哲学者・内山節氏(立教大学大学院教授などを歴任)が東北農家の勉強会でおこなった報告をまとめた『内山節と語る 未来社会のデザイン』(全3巻)が、農山漁村文化協会(農文協)から発刊された。『民主主義を問いなおす』『資本主義を乗りこえる』『新しい共同体の思想とは』のテーマで構成している。
コロナ禍は直接的には医療、経済の面から新自由主義の破綻を浮き彫りにした。同時に、明治以後築かれた日本の近代的な政治・経済、統治システムが機能せずほころびを見せていることを、だれもが感じるようになっている。今日、欧米でも日本でも為政者が近代革命のスローガンであった「自由・平等・友愛」を理念とする民主主義を貫くことができず、そのたてまえすら公然と投げ捨てるまでになっている。経済統計や領土問題、憲法や国際法なども実体からかけ離れ、ウソで塗り固めた政治が横行している。
著者はこうした社会の荒廃、行き詰まりの現象は、近代社会をなりたたせてきた基本的なシステム、価値観、世界観が現実の人々の生活の営みとはかけ離れた虚構の上に虚構を重ね実体のないものとなっているからだと指摘する。人類社会は人間と自然の関係、人と人との関係でなりたってきたし、もちろん今もそうである。人間は個人バラバラでは生きていけず、共同体の絆なくして社会は成り立たないのだ。
近代社会は封建王政や幕府を頂点にした地方分割支配、身分制を乗りこえ、中央集権的な国民国家、個人の権利を基礎にした市民社会、資本主義経済の「三位一体」のもとで発展してきた。しかし、資本主義経済は貨幣(資本)の増殖が目的であり、労働力も商品とする個人競争の社会である。それは本質的に人間と自然、人と人との関係に根ざした倫理や人間性とは相容れないものであった。
著者は非正規・派遣労働で労働者を会計上も物品扱いしたり、大型機械化や化学肥料によって共同体の生業である地域農業をもなりたたなくさせ、地方自治を破壊するなど、噴出する社会の不合理はその帰結だとのべている。そして、人間社会をなりたたせていくうえで必然的に市場原理と立ち向かう力が台頭すること、実際に国や行政にすべてを委ねるのではなくみずからの手で持続的な共同体の建設に向けた動きが各地で広がっていることに注目している。
だが、そこで展開される論理は著者一人の恣意的な政治・思想信条の域にとどまるものではない。このことは、人々が日常違和感を持つような経験とかかわって、古今東西の哲学、経済学の豊かな素養とともに自身が居住する群馬県上野村の人々の生活、慣習に足を据えた著者の土着の思考とわかりやすい言葉による語り口調にもあらわれている。
自然や死者も含めて他者との関係を持って歴史的に積み重ねられてきた人間の生業は、それぞれの環境に応じて独自になりたってきた。だが、資本主義のもとでは国家権力を使ってそうした多様性は無視され、効率化・普遍化一辺倒による実体のないマネー増殖の追求が国境をこえて貫かれてきた。近代的な社会システムは、すでに歴史的な役割を終えているといえるだろう。それではそのような古ぼけた虚構のシステムを乗りこえて、人がともに結びあって暮らす共同体世界をどう構想し、再建するのか。
著者は、そのうえで「前近代世界から学ぶ」「伝統への回帰」を人一倍強調する。それは古き良き時代に立ち返るといったものではなく、日本の伝統的なものを新しい社会を建設するうえでのヒントにするということである。そこにはまた、明治以後の欧米化、とりわけ戦後のアメリカナイズによる日本的なものが否定されてきたことへの反省がともなっている。
そして、そのような伝統回帰への志向が退役世代より、未来に生きる若者に受け入れられていることに、その意義の奥深さを指摘している。現実に、今日の農業のあり方に限界を感じた若い世代が伝統農業から学び、有機農業による新しい農業の担い手になっている。また、ソーシャルビジネスや地域に密着した小売商の間で、かつての近江商人が貫いた「三方よし」の精神が論議の俎上にのぼっている。著者の勉強会での報告はコロナ・パンデミック以前のものだが、地域振興のさまざまな新しい試みが各地で広がりコロナ後の社会を展望する論議が活発化するなかで、貴重な問題提起となっている。
(農山漁村文化協会発行、B6判・全3巻、計3500円+税)