「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る」という言葉がある。それはどん詰まりの極限状態に追い込まれたとき、如何ともし難い試練や困難にぶち当たったときこそ、その人間の真価が問われるという教えだ。修羅場でこそ醜態はさらされ、逆に試練に立ち向かっていく者の性根を他者は目撃する。一度負け癖がついた者は、その条件性をあげつらいながら、「仕方がない…」「このような事情があったから…」と責任転嫁してみずからを慰め、何度も何度も退いていくものだ。困難や試練が人を鍛えるといわれるように、挫けずに乗りこえることによってしか、人生で直面する困難など解決のしようがないのである。ひどい苦労は、その次のひどい苦労を乗りこえる糧だと思えば幾分気持ちも楽になり、そんな苦労続きにも楽しいことや嬉しいことがたまにあるから、人生楽しいのだ--と年配者ほど説得力をもって口にする。「だから苦労や失敗を恐れるな。笑って乗りこえていけ」と。なるようにしかならない人生の一つの構え方なのだろう。
最近、ある記事をめぐって「面白おかしく書かれている」云々の批難めいたメールが同僚記者のパソコンに送られてきた。とりたてて批判されているわけでもないのに、我が事のように立腹していることが皮肉めいた文面からは伝わってきた。事情がわからない読者の皆様には申し訳ないが、こうしたやりとりは水面下でゴチャゴチャしていても仕方がないので、取材テーマを共に追った記者仲間としてはっきり言いたいと思う。面白くもなければおかしくもない。こちらは真顔なのだ。むしろ当事者ならば開き直って攻撃的になっていることに驚きを禁じ得ないし、保身のためにあれやこれやの理屈を並べるなら、それらすべてが言質をとられ、嘘とホントの振るいにかけられていることを自覚するべきだと強く思った。
試練や困難にみずからはどう向き合ったのか、まず他者や付属的要因に責任転嫁するのではなく、誠実に向き合うことが必要だ。それでもわからないのであれば、その仲間たち? にも伝えて欲しいと思う。「今後一切、匿名のおかしな手紙をよこすな」「見苦しいので、これ以上言い訳がましい振る舞いをするな」と。腹を括っていない争い、物陰から石ころを投げているようなずるい争いに付き合う気はない。周囲を利用して策に溺れているなら、なおさらである。それでもなお自己保身のために失敗を責任転嫁するというのであれば、本気でぶつかり合うしかないので覚悟を決めてやり合おうじゃないかと思うのである。
社会運動などでも苦しい局面であればあるほど、日和見主義が排外主義に転嫁し、自己保身のために裏切ったり、かつての仲間を攻撃してくるというのはままありがちだ。根底に横たわっているのは自分のため、自分を守るためであり、諸々の屁理屈を取り除くと自己保身である。そのためにあらゆる条件性や理由をあげつらい、ビビッて退いていくことを覆い隠すために他に責任転嫁し、正当化する行為が必要となる。理屈など、あとからいくらでもひっついていく。
「疾風に勁草を知る」。抗って身体を張っていく際に待ち受けている修羅場でこそ、人間は問われる。原発建設や基地闘争など、社会運動全般を見ても同じである。例え耐えがたいような困難だったとしても、みんなのために身体を張って乗りこえなければリーダーにはなり得ない。負け癖がついていくのが悔しければ、自分で払いのける以外にはないのだ。 吉田充春