恐れていたことがまたしても起こった――。集中豪雨による大規模な土砂崩れや球磨川(くまがわ)の氾濫によって、八代市、人吉市、球磨村や芦北町をはじめとした熊本県の各地が甚大な被害に見舞われている。日本三大急流の一つとして知られる球磨川――。人々が寝静まっていた4日未明にかけて、その上流域を含んだ県域全体をこれまでにない集中豪雨が襲い、朝起きたら既に周囲は濁流に呑まれ、大変な事態に直面していた。観測機関が予測していた2倍の雨量が降り注いだといわれ、アメダスにも真っ赤に映っていた「想定外」の豪雨によって、山からは流木や土砂が削り取られた。そして、川にかかっていた橋や支流域の家々はもろとも押し流されて人命が奪われ、村や町が丸ごと冠水する事態となっている。
まだ被害の規模すらつかめず、それこそ今後も大雨を厳重に警戒しなければならない緊張した事態が続く。上流から崩れてくることを考えればまず第一に人命優先で避難が求められ、しかもコロナ禍の密を避けた形で住民たちの居場所を確保することが大切になってくる。当該自治体のコミュニティ内における避難及びそのための対応が及ばないならば、広域にわたって行政機能を動かし、ホテル借り上げ方式なりで早急に安心できる居場所を確保することが急がれる。この時期に体育館に押し込めて“密”にすることが御法度というなら、これまでにない柔軟な発想で対応すべき事態だ。事は激甚災害であり、住み慣れた我が家を失い途方に暮れている住民たちの安心安全を担保し、その後は生活再建に対してきめ細かな援助をしていくのが行政及び政治の責任なのだ。
自然災害はいつも人間の「想定」を越えて襲ってくる。とくに近年は海水面の温度上昇とも相まって、記録的な集中豪雨が毎年のように各地に降り注ぎ、その度に日本列島のどこかしこが土砂崩れや冠水に見舞われる事態が連続している。これはいつ何時、どこでも起こり得る可能性があるものだ。地方だけではない、昨年は首都圏だってあわや多摩川決壊か? と震えていたではないか。
このなかで問題なのは、事が起きた後に、被害に見舞われた地域や住民たちは立ち直れないほどの苦境に落とし込められているのに、国家というものがそっと抱き抱えて支えるような力をなんら発揮しないことである。誰しもが直面しうるのに、すべては運に委ねられている状態だ。一昨年の西日本集中豪雨に直面した広島、岡山、愛媛がその後どうなっているか? 住宅再建もままならぬまま、人々は元の生活を取り戻せず放置・棄民状態に置かれているではないか。既に10年にもなろうかというのに、復興五輪のダシにされて放ったらかしにされている東日本大震災の被災地、熊本地震の被災地、福岡県朝倉市もそうだ――。
その度に「がんばろう! ○○!」と言われても、被災地では「もうがんばってるよ!」とみんなが口にしてきた。がんばらなければならないのは政治だろうが! と、こういう場面でもいつも思うのである。国民の生命と安全を守るために政治なり統治機構が機能しなければ、救える生命も救えず、自然災害からも立ち直れないのがこの国の冷徹な現実である。しかし、その非人間的な現実は仕方がないものではなく、誤っているのならなにがなんでも変えていくことが必要だと思う。武蔵坊五郎