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『JR上野駅公園口』 著・柳美里

 昨年11月、柳美里の小説『JR上野駅公園口』の英語版『Tokyo Ueno Station』(モーガン・ジャイルズ訳)が全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞した。アメリカで最も権威があるというこの賞に選ばれた日本の作家は、樋口一葉、多和田葉子以来3人目だという。このことを、コロナ禍の社会現実や東京五輪の虚しさと切り離して見ることはできない。

 

 『JR上野駅公園口』は、東日本大震災直後の2012年に発表したもので、福島県から出稼ぎで上京した主人公の男性がホームレスとなり自殺に追い込まれるまでを、戦後の日本社会のいびつさとかかわって描いている。バブル崩壊後、上野公園はブルーシートを覆った段ボールやベニヤでつくった「コヤ」で埋め尽くされていた。その住人の多くが集団就職や出稼ぎで上京し、上野駅を基点に郷里と往復してきた経験を持つ東北出身者であった。

 

 小説は主人公の方言をまじえた回想を軸に、周囲のホームレスの生活と交友、行きかう人々の様子を会話を通してリアルに描いている。レストランの閉店後に置かれた惣菜や、コンビニの裏に捨てられた賞味期限切れの弁当に頼るホームレスや、慈善団体の食事配給に道行く母娘も食べていく様子は、今と重なって見えてくる。

 

 主人公の男性は、福島県南相馬郡の寒村で戦前の貧困と戦後の食料難、借金取りからの逃避生活のなかで育った。農業だけではやっていけず、小名浜港を拠点にした大型船や北海道に出稼漁業をしたあと、両親と妻子5人を養うために単身上京し、64年東京オリンピックに向けた体育施設の建設現場で働いた。帰宅するのは盆と正月だけという20年の間に、長男を亡くし妻とも死別した。

 

 小説はそうした経緯を、野馬追や葬儀など郷土の文化や歴史の描写をまじえてたどっている。それを、昭和天皇の戦後の行幸、その皇太子(平成天皇)の結婚・出産にまつわる主人公の私的な体験、さらにはインテリのホームレスの話を介した東京大空襲や皇室と上野公園との深い由来とかかわって彫り深く浮かび上がらせている。

 

 東京大空襲では、上野公園に7800体もの遺体が運ばれた。上野公園(通称)の正式名称は「上野恩賜公園」である。空襲の後、昭和天皇が軍服姿で視察した「慶事」を記念してつけられた。戦後しばらくして民間有志によって、公園内に東京大空襲の慰霊碑「時忘れじの塔」が建てられた。慰霊碑を訪れる人の様子を垣間見ながら、都内には公立の戦災記念館や資料館が一つもないことにもふれている。

 

 小説で注目されている一つは、公園内に500人ほどいたホームレスが2020年東京オリンピックの誘致活動が始まったのを機に一掃される様子を、そうした文脈のなかで描いていることである。皇族が博物館や美術館を観覧する直前に、ホームレスを公園から追い出す「特別清掃」がおこなわれる。東京都は「山狩り」と呼ばれるこの強制退去を、オリンピック誘致のために1カ月で5回もおこなった。

 

 それは、厳しい冬の寒さのなかで強い雨が降りしきる中でも容赦ないものだった。追い出されたホームレスが戻ったときに見たものは、「立ち入り禁止」の看板と、新しく建てられた柵や花壇であった。小説は公園前をゆっくり進む「御料車」の天皇・皇后の仕草と表情を、主人公の眼差しで冷徹にとらえている。

 

 柳美里はこの小説の「単行本版 あとがき」で、当時のホームレスや東京への出稼ぎ体験者への取材を重ね、福島県の郷土史家などからも学びこの物語を構想したことを明らかにしている。東日本大震災以後、南相馬市に居住して本屋を経営しながら地域振興の活動に加わり、仮設住宅を訪ねて高齢者の話を聞くなかで創作を追究している。

 

 「この地に原発を誘致する以前は、一家の父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かった、という話を何度も耳にしました。
 家を津波で流されたり、“警戒区域”内に家があるために避難生活を余儀なくされている方々の痛苦と、出稼ぎで郷里を離れているうちに帰るべき家を失くしてしまったホームレスの方々の痛苦がわたしの中で相対し、二者の痛苦を繋げる蝶番のような小説を書きたい――、と思いました」。

 

 私小説作家として芥川賞を受賞したあと生き方に苦しんできた柳美里は、このような突き動かされる思いからこの小説を書いた。そして、これからも「居場所のない人に寄り添う」立場から、他者から学び新たな文学の境地を開いていくことに希望を見出している。

 

(河出書房新社、文庫・184ページ、定価600円+税)

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