菅首相の日本学術会議会員の任命拒否に対して抗議や要望を公式に声明を発表した学会の数はすでに、500をこえている。そのなかで、イタリア学会(会長=藤谷道夫・慶應義塾大学教授)が10月17日に発表した声明が、専門分野の科学的研究を踏まえて問題の本質を説き明かそうとするものとして、論議を呼んでいる。
同学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与する」ことを目的に掲げている。声明にあたって、「イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為」だとして声明を公表する立場を明確にしている。そして、菅首相がみずからの任命拒否の判断理由を説明しないことこそが「民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)」だと批判している。それは、「情報公開の制度は古代ローマ時代イタリアの地で芽生えた」ことを周知するイタリア学会として看過できないからであり、首相が必ず説明責任を果たすよう求めている。
声明はまず、菅首相が「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に理解されるべき存在であるべき」だとのべたことについて、これは「国の税金を使っている以上、国家公務員の一員として、政権を批判してはならない」という意味になると指摘。それが「学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならないという誤った公民観である」と批判し、次のように続けている。
学問は時の政権の為に非ず 人類全体に寄与
「学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究とみなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、時の政権のためのものではない。判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない」
また、「国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方だと批判している。それは「公務員は政権の《しもべ》ではないから」であり、「公務員は国民全員の利益のために働く。政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた」ことを明らかにしている。
イタリアの地でも、「古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である護民官が設置されていた」ことにふれて、護民官は現代の公務員に匹敵するもので、今日から見ても「時の権力を批判・牽制するために作られた驚くべき官職である」と説明している。
さらに、菅首相が「学問の自由」の意味を理解していないことについて、ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させたときローマ教会がこれを検閲し、教皇ウルバーヌス8世とイエズス会士が激怒して禁書にしたこととの共通性を指摘している。ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、六カ月にわたる裁判を受けさせられた。そして自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられ、フィレンツェ近郊で残りの9年の生涯を軟禁状態で過ごすことになった。つまり、「教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された」のだ。
イタリア学会の声明は同学会が菅首相の「説明がない」ことをもっとも重視する理由として、首相が「指摘はまったくあたらない」などと木で鼻を括った答弁をくり返し、「答弁または説明のため出席を求められた時は、国会に出席しなければならない」という憲法(第六三条)を無視してきた事実とともに、世界で初めて情報公開制度を始めたイタリアの歴史的事例をつぎのように明らかにしている。
「執政官に就任して(前59年)、まずカエサルが決めたことは、元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。これが民主主義への第一歩である。それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである」
声明は続けて、「一方、その時代から2000年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、人事異動のプロセスも民草には窺い知ることもできなかった。おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう」とのべている。
さらに、「人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる」ことを、紀元前5世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』の内容(「権力の何たるかが活写されている」)から説き明かしている。
声明は最後に、「たかが6人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。しかし、問題の本質は、時の権力が“何が正しく、何が間違っているかを決めている”点において、ガリレオ裁判と変わりない。科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある」とのべている。