戦前の天皇制軍国主義の支配者たちは、日本軍を朝鮮半島に侵攻させ、1910年に大韓帝国を併合した。土地をとりあげられた朝鮮の農民たちは、仕事を求めて日本に渡ってきた。そして1923年の関東大震災後の戒厳令下で、日本の軍隊や警察、デマを信じた人たちによって多数の朝鮮人が殺された。
東京都墨田区のある小学校の女性教師は、社会科の郷土学習の教材づくりで地元のお年寄りから話を聞くなかで、地元・荒川放水路の河川敷でも関東大震災時に朝鮮人の虐殺がやられていたことを聞いて驚いた。しかも、今も遺骨が埋まったままだというではないか。それをきっかけに1982年、遺骨発掘が呼びかけられる。彼女を含む市民グループ「ほうせんか」は、のべ150人にのぼる証言の聞きとりと、殺された朝鮮人の追悼を始めた。
本書は、そのことをまとめた1992年刊行の『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)に、その後の30年間の「ほうせんか」の活動を増補して、装いも新たに出版されたものだ。
女性教師が地元のお年寄りから聞いたのは、次のような証言だ。「旧四ツ木橋の下手の川原で、朝鮮人を10人ぐらいずつ後ろ手に縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺した。橋の下手に3カ所ぐらい大きな穴を掘って埋めた。ひどいことをしたものだ。今でも骨が出るんじゃないか」。聞けばこのような証言は他にもあり、お年寄りたちは「お線香の一本でも、花の一つでもあげてあげれば…」という。
女性教師はなんとか供養ができないかとお寺の住職に相談したり、新聞社に調査を依頼したりしたが、埒(らち)があかなかった。そこで彼女の呼びかけで80人の市民が集まり、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」準備会ができた。
地元の建設会社の社長が「盆にこんな話を持ち込まれたんじゃ断るわけにいかない」と大型ユンボを動かし、1982年9月、3日間にわたって試掘がおこなわれた。堤防の上は見に来た人で鈴なりになり、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだとか、泥棒したとかのデマが飛び交って、朝鮮人を取り囲んで丸太ん棒や鉄棒で殴り殺していた」「軍が機関銃であっという間に殺した」と、60年間胸の奥底にしまっていた話がどんどん出てきた。体験者から直接話が聞ける最後の時期でもあった。
「震災のとき、父親は行方知れずになった。どこで死んだかもわからない。だからまだ墓を建てていない」という在日韓国人からは、墓の費用として貯金していた金を「調査に使ってくれ」と渡され、無念の思いを託された。地元の小学校や朝鮮初中級学校の子どもたちも集まり、彼らの手によって穴の中に献花がおこなわれた。
これに対して「60年も前の古傷を掘り出す馬鹿がいる。靖国神社に祀られた犠牲者は浮かばれない」との非難の手紙も少なくなかった。証言者にいやがらせもあった。だが、「本当のことを次の世代に残したい」と、証言者はひるまなかったという。
軍の出動で犠牲者は急増 助ける日本人も
数年がかりで、のべ150人に体験の聞きとり調査をおこなうことで、次のことがわかってきた。
1923年9月1日の関東大震災で、東京府(当時)の死者は約6万人であり、その多くが大火災の犠牲者だった。とくに隅田川流域の下町で、人口がもっとも集中している地域の犠牲が多かった。命からがら逃れた人々の列は、隣の南葛飾郡(旧四ツ木橋はそこにある)に何日も続いた。
ところで、天皇制政府の戒厳令発布は2日の夕方だった。しかし、軍隊の配置はそれ以前に着々と進んでいたという。
1日夜、南葛飾郡では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が襲撃してくる」などの流言飛語が飛び交っていた。そのうち聞きとりでもっとも早かったのが東武亀戸線沿線住民の証言で、「一日夕方5~6時頃、憲兵隊3人がやってきて、蓮田の中にピストルをドカンドカンと撃ち込んで、朝鮮人が井戸の中に薬物を投げた、かようなる朝鮮人は見たらば殺せ、と避難民に命令した。一般のわれわれが煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です」というものだった。この日の夜から3日にかけて、自警団や民間人が朝鮮人を殺している場面を目撃したと、かなりの人がのべている。
そして、事件を大きくしたのが出動してきた軍隊による虐殺で、それによって朝鮮人の犠牲者は急激に増えた。次のような証言がいくつもある。
「朝鮮人を二列に並ばせて、歩兵が背中から銃で撃つんだよ。それは2、3日続いた。死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち会いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだ。自分は何回も立ち会ったから知っている。ずいぶん朝鮮人のこともかばったけれど、“君らにはそういう権限はない。俺たちは軍隊の命令でやっているんだから”と憲兵にいわれた。自分たちの意見は絶対に通らなかった」
しかも天皇制政府はこの事実を隠すために、即座に隠蔽を始めたことが、朝鮮総督府警務局の当時の文章からはっきりとわかる。関東大震災直後、南葛飾の労働運動家ら14人が投獄され殺されたが、当時の亀戸署長は「死体は荒川放水路堤防において朝鮮人死体100余名とともに火葬しているから、どれが誰の遺骨かわからない」と説明した。実際にはそれらの遺体は後に掘り出され、日本人と朝鮮人の別なくどこかに持ち去られた。
ところがこの極限の場で、朝鮮人を助ける日本人が多くいたこともわかった。当時南葛飾郡には多数の朝鮮人が働いており、「荒川土手をこしらえたのは朝鮮人だ」といわれるほどだった。「みなまじめで善良な人たちで、悪い奴などいない」と住民はわかっていた。また、こういう証言もある。
「15、6人の朝鮮人を雇っているガラス屋に行くと、“この人たちは決して悪いことはしていないんだから、あんたたち青年団は助けてやってくれ”と社長がいう。“わかった”ということで彼らをトラックの真ん中に乗せ、青年団が回りを囲み、暴徒から守るようにして警察に連れて行った。ところが朝鮮人たちは、その後荒川土手に連れて行かれ、軍隊に機関銃で撃たれたんだ」
かつての戦争で日本人を戦場に駆り出し、夫や親兄弟を殺し、家財を焼き払わせた同じ為政者たちが、その同じ手で関東大震災時に朝鮮人を虐殺し、日本人と朝鮮人を反目させようとした。その歴史的事実を明らかにすることは「日本の損失」ではない。死者に礼を尽くし、その安否を思い悩んでいる故国の遺族とも心を通わせることこそ人道にかなったやり方であるし、次の世代に平和国家としての日本の伝統を受け継がせることになる。
1982年の「試掘」から39年、遺骨を掘り出すことはかなわなかったが、地元の人たちと追悼事業を続けることで、2009年には事件の現場近くに追悼碑を建立することができ、今では近隣の子どもたちや大学生、若者たちの訪問が増えているという。
(ころから発行、B5判変形・278ページ、定価2000円+税)
東アジアの平和友好にとって意義あることだと思いますありがとうございます