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イラン平和博物館と広島に掛かる交友の橋  イランと日本の親善文化交流会・近内恵子

 昨年の8月、私はイランにある平和博物館を訪れた。世界的には「平和」という言葉とは掛け離れたイメージを持つイラン。その国の平和博物館が、どのようなものなのか、とても興味があったからだ。

 

 平和をテーマにした博物館が存在する国は、世界で日本も含め28カ国しかない。これは決して多い数とはいえないだろう。中東地域では、イランにのみ存在している。

 

 イランに平和博物館がある理由は、博物館に入り、少し説明を聞いただけで理解することができた。

 

 イランは、イラン・イラク戦争の際、毒ガス兵器、化学兵器被害を受けた国。平和博物館は、毒ガス兵器がいかに非人道的なものなのかを世の人々に伝えるためにつくられたのだった。約2000㌧ものマスタードガスやサリンガスを使用され、甚大な被害を受けたのみでなく、今もなおその後遺症に苦しむ毒ガス被害者の数は決して少なくない。

 

 広島、長崎もまた、戦争時の被害のみではなく、被爆者として後遺症に苦しみながら生きた人たちは多い。今年、令和2年の統計で、被爆者健康手帳の所有者数は、いまだに約14万人にものぼる。

 

 戦争で、初めて核兵器である原子爆弾を投下された広島。そこにつくられた広島平和記念資料館は、世界で最も有名な平和をテーマにした博物館といって過言ではないだろう。原爆の惨さは世界に知れ渡る事実であり、広島平和記念資料館には、諸外国から訪れる人たちが絶えることがない。

 

 2004年、イラン毒ガス被害者たちは初めて広島を訪れ、平和記念資料館にも足を運んだ。彼らが日本に来ることを手助けしたのは、NPO法人モーストという団体だ。広島から世界平和の掛け橋になることをモットーに、イランだけではなくロシア、ウクライナ、パレスチナ・ガザ地区などでも医療支援活動をおこなったり、映画祭やチャリティ音楽祭なども開催。また平和をテーマとしたアニメ映画『ジュノー』も制作している。

 

 広島に来た毒ガス被害者たちは、平和記念資料館の存在、そして被爆者たちがみずからその体験を語る語り部をしていることに感動し、自分たちもイランで同じように博物館、記念館を建て、毒ガス被害を訴えていきたいと思い立ったそうだ。

 

 ご本人たちの弛まぬ努力と、イラン側の協力。そしてNPO法人モーストをはじめとする様々な広島の人々の助けを得て、その願いはついに実現。2007年6月、イランの首都テヘランに平和博物館は完成する。以来、広島とイラン平和博物館は手を繋ぎ、世界平和を共に訴え続ける存在となっている。

 

 あまり世間に知られていない、日本とイランを繋ぐ、平和をテーマとした掛け橋がここにあり、途切れることなく交友が続いているのは、本当に素晴らしいことだと思った。今年第七回を迎える「広島イラン愛と平和の映画祭」もその一環だ。

 

 この映画祭では、毎年、何本かのイラン映画が選ばれ、日本で上映されている。もちろん戦争、平和がテーマであり、私もこの映画祭で、いくつものイラン映画の名作を観させていただいた。その映画を一つ一つ解説すると、とても長くなってしまうので、そのうち二つの映画の忘れられない場面のみ書いておこう。

 

 一つ目の映画は、イラクとの国境近くに住むクルド人たちが、戦争で亡くなったイラン兵の遺骨を収集し、イラン政府の軍隊に届けに行く場面。これは真実でもあり、イラン政府は遺骨を拾ってきたクルド人にお金を支払っていたそうだ。首からぶら下げていた認識票で、どこの誰とわかると、遺族たちが遺骨を引き取りにやって来る。映画では遺骨を持ち込む場所のすぐ横で、遺族が遺骨と対面する場面となっている。「お父さんがやっと帰ってきたよ。本当に今までご苦労様」「もう荒野で一人ぼっちじゃないね。明日から私たちと一緒だね」と声を掛け、すすり泣く家族の姿が痛々しい。イランでも遺骨は大切な存在で、日本人と同じく骨が返ってくることが、その人も帰ってくることと結び付くというのも、私にとっては新しい発見だった。

 

 もう一つの映画は、4人子どもがいた老夫婦の物語。3人が戦死し、1人だけ助かって帰ってきた息子は毒ガス被害を受け、ほぼ寝たきりの生活。婚約者もいたが自暴自棄になり、婚約は破棄。自殺しようとするが死にきれず、本来ならば自分たちが介護を受ける側の老夫婦の負担が強く、見ている側にも辛い。ここで物語は、亡くなった3人が突然蘇り、普通に家に帰ってくるところから、暖かな家庭のシーンとなる。老夫婦ではできなくなっていた片付け、家の修繕などを、3人は寝たきりの兄弟も車椅子に乗せ、4人で力を合わせて次々とこなしていく。車椅子生活になった息子は婚約者と再び縁を戻し、明日は結婚式という場面。途端に現実に戻り、3人はやはり亡くなっていて、部屋に飾られた彼らの写真に胸がえぐられるような思いになった。広々とした家に、老夫婦と、車椅子の息子。それでも付いていくと嫁にきた気丈な女性。苦しくても、寂しくても、生きていくしかないというメッセージが最後の場面から感じられた。

 

 映画とはいえ、実際にこのような家族はたくさんあったであろうことは想像に難くない。これはイランだけではないだろう。日本でも第二次世界大戦の後には、同じような状況が数えきれぬほどあったことだろう。

 

博物館を案内してくれた男性と近内氏

 ここで再びイラン平和博物館に話は戻るが、私に館内をいろいろと案内してくれた男性は、まさにこの映画祭のために、より良い映画を選び、日本に送っているご本人だったのだ。

 

 厳しい顔で毒ガス兵器による被害、その歴史を説明して下さっていたその方は、私が日本でこの映画祭に何度も足を運んで映画を観ていることを伝えると、一気に顔がほころび笑顔になられた。この方自身が、戦争被害者であることは、両足がなく車椅子に乗っておられたことから容易に想像ができた。

 

 館内にいる別のスタッフたちのなかには、から咳が止まらない方、声が枯れてしまい、お話が聞きづらい方などもいらっしゃった。毒ガスを吸い込んだために肺や気管支をやられてしまい、一生、その状態を背負い続けなければならない方々だ。

 

 イラン・イラク戦争は1988年に停戦。今から32年前なので、戦後75年の日本とは違い、戦争被害の生き証人たちは、まだまだ現役で語り部として活躍している。その方々のお話を生で聞けたことは、とても有難いことだと思った。

 

イラン平和博物館に展示されている毒ガス兵器被害者の子ども

 「いつも咳が出るなんて、大変ですね」なんて気軽に声を掛けられるものではない。その方々が、どんな修羅場を潜ってこられたか。毒ガスの現場では死を覚悟されたこともあっただろう。そしてどれだけの仲間の死を、その目で見てきたことだろうか。語られる話もさることながら、その方たちから感じられるものは、戦争の悲惨さであり、平和の有り難さでもあった。

 

 決して大きな博物館ではないが、その意義の素晴らしさもあって、2013年にはイラン国内で最も優れた博物館に選ばれたこともある。しかも見学は無料だ。

 

 毒ガス兵器だけではなく、広島、長崎の原爆資料の展示もあり、多くのイランの人たちの目に触れられる場ともなっている。原爆被害の資料の大半は、広島の原爆資料館から譲り受けたそうだ。他にも広島との交流を示す、雛人形や団扇などの贈り物や、日本語で書かれた平和へのメッセージ。そしてたくさんの折り鶴にも目を奪われた。

 

博物館を案内してくれたスタッフたち

イラン平和博物館に展示されている広島・長崎の写真やパンフレット

 また、広島とイラン平和博物館の大きな交流の一つとして、毎年、イランの学生たちを、原爆ドームや平和記念資料館に招待している活動もある。博物館は、交流型の平和センターとしても使用されており、私が博物館を訪れた数日後に、学生たちの広島体験プレゼンテーションがあるから、よかったら来ないか? と声を掛けられた。またイランに永住している日本人女性が、週に何度か博物館でボランティアしており、この日もやってくるとのことで、私は博物館を再び訪れることにした。

 

 再来した際、聞くことができた学生たちの発表は、イランの人たちがそう簡単に行くことができない日本に来れた喜びで溢れたものだった。ある学生が「お好み焼きが本当に美味しかった」といい、次の学生が「僕にとってはお好み焼きは美味しくなかった」というと、どっと笑いが起こるような明るいプレゼンテーションであった。そのことを嘆く声も、別な場所で耳にもした。若者は平和の使者として広島を訪れたのではなく、ただ日本に行きたかっただけ。最近は日本に行けるからと、ここにやってくる者もいるなんて話も耳にした。しかし生で広島平和記念資料館を観ることができた経験は、決してマイナスにはならないだろう。現に博物館でボランティアをしていた学生の一人は、数年前に広島を訪れ、そこからずっと博物館で平和活動を手伝っていると話していた。日本語も大変堪能な学生でもあった。

 

イランの学生たちの広島体験プレゼンテーション

 博物館でボランティア活動を続ける日本人女性は、人生のほとんどをイランで過ごされている方で、日本でイラン人男性と出会い結婚。その後イランで暮らすこととなり、男の子を授かるも、イラン・イラク戦争でそのお子さんを亡くされる経験をされている方だった。この方自身もまた、戦争被害の生き証人ということができるだろう。

 

 館内には日本語のパンフレットも置いてあり、その中の一文が、毒ガス兵器だけには止まらない内容だったのが、また印象的だった。世界平和は誰もが望むことではあるが、では私たち一人一人に何ができるだろう? と思われる人は少なくないのではないだろうか。その答えの一つが、このパンフレットには書いてあると感じた。

 

 『平和とは単に諸国間同士の争いや戦争が無いと言う意味ではありません。真の平和は人間の内部、心の持ち方に起因しているのです。個人や家族内が平和で穏やかな関係を保つことによって平和な社会を築く事が出来るのです。それ故平和を世界に伝播する目的で活動する人達は先ず自己の心の中から平和を生み出す努力をする事が必要です』

 

 「平和を世界に伝播する目的で活動する人達」の一文は、まさに博物館にいらっしゃる方々のことであろうし、広島で活動される方々のことでもあるだろう。広島で活動されている方々が、イランの毒ガス被害者たちと、まさに「平和で穏やかな関係」をつくり、このイラン平和博物館が完成し、そこからまた平和活動の輪が大きく広がっていっている。

 

 私自身、こんな素敵な博物館がイランに存在していることを、一人でも多くの人に伝えていき、そのことがわずかではあっても一つの平和活動になれたらと思った。

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