文民によって構成される「地方再建チーム」を派遣したが、派遣先は親政府勢力の影響力が強いところばかりで、こうした身内びいき的なやり方もタリバン復活の一要因となった。

 

アフガニスタンから撤退する米軍

■大義を放り出して撤退する米軍 (8月18日)

 

 バイデン大統領は17日、「米国のアフガン政策の目的はアルカイダの解体とオサマ・ビンラディンを殺害することだった。アフガニスタン国家の再建や復興は米国の役割ではない」とのべた。また、「我々のアフガニスタンにおける使命は、ネーション・ビルディング(国家造成)ではなく、統一した、中央集権的な民主主義の創設など構想したことはなかった」とも語っている。

 

 しかし、この発言は事実ではない。米国政府は20年間にわたって1450億㌦を治安部隊、政府組織、経済、市民社会の再建のために費やした。

 

 バイデンは2003年に上院外交委員会で、米国がアフガニスタンのネーション・ビルディングを達成できなければ、アフガニスタンは混迷に陥り、血に飢えた軍閥、麻薬密売人、テロリストで溢れることになるとのべている。イラク戦争もそうだったが、「自由」と「民主主義」の促進はアメリカが他国で戦争をおこなうことを正当化する言葉になってきたが、自由や民主主義の価値観を植えつけ、その政治制度をつくることもネーション・ビルディングに含まれることはいうまでもない。

 

 バイデン大統領は同じ演説で「米軍はアフガニスタン軍が戦う意思がない戦争で戦うべきではない」とも語ったが、2001年の対テロ戦争開始以来、アフガニスタン治安部隊の戦死者は6万5000人に上る。米軍はアフガニスタン軍が最前線で必死に戦っている時期にもタリバンに対して決定的な勝利を収めることができなかった。バイデン大統領の発言はアフガニスタン軍の戦死者に対する礼に失している。その論理には米国のアフガニスタンに対する植民地主義的、人種主義的な見方や偏見があるといわれても仕方ない。

 

 米国は自国の現実的利益を最優先させて、アフガニスタンから大義を放り出して撤退する。日本に駐留する米軍は、危機の時には日本を防衛することになっているが、日本もアフガニスタンで発生している事態は他人事ではないだろう。

 

■民意を吸い上げるシステムづくり (8月20日)

 

 アフガニスタンでは、米政府関係者、米軍に協力していたアフガニスタン人たちが退避する前にタリバンが首都カブールに進撃し、アフガニスタン政府は崩壊した。現在アフガニスタンに駐留する米軍は1万人ほどだと見積もられているが、米軍にはカブールに進撃するタリバンを阻んで戦闘する姿勢がまるでなかった。よほどガニ大統領を頂点とする政府を米国のバイデン政権は見限っていたということか。

 

 現在のタリバンの最高指導者ハイバトゥッラー・アホンザーデ(アクンザダ)師が、「アフガニスタンに民主制の土台なし」とのべたという。「民主制」というのは欧米的民主制のことをいっていて、タリバンが民意を吸い上げるシステムまで否定したわけではない。アフガニスタンには「ジルガ(会議)」というシステムがあって、人々は協議によって重要事項の決定をおこなってきた。「ジルガ」は、合意とパシュトゥーンワーリー(パシュトゥーン人の部族の掟)に従って決定を下す。さらに伝統的にロヤ・ジルガ(国民大会議)で、国の指針を左右するほどのきわめて重要な政治・社会問題の解決を図ってきた。

 

 アクンザダ師は1961年生まれで、宗教指導者であった父親の教育を受けたようだ。正式な教育的背景はないが、その政策の判断基準はイスラム法やパシュトゥーンワーリーということだろう。

 

 アフガニスタン政府が崩壊してほどなく、警察も裁判所もないなかで、各地で私的な処刑や、武力によるデモの鎮圧などのニュースが続く。思い出すのはイラン革命直後の状況で、王政の中心にいた人々へのリンチや、確固たる法的な根拠がないままに、麻薬常習者や、同性愛者に対する処刑があいついだ。タリバンの場合、アフガニスタンの将来についてカルザイ元大統領とも協議しているので、旧体制に関連する人物を処刑したり、排除したりすることはない様子だ。

 

 ドイツはタリバン政権に対する経済支援を完全に停止するとのべた。米国に次ぐドナー国(経済支援提供国)の日本はやはり米国の動静を見てということだろうか。
 こういうときこそ日本独自のイニシアチブで、アフガニスタンに平和や安定が訪れるような調停役を買って出たらどうだろう。

 

首都カブールを制圧したタリバン(8月15日)

■タリバンの全土制圧の速さ (8月23日)

 

 タリバンが政権を奪取するさい、米軍はカブールに進撃するタリバンに反撃を加えることがなかった。すでにトランプ政権時代の昨年2月に、米軍が今年5月1日までに撤退することを明らかにするなかで、トランプ政権とタリバンの間では「協定」が成立し、米軍がアフガニスタンから撤退する代わりに、タリバンは米軍を攻撃しないという取引をおこなっていた。他方、米軍もタリバンを攻撃しないと約束するなど、米国は米軍の将兵たちの安全を何よりも優先していた。そのため、タリバンの攻撃はアフガニスタン政府軍に集中することになり、タリバンの急速で圧倒的な勝利の一要因となった。

 

 つまり、アフガニスタン政府は米国とタリバンの取引のなかで見捨てられる格好になったのだ。すでに地方の戦闘では、政府軍兵士たちは戦線を離脱したり、タリバン側に寝返ったりしていた。カタール・ドーハでおこなわれていた和平交渉も、アフガニスタン政府の意向は反映されぬまま、米国とタリバンの間でおこなわれていた。

 

 アフガン戦争は、タリバンが9・11の同時多発テロを起こしたアルカイダの指導者たちを米国に引き渡すことを拒み、かくまったとされたことで開始された。2001年11月にタリバン政権は崩壊し、12月にタリバンのスポークスマンは無条件降伏の意図を明らかにした。2003年5月にラムズフェルド国防長官は、アフガニスタンでの主要な戦闘の終結を宣言した。

 

 米軍がアフガニスタンに駐留する大義はこのときすでになく、撤退できるチャンスはあった。しかし、米国や日本、NATO諸国はアフガニスタンのインフラ整備や新たな政府づくりという国家造成(ネイション・ビルディング)への支援に熱心になっていった。

 

 2010年半ば、オバマ大統領はアフガニスタン駐留米軍の兵力を10万人としたが、タリバンの戦闘能力は増すばかりだった。2011年5月にオサマ・ビンラディンがパキスタン・アボタバードで殺害されると、オバマ大統領は2014年までに米軍のミッションを終えることを明らかにした。その頃、米国防総省はアフガニスタンでの戦争は軍事的に勝利することは不可能で、交渉による解決しかないと考えるようになった。それは、19世紀のイギリスや20世紀のソ連と同様だった。

 

 脱走や徴兵数の低下、司令官たちによる着服などでアフガニスタン政府軍の士気は低下し、戦死者数の増加は兵士たちの士気をいっそう低下させた。米軍は政府軍に毎年40億㌦を費やしたが、効果はなく、今年春の段階で2、3年の間にアフガニスタン全土はタリバンの手に落ちることが米国政府の一部から予想されるようになった。だが、それよりもはるかに早いタリバンのカブール制圧だった。

 

 アフガニスタンの混乱は、難民の流出、麻薬の拡散、テロの拠点化などの問題を孕んでいる。アフガニスタンを拠点とする「ISホラサーン州(ISKP)」にはウズベキスタンやタジキスタンなど中央アジア出身者が多く、中央アジア諸国やロシアにとって、タリバンの政権掌握は重大な脅威であるに違いない。米軍の撤退とタリバンのカブール制圧は、エジプト、アルジェリアで20世紀に見られたように、欧米諸国による中東イスラム世界支配には必ず失敗という終わりがあることを教えている。

 

国外退避のためにカブール空港に押し寄せる人々を米軍が制止(8月16日)

■米国の戦争の楽観主義が招く悲劇  (8月24日)

 

 アフガニスタンでの対テロ戦争開始に際して、米国のブッシュ大統領は自信に満ちた表情でその勝利を誓った。米国の楽観主義は、その圧倒的な軍事力と、みずからの動機が正義であるという「確信」によって裏付けられている。しかし、そうした楽観主義はいつももろくも崩れていく。

 

 アフガニスタンに侵攻した国や勢力によって国家の元首に据えられた人物は、すべて悲劇的な末路に終わっている。第一次アフガン戦争で英国が復位させたシュージャ・シャー(1785年~1842年)は、1842年4月にカブールに駐留したイギリス軍が劣勢にさらされ、撤退すると暗殺された。第二次アフガン戦争でも、イギリスは1879年にモハンマド・ヤクーブを統治者(当時は「エミール」の称号)に据えてアフガニスタンの外交権をすべてイギリスに委任させる条約を結んだが、アフガニスタン人の反発が強く、彼は翌年廃位させられた。

 

 1979年にソ連軍が侵攻して強化しようとしたアフガニスタンの人民党(共産党)政権も、1989年のソ連軍撤退の3年後に崩壊し、人民党政権のナジブラ元大統領はタリバンによって殺害された。そして今回、ガニ政権もあっけなく崩壊した。米国は、アフガニスタンの人々の心情やアフガン社会の伝統的な構造を理解できないまま撤退しようとしている。

 

 米国は、イラク戦争でもサダム・フセインの大量破壊兵器保有を問題視し、その脅威を除くといって戦争を開始した。米英軍はラムズフェルド米国防長官の楽観的構想もあって15万人余りの兵力でイラク戦争を始めたが、それはきわめて不十分であった。イラクではフセイン政権の崩壊とともに警察などの治安機能がまったく失われ、少ない兵力の米軍は略奪をただ傍観しているほかなかった。タリバンのカブール制圧に手を出すことがまるでなかった今回の米軍の様子と重なるようだ。

 

 米国は、タリバンやサダム・フセイン政権を倒せば「自由」「民主主義」のアメリカ型の価値観をこれらの国に植えつけることができるという楽観的判断の下に戦争を開始したが、アフガニスタンではタリバンが根強く米軍や政府に対する攻撃を続け、またイラクでは米軍に対する武装集団の蜂起がいっせいに始まった。両国では米軍と現地住民の間で埋めがたい溝が生じた。米国は、どのような形態で米軍を撤退させるか具体的構想を持っていなかった。

 

■日本人は人道的支援の継続を (8月25日)

 

 8月23日、日本政府はタリバンのアフガニスタン・カブール制圧を受けて現地に残る邦人などの救出のために自衛隊の輸送機の派遣を決めた。

 

 日本大使館員(おそらく日本人のみ)たちは17日に英軍機でドバイに退避している。記者会見での加藤官房長官の発言からは、現地に邦人たちがどれほど残っているのか、また、アフガニスタン人のローカル・スタッフの「安全確保を図る」とはいうが、彼らを難民として日本に受け入れる気があるのかどうかは明らかではない。やはり国際社会には応分の義務や責任があり、日本政府には難民の受け入れをはじめ、現在のアフガニスタンの困難に何らかの貢献をしてもらいたいものだ。

 

 日本はアフガン戦争が始まってから7500億円の支援をしたそうだが、米軍が撤退し、タリバンが政権をとったから打ち切りでは、これまでの支援が台無しになる。JICAなどはアフガニスタンから研修生を招き、農業技術などの研修をおこなってきたが、そのような支援は継続すべきで、アフガン支援のためにタリバンとの対話のチャンネルは維持していくべきだろう。

 

 静岡県島田市でクリニックを営むアフガニスタン人医師のレシャード・カレッドさんは、アフガニスタンをはじめ多くの発展途上国が日本の戦後復興を喜び、アフガニスタンにも惜しみない協力をしてきた日本を尊敬し、将来の目標にしてきたと語っている。またカレッドさんは、日本には軍事的な貢献ではなく、優しい友愛の心で他国に接してほしいと話す。難民を受け入れるなど、アフガニスタンの日本に対する信頼をさらに厚くするような関わりが、アフガニスタンの激動期にあらためて求められている。

 

「剣によって立つ者、必ず剣によって倒される」―中村哲医師の言葉 (8月26日)

 

中村哲氏

 「中村哲が14年に渡り雑誌『SIGHT』に語った6万字」と題するサイトは、中村哲医師がアフガニスタンでの実践から得られた政治・社会観について2000年から09年にわたって語った言葉を紹介している。その一部を引用すると、

 

 「政治権力を誰がとるかということはアフガニスタンの内政の問題であるということですね。こっちとしては徳川家康が出ても、豊臣秀吉が出ても、それは彼らの選択であって外国人は口を出してはいけない、っていうのが基本的姿勢なので……」
 「最近はテロリストという言葉の響きが変わってきまして、政治目的を達成するためには罪もない人を巻き添えにするということがテロリズムの定義とするならば、欧米諸国の軍以上のテロリズムはないんじゃないかと私は思います」
 「聖書の言葉を使うと、“剣によって立つ者、必ず剣によって倒される”と。これはもう歴史上の鉄則なんです」

 

 「剣によって立つ者、必ず剣によって倒される」――アフガニスタンから撤退する米国のことをよくいいあらわしているように思う。タリバンの政権奪取をとらえて、武力で政権を奪うことは許されないという声が欧米諸国では上がっているが、武力でタリバン政権を崩壊させたのは米英軍の方だった。タリバン政権が成立したアフガニスタンに経済制裁を科すようなことがあれば、最も困難な状態に置かれるのはアフガニスタン国民であることは明白だ。

 

 WFP(国際連合世界食糧計画)が8月16日に出した報告書によれば、アフガニスタンでは、栄養失調の危険にさらされる200万人の子どもを含めて1400万人の人々が食料不足の状態にあり、今年1月には300万人以上が国内避難民であったが、それに加えて1月以来、38万9000人が新たに国内避難民となった。15万1000人が新型コロナウイルスに感染した。WFPは今年、1390万人の人々を支援する予定だが、今後6カ月の間に1億9600万㌦を必要とするそうだ。アフガニスタンが人道的危機にあることは疑いないが、アフガン人たちがこの「修羅場」を乗りこえるには国際社会がタリバン政権にどれほどの支援を与えられるかに関わっている。

 

 政権を奪取したタリバンは、女性たちを特定の職種から排除するなど急進的な方策を当面とっていくだろう。革命のような大きな政治変動の後には急進主義、過激主義があらわれるが、次第に穏健化、現実化していったことは、フランス革命などの歴史が教えるところだ。

 

 タリバンの報道官は日本人を必要としているとのべ、日本の支援を求めていることを明らかにし、同時に自衛隊には退去してほしいとのべた。中村哲医師は自衛隊の派遣は「百害あって一利なし」と参議院外交防衛委員会で2008年11月にのべ、自衛隊の派遣によって日本人が攻撃の対象となる危険性を指摘したが、アフガニスタンの政治変動に際してあらためて中村医師の考えは日本人に教訓を与えている。

 

■自爆テロは「対テロ戦争」の失敗を物語る (8月27日)

 

 26日、カブール空港近くで自爆テロが発生し、米兵13人、アフガニスタン人100人以上が犠牲になった。中央アジアからアフガニスタン、パキスタン、インド、スリランカにかけて活動するISの支部「ISホラサーン州(ISKP)」が犯行声明を出した。アフガニスタンを中心に活動するものの、ISKPのメンバーには中央アジア出身者が多いと見られている。

 

 ISの活動家、メンバーは、米軍などのIS掃討作戦によってシリアやイラクで活動しにくくなると、政治的安定に乏しく、戦闘やテロが継続するアフガニスタンにその活動の重心を置くようになった。中央アジア出身者たちはISの活動の先鋭的な性格を担っている。

 

 ISKPは、タリバンは米国と交渉することで、米国に屈服していると考えるようになった。タリバンの幹部も、カブール空港でタリバンの戦闘員たちがISKPの脅威を受けているという声明を出した。ISKPは、ウズベク人やタジク人の他に、アフガニスタン人、さらにインド人、パキスタン人、スリランカ人など南アジア出身者たちからも構成され、19年4月のスリランカ・テロで国際的注目を浴びた。

 

 中央アジアと南アジアのイスラム過激派には、出稼ぎ労働で海外に出かけ、送金で家族を支えていた者が多い。新型コロナウイルスは、これらの出稼ぎ労働を鈍らせ、多くの失業者たちを生むことになり、失業者たちもまたISKPの運動に吸収されている。テロの要因として経済的要因は重要だが、米国は軍事力一辺倒でテロの制圧を考えてきた。

 

 2021年2月8日、ケネス・マッケンジー米中央軍司令官は、ISKPは2020年後半、各地でローンウルフ型のテロ攻撃をおこなう能力を高めたとのべたが、この発言の通りにISKPは米軍撤退という時期に大規模テロを起こし、世界の耳目を集めることになった。テロの脅威がなくなったという理由でアフガニスタンから軍隊を撤退させるバイデン政権のメンツが潰れることになった。

 

米軍の爆撃で荒廃したアフガニスタンの市街地

■アメリカとタリバンの取引 問われる日本の位置 (8月28日)

 

 米軍のアフガニスタンからの退避作戦中、カブールの治安維持を担い、米軍の作戦に事実上協力したのは、米軍と20年間戦ってきたタリバンだった。23日、ウィリアム・バーンズCIA長官は、バイデン大統領からの親書を携えてタリバンのアブドゥル・ガニー・バラーダル副指導者と秘密裏に会談をおこなった。タリバンとの協力は、ISによるテロ攻撃の脅威が増すなかでは不可欠と米国には思われた。タリバンが8月15日にカブールを制圧して以来、カブールの治安に責任をもつタリバン指導者たちと米軍の司令官たちの間で対話が繰り返された。

 

 米軍は2019年、北部ジョージャン州やゴール州での対テロ作戦のなかでISの指導者たちをドローンなどで殺害し、タリバンはこれらの州で影響力を強化した。対ISという点で米国とタリバンは事実上同盟関係にある。

 

 米国は1970年代から冷戦の環境下のアフガニスタンに関心を持ち、ソ連に対抗していった。アフガニスタンが混迷するのは、1978年4月27日の「4月(サウル)革命」で共産党の人民党が政権を掌握してからだ。ソ連は人民党を支援し、他方米国は共産党政権に反感を持ち、「ムジャヒディン」と呼ばれるようになるイスラム勢力にてこ入れするようになった。このイスラム主義勢力の中からタリバンが誕生することになるが、米国はタリバンの成立にも事実上貢献したことになる。

 

 人民党政権は急激な農地改革を推し進め、広範な抵抗を招くようになったが、反政府暴動に対してアミン革命評議会議長(国家元首)政権は数万人を殺害したと見積もられるほど過酷な弾圧をおこなった。アミンの強権的手法を懸念したソ連は1979年12月27日、カブールに空挺部隊を派遣し、アミンを殺害した。このソ連の軍事介入に対し、ムジャヒディンたちは即座に抵抗運動を強化した。1980年代、アメリカはムジャヒディンたちに武器・弾薬、資金を与え、アフガニスタンに対するアメリカの影響力も増していった。

 

 ソ連軍は1989年2月にアフガニスタンから撤退していったが、ムジャヒディンの各グループの指導者たちは軍閥と化して互いに戦闘を繰り返した。こうした混乱のなかから秩序と平穏をもたらすと約束して登場したのがタリバンだった。

 

 1990年代にタリバンが成功したのは、麻薬取引や人身売買などを終わらせ、人々に安全や秩序、生活を与えると約束したからだった。タリバンの訴えは特に農民層の支持を得るものだったが、しかし約束を実現できないと音楽を禁止したり、女性の役割を制限したりするなど極度に抑圧的な措置をとっていった。

 

2001年の対テロ戦争開始後、アフガニスタン人は外国からの支援によって生活状態が改善されることを望んだが、失業率は高いままで、また政府は権力を濫用して腐敗していく。タリバンは、今回も政府の腐敗を批判し、また米軍など外国軍の排除を唱えて人々の支持を集め、女性には教育や権利を与えると語るようになった。この政権が1990年代のように抑圧的にならないためには、人々に十分な職や食料を供給し生活の保障をおこなえるかどうかに関わっている。

 

 日本は現在タリバンとの対話のチャンネルがないようだが、もはやタリバンを軍事力で排除することは不可能で、タリバンが抑圧的にならないように、アフガニスタンの安定のために必要な支援を継続することを考えるべきだ。アフガニスタンの安定はテロの抑制など同盟国アメリカの安全にも資することになることを、親米的な政治家たちは視野に入れたらどうだろう。

 

■新しい国民和解政府の陣容 (8月30日)

 

 タリバンの新政府は、1996年から2001年までのタリバン政権と違って、アフガニスタンの広範な勢力を集めた政府の樹立を考えているようだ。旧政権のカルザイ元大統領や、外相などを務めたことがあるアブドラ・アブドラ前国家和解高等評議会議長の政権参加も見込まれるようになり、タリバン政権はアフガニスタンの国民和解を目指した政府になる印象だ。ドイツは新政府に広範な政治勢力の結集がなければ、支援金の停止をちらつかせているが、そのような圧力をタリバンも意識しているのだろう。アフガニスタンの国家予算の六割から七割強は外国からの支援金によってまかなわれている。

 

 新国家では大統領や、またイランのような宗教的な最高指導者も置かれないようだ。その代わりに12人のメンバーから成る執行評議会が設けられる。

 

 アフガニスタンでは23日、タリバンのカブール制圧後に初めてロヤ・ジルガ(国民大会議)が800人ほどの国内の著名な学者たちを集めて開催された。 

 

タリバン政権下でのロヤ・ジルガ(大国民会議)

 すでに内相にはタリバンの軍事司令官であるムッラー・イブラーヒーム・サドルが就任している。彼は、1980年代はソ連軍と戦っていたムジャヒディンで、ソ連軍の撤退とともに、パキスタンのペシャワールでイスラム神学を教えるようになった。1994年にタリバンの創立に参加し、米英軍の侵攻とともに地下に潜った人物だが、米軍やNATO軍と戦ってきて、2016年に軍事司令官となった。

 

 財務相にはグル・アガー・イスハークザイ(1972年生まれ)が就任した。彼はタリバンの財務委員会のトップだった人物で、カンダハルでの自爆テロなどに資金を提供したとして国連や米国、EUなどから制裁を受けている人物だ。他方で、彼は他のメンバーたちとともに2015年頃からアフガニスタン政府との和平交渉に関心を示し始めたともいわれている。

 

 タリバンの国防相には、ムッラー・カイユーム・ザーキル(1973年生まれ)が就任した。2001年にアフガニスタン北部のマザリシャリフで米軍に捕らえられ、2007年までキューバのグアンタナモ基地に収容されていた。同年12月にアフガニスタンまで移送され、2008年5月に部族の長老たちの圧力もあって釈放された。

 

 タリバン以外ではアフガニスタンのムジャヒディン組織「イスラム党」の指導者だったグルブッディーン・ヘクマティヤール(1947年生まれ)も政府に参加する可能性が指摘されている。イスラム党は、急進的なイスラム原理主義に訴える組織で、アフガニスタンにおけるイスラム国家の創設を目指していた。

 

 少数民族からも、冒頭のタジク人のアブドラ元外相、ウズベク人のラシード・ドスタム将軍、ハザラ人・シーア派でカルザイ政権で第二副大統領を務めたモハンマド・カリーム・ハリーリー(1949年生まれ)などが参加する可能性がある。少数民族の参加はタリバン政権の安定のために必要で、もしできなければアフガニスタンはまた内戦に陥ることすら考えられる。ハリーリーはもしハザラ人が守られることがなければ武力で蜂起するとものべている。

 

8月30日午後4時29分、カブール空港から離陸した最後の米軍C17輸送機

■20年の「対テロ」戦争が残したものとは (8月31日)

 

 米軍最後のC―17輸送機がハミド・カルザイ国際空港を日本時間の午前4時29分に離陸して、20年間という米国史上最長の戦争であるアフガニスタン戦争は終わった。「対テロ戦争」という大義を掲げながらも、米軍が軍事力で政権を崩壊させたタリバンはこの20年間、米国本土で一度もテロを起こしたことがなかった。タリバンがアフガニスタンでおこなった外国軍への攻撃は、タリバンから見れば「抵抗」というものだろう。

 

 ブラウン大学ワトソン研究所の統計では、今年四月までにアフガニスタンとパキスタンの「対テロ戦争」の舞台では24万1000人が亡くなり、そのうち7万1000人が市民だった。米軍とアフガニスタン政府軍は空爆などで、反政府武装勢力タリバンよりも市民の方を多く殺害した期間も多々あった。2008年7月には花火が打ち上げられていた結婚式を、ロケット弾と間違えたといって米軍が誤爆し、47人が犠牲になったこともあった。

 

 アフガン政府軍・警察の死者は6万6000人、タリバンや他の反政府武装勢力の戦闘員の死者は5万1191人、またおよそ2500人の米軍の将兵、3846人の米民間軍事会社の社員、1144人のNATO軍将兵が死亡した。

 

 さらに、アフガニスタンの復興支援の監査を行うSIGAR(アフガニスタン復興担当特別監察官)によれば、2万666人の米軍将兵が負傷し、2001年以来、80万人の民間軍事会社の社員が負傷した。負傷者に圧倒的に民間軍事会社(PMC)の社員が多いように、対テロ戦争を契機にPMCが実際の戦闘に大規模に導入されるようになり、対テロ戦争で莫大な利益を上げたPMCは次から次へと戦争を望むことになる。

 

 米国は2兆㌦以上の予算をアフガニスタンにつぎ込んだが、米国が創設した30万人のアフガニスタン国軍はタリバンと有効に戦うこともなく、消滅していった。米国が支えた政府のガニ大統領は、現金1億6900万㌦を携えてドバイに逃亡した。

 

 アフガニスタンで「国民和解政府」が成立するという報に接して、バイデン政権がタリバンとの和平交渉の結果、軍の撤退を決断した背景が明らかになったような気がする。旧政権や少数民族の指導者たちがタリバン主導の政権に参加することで、米国は「対テロ戦争」の成果をアフガニスタンにとどめることになり、メンツをわずかながら保ちながらの撤退となった。

 

米軍の空爆を受けた国境なき医師団の病院。患者・スタッフ42人が死亡した(2015年10月、アフガニスタン・クンドゥズ州)

 

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