東日本大震災と福島原発事故から10年が経過した。福島県では地震、津波の災害に加え、福島第一原発が水素爆発を起こして放射能が飛散し、大量の避難民を生み出した。人々は福島県内のみならず、親戚を頼って全国各地を転々とする生活をよぎなくされた。10年が経った今でも県内の各自治体が避難者とする総数は少なくとも6万7000人にのぼる。これだけもの人々が10年が経ってもなお、原発事故によって帰りたくてもふるさとに帰れないのだ。「復興五輪」など復興が叫ばれるなかで、原発の廃炉はいまだにめどが立たず、中間貯蔵施設として原発立地町の双葉、大熊両町に置かれている廃棄物の最終処分場はどうするのか、たまり続ける汚染水はどうするのか、などについて解決の糸口すら見つかっていない。そのなかでこの10年間、福島の人々がどんな生活を送り、どんな思いで生きているのかを取材した。
国道6号線を北上し、大熊・双葉の立地町に近づくにつれ、道路を走っている車はダンプカーや作業員を乗せたバスや車などが増えていく。だんだんと道路脇の道は荒れ、あちこちに立ち入り禁止の看板と警備員が立ち、緊張感が高まっていく。六号線は車の通行はできるものの、いまだ軽車両や徒歩での通行は禁止されている。
双葉駅周辺は避難指示が解除されており、駅も駅前の道路も東京オリンピックの聖火リレーのために新しいものが建設され雰囲気は明るい。しかし双葉町はまだ一人も住民は帰ってきていない。住民登録が双葉町にある5773人(21年1月31日現在)のうち、福島県内に避難している人が3730人、県外に避難している人は2042人(所在不明1人)。町役場もいまだ遠く離れたいわき市に置かれており、駅前だけがぽっかりと浮かび上がっている。
双葉駅で双葉町出身の大沼勇治氏と待ち合わせ、福島のテレビ局の方と一緒に双葉町内を案内してもらった。大沼氏は現在、避難した先の茨城県に家を建てて住んでいる。長塚越田スクリーニング場で氏名を記入し、首から線量の計測器を下げて許可証をもらって帰還困難区域に入っていく。
町内には、10年もの月日の間放置されてきたため家が古くなり、先日の福島沖地震によって崩れてしまっている家、福島第一原発が爆発して着の身着のまま逃げ出してから10年、一度も家に戻ることができていないのか、家の中に洗濯物が干されたままの家もあった。
立ち入り禁止区域で出会うのは大きなダンプカーと作業員だけだ。そしてあちこちに積まれている汚染廃棄物の入った真っ黒なフレコンバッグの山が目に入る。フレコンバッグが積まれている場所は津波が到達した地点も含まれているという。先月13日にはまた震度6という大きな地震が福島県沖で発生しているが、再び津波が来たときには一体どうするのだろうか。全部流されてしまうのではないだろうかと不安になる。
また住民は誰も戻ってきておらず家々は草が生い茂った廃屋ばかりなのに、比較的新しいお墓が多かったのが印象的だった。「お墓だけでも双葉に残しておかなければ双葉に戻ることがなくなってしまう」と、双葉にはもう戻らず避難した先で暮らしていくことを決めた人たちも、墓だけは双葉町内に建てることが多いのだという。墓参りに来る住民に向けて「ゴミは持ち帰りましょう」と書かれた看板のすぐ後ろでは、除染ゴミを詰めたフレコンバッグが山のように積み上げられていく。それこそゴミなのだ。「あまりにも皮肉でしょう」と大沼氏は話していた。
沿岸部に着くと、そこには先ほどまでの廃墟とフレコンバッグの山とはうって変わり、53億円をかけて建設されたガラス張りの立派な「東日本大震災・原子力災害伝承館」と「双葉町産業交流センター」が建っていた。その横では現在ビジネスホテルが建設中だ。産業交流センターの中には土産物屋やレストランのほかに、東電の福島復興本社と復興事業に携わるゼネコンの事業所がずらりと入っていた。
産業交流センターの屋上に上ると双葉町一帯が見渡せる。沿岸部には現在「復興祈念公園」が建設されており、綺麗に芝生が植えられ整備されている。しかしその一方で産業交流センターを挟んで反対側には瓦礫や汚染土が詰められたフレコンバッグが山のように積み上げられており、ダンプカーが土埃を上げて走っている。それ以外は何もない。
この差は一体何なのだろうかと唖然としてしまった。また「復興シンボル軸」という名の常磐自動車道常磐双葉ICから双葉駅周辺市街地を通り、伝承館が建つ沿岸部までを結ぶ延長7・1㌔㍍の巨大なバイパス道路も建設中だ。いまだ住民は誰も戻れないのに、一体誰が通るための道路なのか。誰のための復興事業なのか。いまだふるさとに戻れない住民をよそにしたゼネコンの遊び場としか思えない実態に愕然とした。
中間貯蔵施設地権者 「最終処分場にはさせない」
もう一つの立地町である大熊町では、震災と原発事故から8年という歳月を経て、ようやく2019年4月に大川原地区と中屋敷地区の避難指示が解除された。これまでいわき市にあった仮役場も、2019年5月には大川原地区に新しく綺麗な町役場が建設され、業務も始まった。隣には綺麗な復興住宅、そして綺麗な東電社員の社員寮も並んでいる。しかしいまだ町内の8割が帰還困難区域であり、家の解体すら終わっていない。6号線沿いには廃屋のようになったパチンコなど空き店舗が建ったままになっており、その後ろには真っ黒なフレコンバッグが積み上げられているのが見える。
2011年3月11日の震災当時、1万1505人いた大熊町民は、現在1万263人(21年1月1日現在)。そのうち町内の居住推計人口はわずか860人だ(町に住民登録がない居住者を含めた推計人口)。避難指示が解除されたのはほんの一部であり、8割がいまだ帰還困難区域だ。ほとんどの人が帰れないまま避難先で生活を送っている。
現在いわき市に住んでいる「30年中間貯蔵施設地権者会」顧問の門馬幸治氏の家は、福島第一原発からわずか200㍍の場所にあった。原発事故後初めて自宅に一時帰宅したさいには、線量は40マイクロシーベルトもあり、計測器の針が吹っ飛んだという。今でも自宅に戻ると5マイクロはあるという。
門馬氏の自宅は、国が中間貯蔵施設の候補地とした1600㌶もの区画のなかの一つだ。当初国は1600㌶すべての土地の国有化を目指していたが、「最終処分場にされるのでは」と地権者たちが反発し、地権者が国に対し土地を売却するか貸すかを選べるようになった。
しかし国の開催する説明会で、環境省職員は地権者の切実な質問に対してはぐらかすような回答ばかりだったため、「このままでは国に一方的にやられてしまう」と住民たちで地権者会を立ち上げ、団体として交渉をおこなってきた。
門馬氏は2㌶もあった宅地と農地の6割を国に売却し、4割を地上権として貸す契約を結んだ。地上権の土地は30年後には返還されるという約束だ。4割の土地には田んぼとため池が含まれる。「田んぼには水が必要で、そのためにはため池がいる。これは、必ず30年後に大熊に帰って農作業をしたいという私の強い決意とメッセージだ」と語る。今は市外に家を建てて住んでいる息子にも「親の意志を引き継がなければいけない」と伝えているという。
地権者のなかには帰還をあきらめて国に土地をすべて売った人もいる。しかも国は帰るに帰れない地権者の足元を見て土地を買いたたいている。高速道路である常磐道建設時には、1000平方㍍が600万円だったものが、中間貯蔵施設の場合は国に売却するという条件の補助金込みで240万円。補助金がない現実の土地価格はその半分のわずか120万円だ。さらに地上権は宅地、田、畑が土地価格の五八%、山林は63%であるため、もっと低い。
門馬氏は「誰もが大熊に帰りたいとは思っている。でも原発の廃炉問題がどうなるかわからないうえに、30年間は中間貯蔵施設がある。さらに10年も経つうちに、避難先にも生活基盤ができているし、医療機関も買い物をする場所も近くにある。大熊にはまだなにもない。戻れる環境がだんだんとなくなってきている」と話す。「最終処分場を引き受けてくれる所なんて簡単にないとはわかっている。手をあげた北海道の自治体でリコール運動まで起きている。半分あきらめの気持ちもあるが、あきらめたら負けだと思っている。汚染された土壌をなぜわざわざ福島から持ち出すのか、という意見もわかる。でも私は自分の土地をとり戻したい。東電から賠償金をもらったから、今の家を建てて生活できている。それでも生まれ育った家には帰ることができない」と胸の内を語った。
そして「震災から10年が経ち綺麗な建物はどんどんできて、綺麗な場所は綺麗に見える。でもその裏はまったく復興していない。これは地震と津波という災害に加え、原発事故まで起きた福島特有のものだ。そこをしっかり見て欲しい」と話した。
被災者切り捨てる国 復興住宅では孤独死も
大熊町の復興住宅に住む80代の男性は、「これまで7カ所も避難先を転々としてきて、ここが8カ所目だ」と話す。去年の5月に復興住宅に来るまでは、会津若松市の仮設住宅に長年住んでいた。「絶対大熊の自宅に戻りたいと思っていたから、避難先で家を建てたりもせず居られるだけ仮設に居て、復興住宅ができてすぐに申し込んだ」という。元の自宅は避難指示解除準備区域で、今年の9月にようやく家の解体が始まる。今はまだ水道も通っておらず、同じ部落だった人たちが避難先から帰ってくるのかもわからない。震災前は大熊に住んでいた息子は今千葉に家を建てて住んでおり、千葉に来いといわれたが断ったという。
もともとはナシ農家で三町歩ほどの果樹園を営んでいた。「この果樹園は分家だった俺に親が苦労して買ってくれた土地と家だ。それをぶん投げて千葉には行けない」と穏やかに話した。除染のさいに100年くらいの大きなナシの木を3本だけ頼み込んで残してもらった。自宅周辺も避難指示が解除になったら、小さな家を建てて残った畑でナシや野菜などを少しずつ育てていくつもりだという。
男性が住む復興団地は50軒ほど軒を並べているが、夫婦で住んでいるのはわずか5軒ほどで、あとはみんな高齢者の一人暮らしだという。「引っ越してくる前の説明では買い物する場所も心配ないといわれてきたが、いつまで経っても店はできないし、コンテナみたいなコンビニが一つあるだけだ。買い物に行くには富岡まで行かなければならないし、タクシーで行くには往復で8000円もかかる。だから85歳にもなるのにいつまでも免許が手放せない」と話していた。病院は週に1回午前中だけ、診療所に南相馬から医者が来るだけだ。
それでも「綺麗な家もできたけど復興なんて全然進んでいない。大熊の人は東電関連で働いている人が多かったし、学校も公民館も全部東電の金で建てた。財源もたっぷりあったし裕福な町として有名だったが、原発事故でどん底に落ちて何もなくなってしまった。廃炉なんていつになるかわからないし、今でも終わりが見えない。それでも俺は最後まで大熊にいる」と語る男性の言葉には力がこもっていた。
原発事故の発生した福島では同じ県内のなかでも、帰還困難区域となった双葉郡を中心とする地域は他市町村から「金をもらっている」といわれ、立地町である双葉町と大熊町はそれ以上に「金をもらっている」といわれる。そして立地町内のなかでも中間貯蔵施設の地権者はさらに「あそこは金をもらっている」といわれるのだという。
大熊町議である木幡ますみ氏は「原発事故によって国民同士、県民同士、町民同士での分断が起きている。原発も“お金をもらっただろ”といわれ、受け入れた住民のせいになる。中間貯蔵施設の地権者も住民も他に汚染土を持って行く所なんてないから、受け入れなければならないとみんな我慢している。原発を建設したのも、故郷に住めなくしたのも国と東電だ。それなのに国も東電も被災者たちをお金目当てのようにいう。だから世論もそのようになってしまう。私は国と東電に対して腹が立って仕方がない」と怒りを語る。
また避難指示が解除となったときに復興庁の役人が大熊町を訪れ「線量が3・8マイクロに下がったので復興を頑張りましょう」といい放ったときのことが忘れられないという。大熊町は現在会津の避難先に大熊町の学校をつくっているが、あと2年でそこは廃校になり、新しい学校を町内に建設する。「あと2年で子どもたちが帰ってくる。3・8マイクロなんて線量はあまりにも高すぎる。自分たちが住まないからといって被災地を何だと思っているのだろうか」と話していた。
また今までは双葉郡の住民は保険料も医療費も無料となっていた。しかし今年配られた免除証明書の期限は令和3年3月~7月31日までとなっており、それ以後どうなるのかがわからない。「10年が経ったから、これからは有料になるのだろうか」とみなが不安がっているという。さらに避難指示が解除になって3年後からは、固定資産税もかかってくるようになる。これまでは自宅があり、米や野菜を植え収入を得ていた土地だが、今では何にも使えない土地だ。原発事故から10年が経過し、だんだんと被災者が切り捨てられているのを感じるという。
そして今大きな問題となっているのは復興住宅などの孤独死だ。復興住宅は家族を亡くした人、家族と離れて暮らしている人が多い。そのため大熊に限らず福島県内各地で孤独死が起きている。なかには数カ月もの間、誰にも気付かれなかった人もいる。木幡氏は、「震災にあって、原発のせいで家にも帰れず各地を転々として、狭くて寒い仮設で暮らして、ようやく復興住宅に住めるようになったのに、誰にも看取られることなく一人で亡くなってしまう。こんな最期はあんまりだ。こんな悲しいことがあっていいのか」と訴える。コロナ禍もあり、これまで以上に住民同士の集まりなどがなくなって孤独死が増えているという。
「こんな状況にしたのは国と東電だ。東電社員も若くして急性白血病や心筋梗塞で何人も亡くなっているという。原発は国が進めてきた政策だから、最後まで国が責任を持たないといけない。綺麗な建物ができることが復興ではない。住民がふるさとに戻り、安心・安全に暮らしていけることこそが本当の復興だ。しかもこれほどの事故を起こしているのに、国はまだ原発を再稼働させようとしている。再稼働などもってのほかだが、原発再稼働や廃棄物、汚染水の問題も福島だけの問題にするのではなく、もっと国民的な議論にする必要がある」と訴えていた。(つづく)