アメリカのロサンゼルス近郊にある福祉施設で14人が犠牲となる乱射事件が起き、全米を震撼させている。90年代末にコロンバイン高校で起きた乱射事件では13人が殺害され、2007年のバージニア工科大学における乱射事件では32人もの命が失われ、2012年にはコロラド州の映画館における乱射事件で12人が殺害されるなど、乱射事件がこれでもかとくり返されるのがアメリカ社会だ。銃弾によって犠牲となる人人の数は年間一万人をこえるというから、まさにテロ国家ではないかと思う。よその国のテロよりも自国のテロなり銃社会の犠牲者をなんとかしなければ、「年間一万人」という数字は余りにも多い。
民間で起きる乱射事件の他に、近年は白人警官が黒人を撃ち殺す事件が頻発して、ボルチモア暴動のように軍隊出動の事態に発展する例も少なくない。それはまるで、イラクの戦場に放り込まれた米兵が恐怖心から防衛本能を働かせ、民間人を撃ち殺すのと似ている。人種差別意識を根底にして白人警官が横暴であることと同時に、治安当局の側が民衆に対して恐れおののいていること、国内矛盾がそれほど激化していることを反映している。
そうして「テロ対策」が強化された結果、クリスマスを迎えるニューヨークは早くも戒厳令が敷かれ、銃で武装した警官が街の各所で目を光らせている光景がニュースにもなった。今や「メリー・クリスマス」も命がけで、キリスト教徒以外の人間にとっては、なんと大変な誕生祭なのかと思うばかりだ。不安多き社会のなれの果てのようにしか感じないのである。
「テロ対策」と称して銃口が向かっている先はいつも国内弾圧である。1%もいない富裕層が99%の国民を虐げる構造に批判の矛先が向き、黒人暴動だけでなく、近年はオキュパイ運動(「ウォール街を占拠せよ」)をはじめとした反乱があいついできた。サブプライムローンなど瞬間風速の夢を見せられて金融資本の餌食になり、最終的に路頭に放り出された国民が山ほどいたり、医療福祉はみな自己責任で、たかが盲腸の手術をするのに400~500万円請求されるとか、日本で暮らしている者から見ても酷すぎる社会構造であることは、以前から専門家が警鐘を鳴らしてきた。そうやって資本主義が末期的段階を迎えた社会のなかで、国内の反発を武力で封じ込めるのにうってつけなのが「テロ対策」に他ならない。それはフランスをはじめとした各国にも共通する。
テロ社会・アメリカの後を追いかける日本社会にとっても決して他人事ではない。
吉田充春