本紙は19日、本紙号外「語れなかった東京大空襲の真実」を東京都墨田区に続いて、中央区日本橋界隈でも配布した。江戸時代から続く老舗の多い日本橋界隈でも、東京大空襲で甚大な被害を受けながら、慰霊碑も慰霊行事もない実態が明かされ、当時の経験が受け継がれていないことに強い憤りが渦巻いており、本紙号外に強い共感が示された。
体験抹殺の背後にアメリカ
江戸時代から城下町の中心として栄えてきた日本橋は、飲食店や物販など創業100年をこえる老舗が軒を連ねており、終戦末期の東京大空襲によって町の大部分を焼失し、全焼家屋は約2万2000戸、約5000人が死傷したといわれる。だが、戦後の都市開発によって商業ビルが林立する一方で、東京空襲の慰霊碑もなく、東京空襲の記憶をとどめるものはほとんど残されていない。本紙号外は商店主たちから興味深く受けとられ、当時を知る人人から口口に体験が語られた。
呉服や雑貨などの問屋が集まる横山問屋街(日本橋横山町)の60代の男性は、本紙号外を受けとると、「おお! 東京大空襲か」と強い関心を示し、「この店も空襲で焼けた後から、店の主人が苦労して築き上げてきたものだ。私の家も戦争当時は浅草で商売をやっていたが、空襲ですべて焼かれてしまい、地方の親戚を頼って疎開した後、私が生まれて再び東京に戻ってきた。しかし店がなくなっているから商売を続けられず、戦後はずっとこの店に勤めてきた。昔からこの近辺にいた人はそういう人が多く横山町でも店主は地方から出てきた人がほとんど。だから空襲体験が話題になることは少ない。今は教育でも、東京大空襲のことを教えないからみな知らない。ぜひこの新聞で知らせてほしい」と期待をのべた。
鞄問屋の60代の男性は、「東京大空襲を扱うところがほとんどないなかで、このようにして調べてもらってありがたい。私たちは、小さいころから親父たちに体験を聞かされて育ってきた。大学を卒業してから独学でいろいろ勉強してきた」とのべ、「東京大空襲は、まぎれもなく米軍による大量虐殺だ。GHQは戦後、共産党にもカネをつぎ込んできているから、共産党も日教組の先生も空襲のことを教えていないのではないか。GHQは、自民党と共産党を対立しているように見せかけながら、実はどちらも養成してきたようなものだ。私の店も空襲で焼けたが、戦後すぐにバラックを建て、昭和二五年には今の建物を建てて商売を始めた。私たちの世代は各家ごとに体験が受け継がれているが、その体験はほとんどの人が知らないものだ。これを伝えていくことが重要だ」とのべた。
店の外壁に空襲によって焼け野原となった日本橋界隈の空撮写真を大きく掲示している老舗日本料理店の男性店主は号外を持っていくと、料理中だったにもかかわらず厨房から出てきて「私の家は疎開する数日前に空襲にあい、家財道具からすべて焼かれた。祖父は東日本橋の方で、倒れて亡くなっているのが見つかっている」とのべた。
「私は昭和27年頃に空襲で焼け残った久松小学校に入学したが、当時のことはなにも教わらなかった。後で調べると、コンクリートの校舎外側以外はすべて焼けているから、本当は屋根裏の板などは黒焦げだったのだと思う。その後、すべて新築校舎に建て替えられた。学校周辺や多くの犠牲者を出した明治座の辺りも、写真を見ればすべて焼け野原だが、私が物心ついた頃にはすべて建て替えられて空襲にあったことはほとんど分からない。空襲を伝えるものが皆無に近い。久松町会でも多くの人が亡くなっているが、明治座のそばの慰霊碑で慰霊祭をやっている以外は、慰霊祭をやっている所はない。わざわざ下関から来ていただいて感謝している」と丁重にお礼をのべた。
日本橋久松町の80代の婦人は、古くから繊維問屋をしており、当時は埼玉県に疎開していたが、幼い弟と妹を空襲で失ったことを明かした。「弟と妹が近所の人と一緒に逃げた久松小学校では、逃げ込んだ人のほとんどが亡くなった。だが、今でも慰霊碑はない。骨は横網の慰霊堂にまつられているというが、まだ幼い骨は柔らかくて、すべて焼けてなくなってしまったのではないか」と無念さをにじませ、「もう二度と戦争はしてはいけない。空襲でたくさんの人が亡くなったことを伝えていくことはとてもいいことだ。若い人たちに頑張ってもらいたい」と期待を語った。
東日本橋で明治時代から続く飲食店の男性店主(60代)は、「わざわざ山口県から来ていただいてありがたい」と快く号外を受けとり、厨房にある神棚を指さして「わが家は3月10日の大空襲でこの場所に焼夷弾が直撃して全焼した。油脂焼夷弾は今のクラスター爆弾と同じ収束爆弾で、空中で分散してバラバラと落とされ、筒状の焼夷弾の中に入れられたゼリー状の油脂が飛び散り、水では消えないし、ぬぐいとることもできない。人間の手足に付着すれば、腕を鉈で切り落とすしか助かる方法はないといわれた。だからみんな空襲が始まればとにかく家屋の中に避難するようにしていたが、木造家屋も防空壕も燃えたので蒸し焼きになった人が多い。父親たちは関東大震災での経験から、建物に入らず、鍛冶町の焼け跡に避難して助かった。隅田川を渡って深川方面に逃げた人は全滅したといわれている」と話した。
また、「家も財産もすべて失った戦後の復興は大変なものだったと思う。もう少し戦争が早く終わっていたら、広島、長崎も、東京大空襲もなかったはずだ。あれほどの大殺戮を忘れるようなことがあってはならない。だが日本橋でも東京空襲の慰霊碑はなくまともに継承されていない。東京大空襲の前には江東区の上空で厚木の海軍戦闘機がB29に体当たりして撃墜させている。彼らの死を無駄にしないためにも、東京大空襲の実態を伝えていくべきではないか」と激しい口調で語った。
日本橋人形町のたばこ屋の男性(83歳)は、「この周りでは明治座付近の空襲被害がとくにひどかった」とのべた。鉄筋だから安全といわれていた、明治座に避難した大勢の人が窒息死し、蝋人形のようになって死んでいたり、隅田川に大量の死体が浮いていたことを語り、「当時は箱根に疎開していたが、関東地方は毎日のように米軍の空襲を受け、太平洋から東京方面へ向かうB29の群れが空を覆い尽くして真っ黒になっていた。子ども心にこんな戦争が勝てるわけがないと感じていた」と話した。
また「終戦後の生活がもっとも苦しかった。箱根は空襲を受けなかったが、食料がなく、イモのまわりに米がくっついているだけの“イモご飯”を食べていた。13歳だったが箱根細工をつくり、横須賀の米軍相手に電車を乗り継いで売りに行っていた。その帰りに素うどんを食べるのがささやかな楽しみだった。米軍が吸って捨てたタバコを拾い集めてバラし、巻き直して売ったりもした。食いつなぐのに必死だった。戦争になれば教育、メディアもすべてが嘘を教え込ませて国民を欺き、みなを戦争に向かわせるんだ」と当時の経験を重ねて語った。
日本橋馬喰町で雑貨問屋を営む80代の婦人店主は、「馬喰町から京橋、浜町、日本橋界隈はほとんどが焼け、神田佐久間町からコンクリート建ての三越だけが見えた。建物は残ったが内部は全焼していた。2月24日と3月10日の2回攻撃を受けたが、このあたりは江戸時代に干拓されているので地下は砂地で、地下を掘ると海水が出るから逃げる場所がなかったという。姉は爆撃から守るために祖母に覆い被さって亡くなったと聞いている。岩本町の和泉橋は熱くて渡れず、神田川も死体がたくさん浮いていた。日本橋の欄干に焼夷弾で燃えた後や機銃掃射で空いた穴などが残っているが、この地域でも若い人は空襲の事実すらほとんど知らない。ここにいた人たちは終戦後は各地に散ってしまい、日本橋育ちの人もほとんどいなくなっている。ぜひ伝えてほしい」と切実な面持ちで語った。
慰霊碑建立 運動の力に
戦後、10万人が殺された東京大空襲の慰霊碑すら建てない行政に対する怒りは東京都内で充満し、一向に動かず無視を決め込む国に対して、生存者や遺族はあらゆる手段を通じて働きかけをおこなってきた。号外は関係者の強い共感を集め、「知らなかった事実を伝えてくれてありがたい。運動を盛り上げる力にしたい」と語られている。
江東区森下に住む空襲遺族によれば、20年前に国立の慰霊碑建立を求める署名活動を都内全域に呼びかけておこない、11万5000筆をこえる賛同署名が集まった。その署名を持参して管轄する総務省に要望に赴いたところ、「署名の数ではなく、区議会、都議会、国会の採択があれば考える」と指示され、発起人を中心にして関係機関を奔走。区長や議員に働きかけ、中央、台東、墨田、江東、江戸川、荒川の6区議会、都議会で意見書が採択され、2005年には衆議院本会議で「全国戦災犠牲者平和慰霊碑建立の請願」が採択可決されるところまでいった。これを機会に国会議員連盟までつくられ、顧問となった安倍首相自身が遺族らに対して「さまざまな課題を乗りこえて国として慰霊できるようにしたい」といいながらも、現在まで実現のメドすら立たぬまま、体験者が消えていくのを待つかのような「牛歩戦術」が続いていることに苛立ちが募っている。
署名活動に携わってきた86歳の男性は、空襲によって3人の肉親を目の前で火だるまにされた経験を語り、「あの炎の中、ヤケドで赤く膨れあがって絶命寸前の人人が“水”ということもできず、私の目の前で“ずう…ずう”と水を求めながら死んでいった。死んでいった人たちは何もできない。私たちがやれることは、せめて慰霊碑を建て、彼らの死を犬死ににさせないことだと思って活動を始めたが、平和の碑を建てたいというだけのことが70年経っても実現されない裏には、アメリカの占領政策があるのだということがよくわかった。毒ガスが国際法違反なら、なぜ戦場からはるか後方にある東京で無抵抗の市民を焼き殺すことが戦争犯罪でないのか。これは単に“しかたがない”で片付けられることではない。虫でも殺すような感覚で日本人が殺された。安保法案で、アメリカが戦争した国に自衛隊が送られ、日本が危険にさらされる。日本の防衛のためといいながら、また犠牲にさらされることになるのではないか」と語気を強めた。
「私たちに残された時間は少なく、このままでは当時を知る人はいなくなってしまう。最後は世論の力だと思うし、ぜひ大宣伝してもらいたい」と号外への共感をのべ、「活用させてもらいたい」と号外を預かった。