著者:福田正義
発行:長周新聞社
B6判 187頁
価格:1,200円
福田正義長周新聞論 1,長周新聞の性格と歴史的経験 2,創刊記念集会への報告 3,社内講話から
(一部抜粋)
■人民に奉仕する (創刊39周年社内集会での挨拶・1994年4月16日)
39周年ということは、 1955年の長周新聞の創刊から39周年ということだ。 1955年というのは、 日本ではその前に共産党の50年問題というのがあって、 共産党が大分裂して運動が停滞し、 人民がひじょうに困っている時期である。 この時期に長周新聞は、 山口県を中心にして、 3市 (下関、 山口、 徳山) の有志が集まって、 このままでは人民大衆が困る、 なんとかしなければならないというので、 日本全体、 および県内の情勢を分析して、 長周新聞の創刊になった。 これは、 『創刊の訴え』 に集約されている。 この 『創刊の訴え』 と、 それにつけている長周新聞の 『編集綱領』 はひじょうに歓迎された。 長周新聞はその方向を堅持して、 大衆との団結を広げながらすすんでいった。 これは、 ウソやはったりでなく、 正真正銘の長周新聞の方向である。
この方向の源泉ということにふれておくと、 わたしは戦時中、 中国にいた。 戦前、 日本の共産党はひじょうに強大で、 とくにインテリゲンチャがひじょうに多かった。 インテリで共産党員でないものは、 バカかアホかというぐらいに多かった。 そういう意味では、 かなり強大な党であった。 たとえば、 中国共産党の文献なども、 日本で刷られたものが上海に送られて、 上海で中国共産党が購入して、 マルクス主義の学習をするという時期もずいぶんあった。 ところが、 その日本共産党は、 戦争のなかで、 それがもっとも苛烈(かれつ)になるなかで、 事実上消滅してしまう。 人民の困難にたいして手助けすることができないようになる。 1935 (昭和10) 年前後に日本共産党はほとんどなくなってしまったからだ。 しかし、 中国共産党の方は、 それ以後に、 大陸の都市部ではひじょうに痛めつけられるが、 延安に入って、 そして力をつくって、 ふたたびあらわれてきたときには、 日本帝国主義をはじめとしてアメリカ帝国主義もなにもみな追っ払い、 そうして中国に最初の人民の革命、 社会主義革命を確立する。 これはどういうことであろうか、 というのがわたしの最大の問題意識であった。
なぜ、 日本共産党は重大な時期に、 敵が弾圧するといった問題もあるが、 つぶれてしまって、 なぜ、 中国共産党は、 あの広大な大陸で全帝国主義をうち倒して人民の政府をつくることができたかである。 この中心をなすものは 『老三篇』 である。 つまり人民に徹底的に奉仕する、 そして人民の事業のためには刻苦奮斗するということが、 言葉のいいまわしというようなものでなく、 徹底している。 中国の工作員の活動などを見ていても、 ほんとうにそう思った。 これは、 かつての日本共産党と異なる。 したがって、 中国共産党の諸部隊は、 人民のおるところではかならず人民を団結させ、 これを立ち上がらせ、 勝利して前進していく。 そして、 全中国をまたたくまに解放してしまった。
ここに問題の核心がある。 われわれがいろいろ理屈がうまいとかなんとかでなく、 ほんとうに 「人民に奉仕する」 という精神に徹して、 人民の苦難を調べ、 そしてそれを助けていく、 そういう活動をやるなら、 かならずそういう事業は人民に支持されるということを感じた。
わたしは、 1949 (昭和24) 年の秋から広島に派遣された。 わたしが広島に派遣されたときの広島というのは、 それこそ原爆でめちゃくちゃに破壊されたままの状態だった。 そして盆に灯籠(とうろう)流しをやるとかいうことはできても、 そういう悪事をやったものにたいして、 人民を代表してこれとたたかうということはなにもなかった。 これではいけないというので、 当時の情勢、 つまり日米戦争をはじめとする当時の情勢から、 日本を占領して、 そこからアジアならびに世界制覇を考えているアメリカ帝国主義の許しがたい犯罪を暴露する。 「原爆のようなものを落として、 何十万の人人を一瞬のうちに殺すというようなことは許しがたいんだ」 という主張をはじめた。 これは、 共産党も賛成しなかった。 アメリカに対して文句をいってはいけないというのが一般的な通説になっていたからだ。 しかしこれは断固やった。 そうして、 被爆の写真を集めて、 非合法のうちに新聞をつくり、 それを街頭にはり出し、 そうして原爆の投下というものが、 いかに人類にたいする犯罪かというビラをまいた。
こうして賛成者はどんどん出てきて、 労働組合もかなり支持するようになって1950年の8月6日に、 最初の原爆に反対する集会を提起した。 しかし戒厳令と同じような弾圧を受けて、 集会を普通の形で成功させることはできなかった。 しかし、 これは広島の多くの人民に深く印象を残して、 また同時に全国にも大きく響いて、 その翌年に開いた第2回の大会は、 合法的に開くことができた。 荒神小学校を借りて合法的に原水爆に反対する集会を開くことができた。 これが日本での最初の原水爆に反対する大衆的な集会となった。 それ以後、 原水爆に反対する斗争というのは燎原の火のように広がり、 全国、 全社会的に広がって、 原水爆に反対する全国集会、 全国大会、 国際大会というようなものがもたれるようになり、 原水爆に賛成するというようなものはだれもいなくなった。
こうしてみると、 人民の根本的利益を守るならかならずそれは支持される、 そういう確信をもった。 これが一貫してわたしの政治信条となっている。 長周新聞の発行も、 もちろんそういう基礎のうえに立っている。 そういう基礎のうえに立って、 『創刊の訴え』 を出し、 『編集綱領』 を出して、 大衆に訴え、 大衆の支持によって発行していった。 もちろんその発展はそう早いスピードではないが、 しかし全体としてみればひじょうに早い時期にかなり大きな合法性をもち、 力をもつようになった。
ある時期、 たとえば教組が大会をもつ。 ここには共産党はあいさつに行けない。 長周新聞は行ける。 共産党とわかりきっているわたしが、 日教組の大会に出て、 見解をのべるというようなことができるようになる。 それは、 教育問題なら教育問題における長周新聞の努力の反映であると思う。 したがって、 人民がそこにおり、 人民が生活し斗争しているところで、 新聞であろうと組織であろうと、 なんでもできないことはないとわたしは思っている。
たとえば、 この最近、 豊北原発反対斗争をたたかった豊北の人人の思い出の記事が載っていたが、 これにわたしは深く感動した。 豊北というところには、 長周の足がかりは一歩もなかった。 しかし豊北に原発ができる、 これにたいして漁民が反対しているというので長周が立ち上がって豊北に入って、 豊北の漁民、 労働者、 農民、 その他さまざまな人人と団結して、 豊北の人人を団結させて、 ついに中電が原発建設をやることができないようにした。 長周新聞に最近載っている声を見て感動するのは、 16年もまえの斗争について、 人人がまるで昨日のことのように正確に覚えており、 正確に書いているということだ。 そのとき、 豊北町の斗争団体はどういうようにしたか、 そのときに山口県の原発共斗はどのようにしたかということを、 まるで統一戦線を指導する人間のようにひじょうに正確に書いている。 このことは、 豊北原発に反対する斗争が、 豊北の人民に深く結びついている証拠だと思う。 豊北の原発反対斗争について、 この最近、 共産党のある幹部が豊北の斗争についてはまだ評価していないといったが、 そういうバカ者はどこにもいない。 それは豊北に行ってみればわかる。
これらのことは、 人民大衆と深く結びついて、 自分が偉いとかなんとかいってホラを吹くのでなしに、 人民大衆の利益のために献身するという方向で斗争するならば、 新聞事業であろうと、 その他の労働運動であろうと、 すべて成功する、 勝利するということをわたしに確信させている。
長周新聞もいよいよ40周年を迎えるというので、 人民大衆はたくさんいるので、 おおいに組織して強大になって、 40周年にふさわしい集会をもってくれるように期待している。
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■偏っているか(1963年4月3日付・「8年間あれこれ」より)
生まれるべき新聞の性格を決定することは、その新聞にとってもっとも基本的なことである。それは、何回となくかえるようなものであってはならないし、何回となく変更しなければ情勢に適合しないとしたら、その新聞の発行者たちは、まず失格であるだろう。
1955年、われわれは、基本的に、つぎのような情勢の分析に立った。
アメリカ帝国主義が日本の独占資本を保護育成し、この両者が日本人民を収奪し支配している。それだけではなく、かれらは戦争の傷痕がまだ残っているのに軍国主義を復活して、ふたたび日本を戦争の道へかりたてようとしている。かれらは、植民地的な退廃文化をまき散らし民族を根こそぎ骨ぬきにしようとしている。
そこで、平和を守り民族の独立を勝ちとること、民主主義を確立し、人民生活の安定と向上をはかること、また民族文化の発展のために努力することがなによりも重要であり、そのためには、政党政派、宗教・思想信条、職業をこえて広範な勤労県民が団結することが必要である。
われわれが得た結論は、以上である。そこで、これが定式化されて、長周新聞の『編集綱領』となり、今日までかわることなく一貫して長周の性格を基本的に規定している。
この基本的な路線については今日まで、日本の全体の情勢の発展のうえで、われわれの設定した『編集綱領』が基本的に現実の情勢のうつりゆきと異なっていると思ったことはなかったし、いまも思うことはない。現実に起こってくるさまざまな事件についてそれをとりあげるうえで、『編集綱領』に照らしてみて、戸惑ったことはない。そのことが、長周の全体の記事のとりあげ方、論調を一貫したものにしている基礎である。
長周新聞について、偏っている、一方に偏している、という批判をよく聞く。その偏っているということが、いわゆる守備範囲が狭くて取材源が偏っている、多面性に欠ける、というのであれば、なるほどそうである点はわれわれも認める。しかし、平和を守る、独立を勝ちとる、民主主義を養護する、人民生活の安定と向上を勝ちとる、民族文化の開花をはかる、ということで、平和と戦争の中間、独立と従属の中間、民主主義と反民主主義の中間、人民生活の安定と破壊の中間、民族文化の開花と植民地的退廃文化の氾濫の中間、にその立場をおかないからといって偏っていると批判されることは、これはあたらないし、実際にはそういう立場などありえないのである。
『朝日』とか『毎日』とか、その他さまざまな新聞をなにか客観的で公平で偏らないものと考えるのは、これは明らかに誤っているのであって、ブルジョアジーの支配機構にたいする事大主義的な屈服である。
それは、このような新聞が、読者を戦争に導いたことで証明ずみであるし、今日、アメリカと日本の独占資本が合作で日本人民を屈辱の事態におき、収奪し、あざむき支配することを積極的に助けていることでも、疑う余地なくはっきりしている。
これらの新聞は、平和のためにも、独立のためにも、人民の民主主義のためにも、人民生活の安定と向上のためにも、なに一つたたかわないばかりか、反対に、人民の切実な願いをかき消してしまうことに奮闘努力しているのである。かれらこそ偏っているのである。偏りすぎているのである。
ところが、われわれの『編集綱領』にほぼ同じ立場に立っている人人のなかで、われわれのことを偏っていると批判するものがかなりあるのは、どういうことであろうか。
かくて、偏っていないものが偏っていると評価され、偏っているものが偏っていないと評価される珍妙なさかさまの状態が現出されるのである。
ここのところには、ブルジョア・ジャーナリズムの正体、とくに日本特有のブルジョア・ジャーナリズムのもっている欺まん性のバクロが、きわめて重要だという問題もひそんでいるようである。そしてまた同時に、人民のジャーナリズムを創造し、発展させるという課題がさし迫った重要さで、われわれのまえにあることがわかる。
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■長周新聞の立場(1963年4月10日付・「8年間あれこれ」より)
『編集綱領』についてふれたように、われわれは、政党政派や、宗教・思想信条にはとらわれない立場に立っている。
民主政党、民主団体、労働組合であるから、それらの政党や団体のすることは無条件に支持するという立場はとっていない。反対に、民主団体とはいえない組織のすることは、頭から否定するという立場もとってはいない。
長周新聞は、いわばジャーナリズムにおける人民の部隊である。人民のジャーナリズムであり、したがって人民の世論を正しく組織し、人民の要求と意見を正しく反映し、反人民的なものとたたかうことが基本である。
長周新聞はその出発にさいして、労働組合や民主団体の共同の機関紙という立場はとらなかった。もしも、そういう立場をとれば、それらの組織や組織の幹部の制約を受けて、人民の立場から自由に発言することができなくなるからである。組合や団体の執行機関がつねに正しいということはできないし、また組合や団体の決定したことの無条件報道は、それはそれぞれの組織がもっている機関紙でやればよいことであって、長周新聞のようなものがやるべきことではない。
長周新聞は、先にのべたように、平和・独立・民主・人民生活の繁栄・民族文化の擁護という基本路線にもとづいて、人民の統一戦線を発展させ拡大強化することに役立つことを主要な任務としている。したがってそれを妨げるようなことについては、たとえそれが民主政党であろうと労働組合であろうと、それを批判することは躊躇しない。もちろん、それにたいする態度は、労働運動を前進させるという立場からであって、批判のための批判、あるいは運動の前進に役立たない批判などをやることではない。
われわれは、『編集綱領』にもとづいて、人民の統一戦線を発展させるという観点から、無数の問題をとりあつかってきた。われわれの決定的な基準はこの観点である。われわれのすべてが「正しかった」などとうぬぼれてはいない。しかし、この観点からはずれてものごとを処理したことはない。
ところが、政党や労働組合や民主団体の幹部のなかには、自分たちのすることは全部正しく、長周新聞のような民主新聞はそれを無条件に支持しなければならない、というふうに考えているものがずいぶんある。それらの人人は、批判に耳を傾けようとせず、批判的な意見があると、たちまち敵対的な姿勢になるものすらある。われわれは、そういう考え方に組みするわけにはいかないし、組みしたこともない。
かくて、人民のジャーナリズムをめざしてやる新聞事業は、きわめて困難な経営上の波をはてることなくくぐらざるをえない。人民に依拠し、人民の支持を受け、人民に支えられるよりほかには、それを成り立たせるなんらの保証もなかったし、いまもないのである。人民の利益を非妥協的に守りぬいて、前記の『編集綱領』に立ってたたかうということは、とりもなおさず、全支配機構とのたたかいである。しかもわれわれは、あくまでも読者と結びついているだけで、それ以外のいわゆる「組織」をもっているわけではない。反対に、しばしば「組織」からしめ出されたり、冷淡なあつかいを受けたりするのである。
高度に発達した「国家独占資本主義のド真ん中で」ともかく8年間この新聞が正確に発行されてきているという事実は、広範な、さまざまな人人の支持以外のなにものでもない。われわれには浮袋はないのである。