京都大学が進めるiPS細胞の備蓄事業に、政府が毎年約10億円を投じてきた予算をうち切る方針を同大学iPS細胞研究所に伝えていたことがわかり、日本の医療、科学技術政策の根幹にかかわる問題として批判が集まっている。京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥所長は11日、日本記者クラブの会見で、iPS細胞の再生医療現場での実用化が迫るなかで研究開発費が枯渇する危機的状況とともに、「いきなり(政府の支援を)ゼロにするのは相当理不尽だ」と訴えた。
iPS細胞の備蓄(ストック)事業は、再生医療での拒絶反応が減るように多くの日本人に適したタイプの細胞をとりそろえ、高品質なiPS細胞をあらかじめ備蓄するというものである。これに対し、国は13年から22年度までの10年間の総額1100億円を投入したが、23年以降の予算がどうなるのか注目されていた。
iPS細胞を使う再生医療では、目の難病「加齢黄斑変性」やパーキンソン病などを治す臨床研究に入っている。脊髄損傷などの治療も計画されている。国がiPS細胞の研究開発費をカットする理由として、基礎研究の段階から再生医療の実業化の新たな段階に入ったと判断したこと、さらに企業ニーズとの違いが浮き彫りになったことがあげられる。
政府は8月、再生医療の産業への応用に向けた新しい研究指針を策定した。そこでは、これまではおもに細胞移植の効果や安全性を調べる研究に軸足を置いていたのを、iPS細胞の備蓄事業の公益法人化や、安価なiPS細胞の作製など産業化を見据えた戦略をうち出している。そのもとで重視されるのは企業などが参入しやすいよう、いかに低コストで高品質な細胞をつくれるかという営利追求の論理である。
iPS細胞研究開発の目標は、患者自身の細胞からiPS細胞をつくり治療に用いることだが、期間が半年かかり、さらに数千万円の資金が必要である。それが実現可能な技術になるのは2025年ごろだと見られる。このため京都大学iPS細胞研究所では、他人に移植しても拒絶反応の出にくい4種類の遺伝子型のドナーの細胞の複製をつくり備蓄しておく事業が進められてきた。この備蓄事業で日本人の約40%がカバーでき、緊急性の高い事案への対応が可能になるとされている。
低コスト品に乗出す大企業
だが、iPS細胞から移植用の細胞をつくる企業側は近年、移植用の細胞ががん化する可能性や別の細胞の混入を確かめて安全性を型ごとに確認することに手間と費用がかかることから、1種類のiPS細胞だけを使って免疫抑制剤で拒絶反応を抑える方向で事業を進めるすう勢にある。また、iPS細胞を使ったがん免疫薬が、将来的に市場規模が4兆~5兆円に拡大する成長分野とされ、世界の投資家がその開発の進展を固唾を呑んで見つめている。
たとえば、富士フイルムホールディングス(古森重隆会長)は、富士フイルム傘下の米企業が米ファンドと設立した会社とドイツ製薬大手のバイエルが手を組んで、患者以外の第三者のiPS細胞を使って費用を安く開発する方向を明らかにしている。開発費は2億5000万㌦(約270億円)を見込んでいる。このため、富士フイルムホールディングスの株価が今年7月に入って、11年8カ月ぶりの高値をつけ、上場来高値更新を視野に入れる状況もある。ちなみに、古森会長は安倍首相の「経済界人脈の筆頭格」とされる「お友だち」である。
基礎研究軽視で科学が衰退 9割が非正規雇用
京都大学iPS細胞研究所はこの9月、国の新しい指針にそってiPS細胞を着実に治療現場へ届けるシステムとして、基礎研究部門を残したうえで製造や管理の部門の100人を分離し、iPS細胞の備蓄事業の一般財団法人「京都大学iPS細胞研究財団」を立ち上げたばかりである。当面は国の予算を運営にあてて、将来的に税制優遇を受けられる公益法人化をめざす方針だった。
山中所長は記者会見で、いきなりはしごを外されたような仕打ちに次のように語った。
「iPS細胞のストックは国民の貴重な財産で、われわれはこれをしっかり守る使命がある。いまiPS細胞を使った臨床がいくつかおこなわれており、これを製薬会社に引き渡すためにはあと5~10年はかかる。またそのころには次世代の研究テーマ、たとえば、現在年間何兆円も医療費を費やしている人工透析が不要になる腎臓組織を再生できる新しい開発も進むと考えられる。最も楽観的に見てもあと10年間は支援が必要だ。この研究の意義を理解して、100%の支援は望まないが、ひきつづき国からの支援をお願いしたい」
山中所長はまた、自民党などから「寄付金がもらえるのなら、その分、政府の支援は減らすべきだ」という発言があったことに関して、「寄付をしてくれた人に対しての冷や水になる」「そんなことでは誰も寄付を集めなくなる」と批判した。
さらに、同研究所が国のプロジェクトとして、年間約60億円の予算で研究を進めてきたが、「そのうち50億円は年限が区切られた資金であるため、多くの職員は非正規雇用になっている。有能な人材を維持するのが難しい。私もマラソンを走ることで寄付募集活動をしているが、非常に苦しい予算で研究所を運営している」と訴えた。同研究所のホームページに掲載された山中所長の研究基金への寄付の「お願い」は、「iPS細胞実用化までの長い道のりを走る弊所の教職員は9割以上が非正規雇用です」という一文から始まっている。
山中所長は各地のマラソン出場はもとより、テレビの科学番組や報道番組への出演やプロ野球の始球式などみずからが広告塔となって寄付集めに奔走してきた。マラソンのチャリティーランナーで訴えて集めた寄付金は143億円に達する。「このままじゃ続かない。10年後、20年後に日本の科学の力が、どんどん低下しちゃうんじゃないかなと非常に心配です」(テレビ番組)という山中氏の危惧は、他のノーベル賞学者を含む科学界全体の真情を代表している。