コロナ禍で多くの人々が外出自粛をよぎなくされているなかで、一方では外出せざるをえず社会の動脈を支えている人々がいる。食品スーパーで働く人々やそこに物資を運搬する物流関係者、食料供給を担い第一次産業に従事する生産者、コロナ感染者を受け入れつつ他の疾患患者の治療も担っている医師や看護師、検査技師といった医療従事者、老人介護に携わっている人々、コロナ患者も含まれるなか救急に携わっている消防隊員たち、電気・ガス・水道・公共交通といった止めるわけにはいかない社会インフラを担っている人々、公衆衛生ともかかわってゴミ収集を担っている現場の人々はじめ、それぞれが社会を維持していくために専門的な役割を担い、コロナだからといって仕事を投げ出すわけにはいかない現実を抱えている。
こうした日々淡々とこなしている労働の分業によって私たちの“当たり前の日常”が成立していることを改めて教えられる。いまさら「人という字は…」ではないが、やはり支え合って人間社会は成り立っているのだと--。それが貧しい人であれ、金持ちであれ、いかなる個人も個人だけでは決して生きていけない。社会構造全体のなかの一人として縛られている(存在している)以上、支持政党の如何にかかわらず、相互に連関した支え合いの歯車のなかにいるのだ。
今回のコロナでは、例えば医療分野だけを見ても、その歯車の人員や体制に余裕がなかった場合、なおさらひどい打撃を受け、パニックに陥ることが明白になった。新自由主義政策に基づいて限界まで医療費削減や病床削減をやりまくり、危機への備えをムダと見なして効率化してきた結果、いざ未知なるウイルスに遭遇すると余力がないために医療崩壊してしまい、そのなかを懸命に医療従事者たちが治療看護にあたることになった。「今だけ、カネだけ、自分だけ」の目先の利潤追求のみに固執し、政財界をして「医療改革」の大なたを振った挙げ句に、返り討ちに遭ったといっても過言ではないのである。したがって、医術よりも算術を追い求めるという本末転倒を改め、コロナ後は国民の健康と生命を守るという医療本来の役割を果たせる体制をとり戻すことが重大な課題になることは疑いない。
先日、鋭い風刺で知られる覆面画家のバンクシーが、新型コロナの治療にあたる看護師を讃える新作の絵を公開した。一人遊び(空想)をしている少年がスーパーヒーローとして手にしているのはバットマンでもスパイダーマンでもなく黒人看護師で、少年たちの憧れのヒーローの座が入れ替わったような絵に見える。映画のなかで空を飛び回り、悪をブンブン投げ飛ばす勧善懲悪のヒーローたちも格好いいが、目立つこともなく、大立ち回りをするわけでもなく、現実社会で生身の人間の生命を救うために尽力する名もなき看護師たちこそ敬服に値するではないか--と問うているのだろうか。素朴ではあるが、何が尊いのかをバンクシーはたった一枚の柔らかいタッチの絵で表現しているように思えた。価値観とはなにかを考えさせる、人間社会への風刺だろうか--と。
私たちの当たり前の日常を支えているのは、名もなき看護師であり、名もなき生産者であり、名もなき運転手やゴミ収集の労働者、社会のありとあらゆるインフラを支えている一人一人の人間であり、それらのすべての人間の尊厳を守り、みなが生きていける社会にしていくことこそ、コロナ後に求められる社会の姿なのだろう。
武蔵坊五郎