「訴えを届ける」。選挙では初歩的であたりまえに思えるこの所作が、下関市議選では極めて希少価値の高いものになっているようだ。多くの候補者がもっぱら「候補者名を届ける」に終始しており、なにをどうしたいのかが伝わってこないのである。名前の連呼以上に叫ぶ言葉を持ち合わせていないのか、それとも組織票によって当選できるという過信なのかはわからないが、本人及び陣営が有権者に響く訴えを届けていない、この期に及んで中身がからっぽであるというのは明らかに怠慢である。
いかなる選挙であれ、政治家になろうという者なら、自身の政治信念や政策、思いをみずからの声で有権者に届け、まず第一に熱意や気持ちを届けるのがあたりまえの話だ。そのために街頭演説をくり広げ、あるいは個人演説会を企画し、支持者の掘り起こしに全力を注ぐ。支持者だけでなく、より広く見知らぬ不特定多数の有権者に向かって考えを述べ、その反応の善し悪しを感じとったり、時にはヤジを飛ばされるなかで鍛えられ、度胸をつけ、演説そのものも進化していくものだ。「政治家は選挙で鍛えられる」というのは、このような緊張や努力、葛藤を乗り越え、腹を括って挑んだ先にしか当選はないからである。
下関市議選を見ていると、現状ではフルネームだけ熱意を込めて叫ばれても、有権者としてはどうしようもないのが実際だ。優しいトーンのフルネーム、一生懸命さを醸し出したフルネーム等等、ウグイス嬢の腕に頼り切った名前の連呼だけがむなしく木霊し、なにをどうしたいのかはさっぱりである。有権者の懐に飛び込んで1票を獲得する熱量が感じられないのだ。そして冷え切った街角のあちこちで、「あまりにも低レベル過ぎやしないか?」と非難囂囂なのである。恐らく投票率は前回以上に下がると見られ、下手をすると40%台を下回るのではないかといわれている。そのもとで当選ラインが下がり、たいして洗礼を浴びないまま組織票依存の者だけが勝ち抜けて喜んでいるというのでは、ますます議会の低俗化に拍車をかけることになる。
選挙戦はいよいよ終盤を迎える。「低レベル過ぎる」という街の評価を覆す気概がある陣営は、是非とも街頭に繰り出して思いの丈を言葉にして発信するべきである。その演説を聴いて「ありゃダメだ」とか「応援してやろう」と決めるのは有権者であり、このまま6割にそっぽを向かれた選挙によって「議員でございます」と威張り始めるのはおこがましい話だ。 武蔵坊五郎